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思索ノート(25)

          思索ノート

       ――時の狭間に――

            小幡照雄

    2008年(8~12月)

 宿業とは何か。宿業転換とは何か。文上から文底へ幾重にも思索を深めなければならない。宿業を問う場合、それは自己の宿業なのか、家庭の宿業なのか、地域の宿業なのか、集団の宿業なのか、国家の宿業なのか、人類の宿業なのか、地球の宿業なのか、宇宙の宿業なのか。宇宙即我なる仏にとって、宿業とは何か。そして人間革命とは何か、広宣流布とは何かについても、その文底を問いつづけなければならない。さらに爾前権経の讃歎と法華経文底の讃歎はどう違うのか。
 池田先生は世界の政治的権力者や有識者と対談し、常に相手を讃歎している。どんな業績もその色心は両義性を秘めている。池田先生は今、『新・人間革命』の中で、ソ連への「平和旅」について詳細に語っている。そこで展開されたのは妙法に命(もと)づく対話だったのか、それとも国家・集団の権力者同士、あるいは有識者(声聞)同士の対話だったのか。その平和旅の後、ソ連邦はどのように変わったのか、世界はどう変わったのか、格差社会の中で虐げられた人々の生活はどう変わったのか。池田先生に讃歎された権力者や有識者はどうなったのか。
 両義的・多義的な事象を一義的に讃歎するとき、どのような波紋が広がるのか。一義的な讃歎は如是実相を文上に還元し、その文底の悪を破折する道を閉ざす。権力や社会的地位、肩書、組織、集団は、善悪両面の力を増幅する。外道の力で身を飾る者は等身大の力を失う。そこに事象の両義性が照らし出されている。師が開いた本果の仏道に本因妙の仏道を切り開く。そこに弟子の使命があるのではないか。            (八・一二)

 現在、創価学会あるいは公明党が組織を挙げて非難している福島・原島、竹入・矢野といった人たちは、かつて人材の宝庫から選び出され、組織の最先端で広宣流布の指揮を取っていた人材である。その功績は何回も池田先生から賞賛されていた。その人材が今、池田先生に賞賛されていた当時から謗法者だったと非難されている。会合を開くたびに、かつての功労者と讃えられた一人ひとりの言動を取り上げて厳しく糾弾する組織。集団が個人を裁くとき何が起こるのか。個人は必ず裁くにふさわしい人格に仕立て上げられる。
  創価学会と公明党が組織を挙げて、個人の人格を否定するキャンペーンを繰り広げているのは、一体何を守るためなのか。極楽寺良観は幕府の権力者と結託して日蓮という個人を佐渡へ流罪した。権力者が自らの利権を守るために、一人の人間の人生を否定しようとしたのである。
 巨大化した組織と個人の葛藤の中に、妙法とは全く異質の色心が浮かび上がってくる。それは日蓮大聖人を迫害した極楽寺良観と平左衛門尉の色心、すなわち真言亡国・律国賊という魔である。日蓮大聖人は、「自他の隔意を立て、彼は上慢の四衆、我は不軽と言う。不軽は善人、上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり」(『御義口伝』常不軽品 第廿三無明礼拝住処の事)と厳しく教示されている。文上で他者を誹謗・中傷する心とは何か、一人ひとりが事象の文底を深く思索しなければならない。    (八・一六)

〈視覚と聴覚について〉

 仏法は六根(ろつこん)(眼根(げんこん)=視覚・耳根(にこん)=聴覚・鼻根(びこん)=嗅覚・舌根(ぜつこん)=味覚・身根(しんこん)=触覚・意根(いこん)=統覚〉の働きを、そのまま神通之力ととらえている。この六根の働きによって、人間は自分の生きる世界を認識する。六根は六境に縁して六識を生ずる。六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)・六境(色・声・香・味・蝕・法)・六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)の葛藤は曼陀羅を描き出す。そこに開く世界を十八界という。人間はそれぞれ独自の十八界を生きているのだ。
 幼児の生きる世界は視覚と聴覚が中心となっている。視覚は形、色、動き、空間をとらえ、聴覚は音、声、響き、時間をとらえる。人間の生きる時間(心法)と空間(色法)は不二だが、視覚が主体となる世界は物本事迹となり、聴覚が主体となる世界は事本物迹となる。視覚を失った人の生きる世界は視覚の境界を超えている。

      (八・二〇)

 折伏とは何か。折伏には外道、爾前教、権大乗教、法華経文上、法華経文底の違いがあるのか。文底独一本門の折伏とは何か。妙法に勤行・唱題すれば、どんな未熟な破折も対話も折伏になるのか。摂受と折伏の本義もまた、幾重にも文底を思索しなければならない。
 未熟な我見を押し通さなければ、「法を下げる」と思い込んでいる幹部がいる。世俗的な欠点をあげつらうことを、指導と勘違いしている幹部がいる。組織内の階級制度が権実雑乱の根を広げ続けている。階級制度のトップの座にいた原島・福島両氏の謗法に象徴される権実雑乱の根は、どうすれば断ち切れるのか。権実雑乱の謗法に染まった幹部の指導を受けることは何を意味するのか。
 未熟な幹部が妙法と無縁の指導をして同志の福運を断ち切っても、国法によって裁かれることはない。未熟な幹部に福運を断ち切られて苦しんでいる人たちを誰が救うのか。宗門の僧侶や創価学会の幹部の中に、そういう力のある人はいるのか。仏法は「成仏は無師智なり」と説いている。成仏の道を開くのは、文底独一本門の妙法に唱題し、帰命する宇宙即我なる存在以外にないのである。他者や集団に成仏の記別を求める己心の錯誤を正さなければならない。
 未熟な我見を押し通さなければ法を下げるという思い込みは、公明党の国会議員にまで浸透しているようだ。国会議員という格差社会の頂点に居座っているうちに、格差社会の底辺で苦しんでいる人々の心が見えなくなっているのではないか。高齢者を苦しめている法律を自画自賛して、実態を無視した理論で言いつくろう心に何が潜んでいるのか。「一切衆生の苦しみは、我が苦しみ」という同苦の心を失った集団。公明党の国会議員はみな、竹入氏や矢野氏、市川氏の眷属に成り果ててしまったのか。(八・二一)                     

 自行化他の折伏とは何か。自行の折伏とは己心の魔の破折である。己心の魔とは何か。その己心の魔を破折する基本は、妙法曼陀羅への勤行・唱題、教学の研鑽である。従って化他の折伏は自行即化他となるべきである。
 勤行・唱題とは何か、どのような勤行・唱題なのか。教学の研鑽とは何か、どのような教学の研鑽なのか。そこに誤謬が潜んでいるのであれば、それを正さなければ宿業転換も広宣流布も真言的な魔に犯され、権実雑乱のスローガンに堕してしまうだろう。前車の轍を踏まぬよう文証・理証・現証に照らして深く思索しなければならない。
 さらに思索とは何か、どのような思索なのか、どのように深く思索するのか。思索には外道の思索、声聞・縁覚の思索、菩薩の思索、仏の思索など多くの段階があるのか。文底独一法門の思索とはどうあるべきなのか。西欧形而上学的分析・統合の論理(声聞・縁覚の智慧)では把握できない妙法を悟る思索はあるのか。 妙法曼陀羅の思索とは何か。                                         (八・二三)

「言葉」は事(こと)の端(は)という意味を持つ。「事の端」は事(こと)、すなわち事象の文底を覆うと同時に開く扉となる。その扉を幾重にも開き、法性(ほつしよう)の淵底(えんでい)・玄宗(げんしゆう)の極地(ごくち)に迫ることが文底独一法門を学ぶ基本なのである。法性の淵底・玄宗の極地とは何か。妙法はさらに、その文底に秘められている。妙法という言葉もまた、事の端にほかならない。諸法実相、色心不二、久遠実成、久遠即末法、三諦円融、依正不二、自他不二という言葉も、それぞれ事の端、すなわち文底を覆うと同時に開く扉なのである。道元は「不二」「円融」という言葉に潜む虚構性・限界を自覚していた。 常に文底を見失わぬ覚悟が必要なのである。                                                     (八・二四)

一法華経極理の事  仰に云く、迹門には二乗作仏・本門には久遠実成此をさして極理と云うなり。但し是も未だ極理にたらず、迹門にして極理の文は諸仏智慧甚深無量(しよぶつちえじんじんむりよう)の文是れなり。其の故は此の文を受けて文句の三に云く、竪(たて)に如理の底に徹し横に法界の辺を窮(きわ)むと釈せり。さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力(によらいひみつじんづうしりき)の文是なり。所詮日蓮が意に云く、法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚(あつ)めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり。爰(ここ)を以て釈に云く、惣じて一経を結するに唯だ四のみ、其の枢柄(すうへい)を取って之を授与す云云。上行菩薩に授与し給う題目の外に法華経の極理は無きなり云云。(『御講聞書』)

 迹門の極理とされる「諸仏智慧甚深無量」の「諸仏」は中諦、「智慧」は空諦、「甚深無量」は空諦となる。この言葉は三諦円融の妙法を示している。また「竪(たて)に如理の底に徹し横に法界の辺を窮(きわ)むと」の「竪(たて)に如理の底に徹し」は時間軸の極理、「横に法界の辺を窮(きわ)む」は空間軸の極理である。すなわち迹門の極理はすでに、本門の極理を示しているのである。本門の極理とされる「如来秘密神通之力(によらいひみつじんづうしりき)」の「如来秘密」は中諦、「神通」は空諦、「之力」は仮諦となる。迹門も本門もその文底を開けば、南無妙法蓮華経を秘沈していることが見えてくる。「其の枢柄(すうへい)を取って之を授与す」の「枢柄(すうへい)」もまた、枢(心法)・柄(色法)、すなわち色心不二なる妙法を指し示している。

『御講聞書』は日蓮大聖人の講述を日向がまとめたものとされている。創価学会内部にも、五老僧の一人である日向が筆録したものとして「内容的には『御義口伝』より素朴な表現が多く、種脱相対が明らかになっていない」などといった批判をする傾向が見られる。こうした批判はそのまま日蓮大聖人の文底独一法門に対する異議申し立てになっているのではないか。『御講聞書』には「弘安三年五月二十八日日向に与う」という添え書きがある。内容の吟味もせずに、ずさんな批判をしているとすれば、それ自体、念仏・禅・真言・律的な謗法を犯していることになる。日蓮大聖人の重要な法門を捨閉閣抛しようとする心とは何なのか。

 文底独一法門に背を向けた日蓮正宗の僧侶や退転した学会の幹部はみな、五老僧の眷属だったのだろうか。その色心は何だったのか。福島氏や原島氏が学び、書き、語った教学や竹入氏や矢野氏が語り、書き、実践した政治路線は何だったのか。そのことを問い、何をどうすべきか、提言する人はいない。そのようなことは、誰にもできないのかもしれない。今、ここに脈動しつづける人間・宇宙・生命が描き出す色心の連関と葛藤は、私たちの未来に何を描き出そうとしているのか。あくまでも不特定多数の信心ではなく、かけがえない独自の生命・人生を担う一人ひとりの信心が問われているのである。集団の論理と行動は、それを覆い隠そうとする。

 中国で初めて開催された第二〇回オリンピック北京大会が二十四日夜、十七日間にわたる熱戦の幕を閉じた。今回の大会で特に注目されたのは、中国が国家の総力を挙げて展開した絢爛豪華な開会式と閉会式の演出である。そこには中国社会を覆う明暗がくっきりと映し出されていた。日本の明治政府は富国強兵と権力者の利権確保によって格差社会を構築し、底辺で苦しむ人々を切り捨てた。今なお、日本はその影を引きずりつづけている。
 中国共産党は前車の轍を踏んでいるのではないか。武力でチベットの民衆を弾圧しているのは、何のためなのか。武力を行使する兵士たちは、国家の命令を遂行する歯車にすぎない。中国共産党は今なお、自由を求める民衆を弾圧した天安門事件の影を引きずりつづけているのだ。
 兵士たちは自分の意思で国家の命令を拒否すれば、過酷な裁きを受けることになる。全体主義に潜む鬼神が牙をむいて待ち受けているのだ。それは明治政府の富国強兵、権力者たちの私財蓄積から昭和の第二次世界大戦に到る日本の軌跡と重なっている。
 オリンピック北京大会を飾る豪華絢爛な演出は、全体の中の歯車となった民衆の心を映し出している。中国政府の政治路線が投げかける暗い影。それは権力化・能率化・情報化・管理化社会に潜む念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の魔なのだろうか。
                                   (八・二五)
〈現行年金制度の問題点と改革案〉 

 年金制度をめぐる新聞やテレビなどマスコミの報道を見たり、閣僚や評論家の発言を聞いていると、これで本当に国民の生活を守れるのかという思いがますます深まってくる。現在、国会や与党、野党の内部で論議されているような現行制度の枠内での改正ではなく、制度全体の根本的な改革が問われているのではないか。何人かの意見を次のようにまとめてみた。

〈問題点〉
①民間の保険会社に準ずる仕組みになっている。
②税金とは別に基金を設けている。
③徴収額が高いほど支給額が高くなる。その一方で、文化的な生活を維持できない低額支給という問題が放置されている。
④十分生活できる所得があっても、徴収額に対応した金額が支給される。
⑤官僚の怠慢、サボタージュ、重大なミス、不当な流用、収賄に対する厳しい罰則がない。
⑥国会議員や地方議員のために特権的な制度が設けられている。

  〈改革案〉
①民間の保険会社に準ずる仕組みを抜本的に改める。
②基金制度をやめ、すべて税金から支給する。そのために税金制度を抜本的に改革し、個人所得が高ければ高いほど、税金が大幅にアップする仕組みにする。
③支給額は平等とし、すべての国民に文化的な生活を保証する金額を支給する。
④十分生活できる収入がある者は、年金支給の対象から外す。
⑤官僚の怠慢、サボタージュ、重大なミス、不当な流用、収賄に対して厳しい罰則を設ける。
⑥国会議員や地方議員の特権は認めない。                                      
⑦格差社会の底辺で苦しんでいる人々の生活を守る制度を取り入れる。

 人間の社会に矛盾があるのは当然であり、それを正そうとすれば新たな矛盾が生まれる、という見解もある。その通りだと思う。この改革試案にしても、自由競争や個人資産の問題など、さまざまな葛藤がひそんでいる。公明党の改革案に対しては、ほとんどが自民党案の枠内での改正に留まり、単なるつじつま合わせ、せいぜい応急手当でしかないという厳しい意見もある。このままでは、特に高齢になった支持者の心が離れていくのではないか。せめて、このような思いを抱いている人たちがいるということを、しっかり受け止めて欲しいものだ。                          (八・三〇)

 師云く、破鏡不重照(はきようふじゆうしよう)、落華難上樹(らつかなんじようじゆ)。この示衆(じしゆ)は、破鏡の正当恁麼時(しようとういんもじ)を道取(どうしゆ)するなり。しかあるを、未破鏡の時節にこころをつかはして、しかも破鏡のことばを参学するは不是(ふぜ)なり。華厳道の破鏡不重照、落華難上樹の宗旨は、大悟底人(たいごちじん)不重照といひ、大悟底人難上樹といひて、大悟底人さらに卻迷(きやめい)せずと道取(どうしゆ)しつべし。しかあれども,恁麼(いんも)の参学にあらず。人のおもふがごとくならば、大悟底人家常如何(かじよういかん)とら問取(もんしゆ)すべし。これを答話(とうわ)せんに、有卻迷時(うきやめいじ)とらいはん。而今(にこん)の因縁しかにはあらず。(『正法眼蔵』「大悟」)

 ここで「師」とは洞山良价の法嗣・華厳休静を指すが、その文底は他者性の師ではなく己心に開く師である。「正当恁麼時」とは、色心不二・久遠即末法なる時、すなわち〈今、ここに〉を示している。「未破鏡の時節にこころをつかはして、しかも破鏡のことばを参学する」とは、仮定法現在・仮定法過去・仮定法未来を使って思索することである。仮定法はすべて唯心となる。唯心の仮定法を使って色心不二なる存在を把握できるのか。それは不是であり、恁麼、すなわち在りのままの存在への思索とはならない。「大悟底人さらに卻迷(きやめい)せず」という説明も、「大悟底人家常如何(かじよういかん)」と問い、「有卻迷時(うきやめいじ)」と答える問答も唯心の仮説なのである。「破鏡不重照(はきようふじゆうしよう)、落華難上樹(らつかなんじようじゆ)」という言葉は、色心不二・久遠即末法なる生命の場を示している。                           (九・一)

 福田総理が辞任した。テレビには、身心ともに疲れ果て、すべてをあきらめた総理の表情が映し出されていた。政局はますます昏迷の度を深めるだろう。与党も野党もとうの昔に国民のための抜本的な政治改革など忘れ果てている。与党が手詰まりなら、野党もまた手詰まりなのだ。そんな状況の中で二者択一を迫られる国民もまた、手詰まり状態に陥っている。
 選挙のたびに無責任な政党や政治家が選ばれるのは、身勝手な国民一般に責任があるのかもしれない。数の論理で与党に取り込まれている公明党も、国民に対して責任を負っている政党とはいえない。無責任な立場で身勝手な楽な仕事をしている不精者と言われても仕方ないだろう。それを裏付けるかのように、自民党のおこぼれ(国会議員の特権)を頂戴しているうちに、何人もの脱落者を出してきた。それも竹入氏や矢野氏をはじめ最高幹部の中からである。いずれも利権がらみの脱落であることは何を示しているのか。
 今の公明党に政権を担える素質と能力のある人物は果たしているのだろうか。政治改革は看板だけで、その実質は自民党案のちょとした手直しというのでは、無責任な不精者になるのは当然なのだ。つじつま合わせに手慣れた政治家に、政治・行政を抜本改革する発想を期待できるだろうか。仏説観普賢菩薩行法経には「耳根は乱声を聞いて、和合の義を壊乱す、是れに由って狂心を起こすこと、猶お癡なる猿猴の如し」と説かれている。公明党の国会議員は、文底独一法門から何を学んでいるのか。

 外道の利益を信心で飾ってはならない。.それは信心していればすべてが功徳となる、だから何をやってもよい、という思い込みにつながるからだ。文底独一法門は、森羅万象すべてに両義性が秘められていることを説いている。体験した事象を一義的に褒め讃えるのも、一義的に貶めるのも妙法に違背する。一義的に褒め讃えることなく、一義的に貶めることもない体験発表とは何か、深く思索しなければならない。    (九・三)

 またもや相撲協会の不祥事が次から次へと発覚している。今回は、ロシア出身の若鵬(20)の大麻所持事件が発端となっている。汚名払拭を狙って相撲協会は抜き打ち尿検査を行った。これが裏目に出て、ロシア出身の二人の力士、幕内・露鵬(28)=大嶽部屋=と十両・白露山(26)に大麻の陽性反応が出たのである。そこで世界反ドーピング機関(WAD)が日本国内で公認した唯一の専門機関に精密検査を依頼したところ、違反基準に対して露鵬は五倍、白露山は十倍の数値を示した。事件を起こした三人の力士は既に解雇処分が決まっている。
  それにしても相撲協会の対応の悪さは、一体どうしたことなのだろうか。何かが起こるたびに目先の事だけにとらわれて、問題の背景や事実関係を調査することなく一方的・権威主義的な判断をしているとしか思えない。
 朝青龍の問題にしても、相撲は無理と診断された体で、よく国際交流のために頑張ったと評価する向きもあったのである。朝青龍は一言も弁明を許されなかった。あれはパワーハラスメントではないのか。横綱審議会やマスコミ、評論家たちの見解は、このパワーハラスメントを増幅した。無数の角を振り乱した地獄の獄卒たちが、集団で朝青龍という個人を裁いたのである。これは陰湿ないじめ、精神的な集団暴行ではないのか。朝青龍は鬱病に追い込まれ、自殺さえ考えたという。
  言葉や制度、肩書が一義的に権威化し、浅薄な目に映った表面的なことだけを根拠にして、人間が人間をいじめる社会。このような社会的状況を、日蓮は真言亡国・律国賊と破折したのである。真言亡国とは善が阻まれ悪がはびこることによって、國を滅ぼし、家を滅ぼし、人を滅ぼす色心の歪みにほかならない。律国賊とは、不当に裁く者と不当に裁かれる者の葛藤が生み出す色心の歪みである。相撲協会も横綱審議会もマスコミも、真言亡国の魔に犯されているのではないか。三証(文証・理証・現証)が事(こと)の本質を照らし出す。                          (九・九)

 またもや食生活に関連して、人間の心に巣くう魑魅魍魎の暗躍が発覚した。食品として売ることを禁じられていた汚染米が酒類や菓子類、給食用として販売されていたというのである。追い討ちを掛けるように、接着剤や肥料を製造する企業までが、同じ汚染米を食品用に売却していたことが発覚した。
 汚染米を購入して使用していた酒類や菓子類のメーカーの中には、問題がさらに深刻化して致命的な打撃を受けるのを恐れ、自社製品の回収に踏み切ったところもある。しかし問題が発覚する前に売られた汚染米は、すでに何年も前から製品化され消費されていたのだ。しかも汚染米は、問題になった中国製餃子と同じ有機リン系農薬成分メタミドホスが基準値の五倍に達していたことも明らかになっている。
 調査が進むにつれて、さらに汚染の広がりが浮上してきた。問題が次々と発覚したのは五日、米販売会社・三笠フーズ(大阪市)による汚染米の不正販売が発端だった。十日には、接着剤製造販売会社・浅井(名古屋市)と肥料製造会社・太田産業(愛知県)による汚染米の不正販売が明らかになった。
  汚染米を購入した企業の被害も、さらに膨れ上がっている。酒造会社ではアサヒビールをはじめ総計で一〇〇万本を超す酒が回収の対象になっているという。さらに病院や特別老人ホーム、保育園、学校給食など何百もの施設で同じ汚染米が患者や老人、子どもたちの口に入っていたのである。
 その背景には、農林水産省と汚染米を不正に売却した企業とのなれ合いが透けて見える。汚染米を食品として売却した企業のモラル低下は言語道断だが、農林水産省の汚染米管理はあまりにも杜撰で、国民を愚弄しているとしか思えない。社会保険庁と同じ怠慢、サボタージュ体質が覗いている。
 加害者側の農水省がいくら健康に影響はないと言っても、信用できるわけがない。まだそんなことを言える段階ではないのだ。すべてうやむやのままで、自分たちの責任を誤魔化すことだけに懸命なのだから。日本の官僚は有能といわれるが、悪智慧にも長けているのである。
 中国でも、大企業が製造・販売した育児用の粉ミルクを飲んだ幼児が次々と腎臓結石に犯され、なかには死亡した幼児もいるという。その企業は利益の増大を図って原料の牛乳に水を加えて増量し、それを誤魔化すために既に腎臓結石を引き起こすことが確認されている有毒物質メラミンを加えていたのである。
  同じ魑魅魍魎が日本と中国の企業家の心を蝕んでいるのだ。魑魅魍魎はすでに地球を覆い尽すほど増殖しているのかもしれない。人間の心を歪める魑魅魍魎は、コンピューターを汚染するウィルスによく似ている。それは伝統文化と異文化の交流と葛藤の中で増殖するのではないか。その汚染を防ぎ駆除するウィルス対策ソフトが必要なのだ。それはどこにあるのか。ウィルス対策ソフトは常に更新することが必要なのだ。
  国民の健康を致命的な危機に陥れたという点では、中國の場合も日本の場合も同罪である。これをどう裁くのか。そこにもまた、伝統文化と異文化の葛藤が浮き彫りになるだろう。                                                                (九・一四)

 創価学会の幹部の中から選ばれて国会議員として活躍した人たちはみな、外道の利権と肩書で身を飾ることはできたが、仏法の福運は失ってしまったのではないか。竹入、矢野といった党の最高幹部の現在の姿が、それを実証している。正直者が馬鹿を見ない社会を構築し、お年寄りの生き甲斐を守るといった当初の誓いは、いつの間にか忘れさられ、党が打ち出す改正案は自民党案の枠内での応急措置に終始している。国民を守る抜本的改革とはとても呼べるものではない。
  なぜ、こんな情けない政党になってしまったのか。自民党という謗法者の集団と慣れ合っているうちに、同じ謗法に汚染されてしまったのだ。竹入氏や矢野氏はその典型といっていいだろう。歴代政党のおこぼれとも言える国会議員の特権はちゃっかり戴いて、格差社会の底辺で苦しむ人々を救う抜本的改革を、一度も口にしない公明党の国会議員たち。一人残らず竹入氏や矢野氏の眷属に成り下がっているのだ。ある国会議員は朝晩の勤行・唱題など不用と言い放っていた。そこに公明党の政治路線を昏迷に陥れた魑魅魍魎が潜んでいるに違いない。                                              (九・一六)

 少数政党にとって連合政権に参加することは、一番安易な政治路線だという見解もある。大政党を補佐する形だが、最終的な責任を負う必要はない。言葉で自分を飾るだけで、解散・総選挙の責任はすべて他党に押しつけている。トップもその政治責任を問われることはない。そんな無責任を押し通せる立場にいることを自覚しているのだろうか。コバンザメのように大政党のおこぼれを頂戴しているのだから、独り立ちの政権担当能力など磨けるはずがない。それは実質的に官僚におんぶに抱っこということを意味する。大臣職についた公明党議員の足跡を見れば一目瞭然ではないか。官僚の不始末の言い訳ばかりしている情けない姿を、マスコミは容赦なく映し出している。
 このままではコバンザメのような習性が党の本質になってしまうだろう。既に、そういう体質がその言動からにじみ出ている議員もいる。それが竹入、矢野、市川といった真言型発想の名手たちが選んだ政治路線だったのである。福田総理は曲がりなりにも、懸命に解散・総選挙後の対応を考え、その体制を整えようとしている。自分が責任者であることを自覚しているからだ。
 ところが公明党の議員たちはみな、自己保身のための選挙運動に必死になっている。解散・総選挙後の対応は他人任せで、つじつま合わせの改革案しか出せない国会議員が国民のためなどと言っても、真言的謗法をさらに深めることになろう。文底独一法門で学んだ使命を忘れ果てた政治集団を謗法から救い出し、原点に立ち返らせる指導者はどこにいるのか。このままでは、国会議員の堕地獄は必至となろう。
 文底独一法門を信ずる学会員に爾前権教を説き、その実践を組織の権力構造を通して強要することは何を意味するのか。今、創価学会は組織を挙げて会合のたびに、幹部たちが竹入氏や矢野氏を糾弾しているが、これは一対一の対決ではない。どの幹部も一対一の対決に臨める力を持つとは思えない。その実質は組織を盾にした犬の遠吠えに似ている。これが自他を磨く仏道修行といえるのか。相手を外道だと思って罵る心は外道にほかならない。こんなことをすれば、外道の罵り合いがさらに激化することになる。
 日蓮大聖人は外道をはじめ爾前権教を厳しく破折している。文底独一本門に照らして爾前権教を正しく位置づけることなく、その信徒を外道的言動に駆り立てたり、一義的に罵ったり賞賛したりする言動は、どのような影響・波紋を広げるのか。すべての事象の文底を読み取るかどうかは、すべて信心・宿業によるものなのか。なぜ宗門と学会が対立を深め、権実雑乱の温床となってしまったのか。この問題の答えはどこにあるのか。一人ひとりに文底独一本門の原点の再確認が問われているのだ。            (九・一七)

 日蓮大聖人の文底独一法門は、事の一念三千の本尊がすべてであって、それをやさしく解説したりすれば、すべて爾前権教に還元されてしまうのではないか。釈尊も日蓮大聖人も集団の中で人師に教えられて人間・宇宙・生命の真実を悟ったのではない。仏教の原点は無教会主義ではないのか。池田先生という人師の側近に選ばれた人材の中から、利権にまみれた謗法者が続出し、醜態をさらけだしている。これは何を意味するのか。文証・理証・現証に照らして深く思索しなければならない。声聞・縁覚の視点で仏法を解説しながら、文底の極理に迫る教学は可能なのか。

 米証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻が引き金となり、世界の金融市場は混乱状態に陥っている。資本主義・自由競争主義の矛盾が一挙に噴出したのである。資本主義の頂点に立つアメリカが主導するグローバリズムの欠陥が露出し、世界経済を揺るがしているのだ。貪欲な人食い鮫の下腹にくっついて、そのおこぼれを頂戴していたコバンザメたちはみな、慌てふためいている。
  資本主義の矛盾を指摘し、武力革命による理想社会の建設を目標に掲げた社会主義・共産主義の指導者たちはみなその理想を放棄し、資本主義の仕組みを恣意的に利用して、私的な利権拡大に狂奔している。その本質は独立後、私的利権の拡大にのめり込んだアジアやアフリカの指導者たちと変わらない。いずれもかつては、革命・独立の英雄と讃えられた人物である。
  指導者たちの心に巣くう魑魅魍魎の群れ。見えない悪の力が世界を覆い尽くそうとしている。魑魅魍魎は四天王の眷属だといって、その悪を免罪し褒め讃えるだけでは、何も変わらない。それどころか、悪を助長するだけではないのか。弟子は師の本果を真似るだけでは、師を裏切ることになる。事象の文底を開き両義性を把握して、それを中道に開く実践が問われているのだ。文上の師弟は悪を助長する。文底の師弟だけが悪を善に変えるのだ。                                  (九・一八)

 どんな問題に対しても、その両義性を把握して中道に開くのが、文底独一本門が教示する存在(中諦)・認識(空諦)・実践(仮諦)の原点である。創価学会員の支持を基盤として国会議員となった人たちは、自分の努力で創価学会員以外の票を伸ばそうとしている。そこに謗法に付け込まれる隙が生じる。創価学会の内部にも謗法に汚染された幹部がいる。まして外部の組織や団体は、すべて外道の価値観で動いていることを忘れてはならない。
  外部に票を伸ばそうとするとき、その対話は相手の言い分を認めた上での論議、すなわち摂受にならざるを得ない。それが長引けば長引くほど相手の価値観に同調する、すなわり汚染されることになる。そして次第に文底独一法門の認識・実践が疎かになっていく。権実雑乱の謗法である。
 努力は習慣となり、習慣は本質となる。国会議員としての努力もまた、両義的なのである。その典型が竹入氏や矢野氏、田代氏、池田氏、大橋氏をはじめ、その眷属たちではないのか。その言動を吟味すれば、権実雑乱に汚染されているかどうかはすぐ分かる。与党による法律改正案はすべて実施された瞬間に、次から次へと矛盾と欠陥が浮かび上がってくる。
 与党は自分たちの改正案のプラス面だけを強調し、マイナス面は無視する。野党は与党の改正案のマイナス面だけを強調し、プラス面は無視する。両者とも文底の両義性を一義性に還元して論争しているのだ。まさに外道の論議といわざるをえない。そのような論議にどっぷりと漬かっている公明党の国会議員とは、どういう存在なのだろうか。
 大臣や副大臣を経験した公明党議員は国民を欺く官僚の親玉になって醜態をさらけ出しただけなのに、それを恥じるどころか,数の論理で手にした肩書を誇らしげに宣伝している。肩書を恥じる言葉など、どの議員からも聞いたことがない。国会議員という特権の座にあぐらをかき、国民のための政治改革とは全く無縁の存在になっていることは確かである。                                                               (九・二三)

  解散・総選挙の前に、与野党が話し合って民主党に政権を譲ったら、自民党と民主党の立場は一挙に入れ替わり、これまで自民党の責任が問われていた問題は、すべてそのまま民主党政権の責任として糾弾されることになる。今、政治が直面している問題は、すべて官僚となれ合ってきた国会議員全員の責任ではないのか。その責任を与党になすり付けようとしている民主党をはじめ野党はみな、無責任極まりない茶番劇を演じているのだ。その茶番劇の立役者は民主党の小沢代表にほかならない。国民もまた、その茶番劇の共演者とならざるを得ない宿業を背負っている。この宿業を転換するには何が必要なのか。                                     (九・二四)
                                                                   
 米原子力空母の日本母港化が重大な論議を呼んでいる。米原子力空母ジョージ・ワシントン(GW)が二十五日、神奈川県横須賀市に入港し、米海軍横須賀基地に配備されたのである。米原子力空母の海外配備はこれが最初となる。原子力空母GWは動力源として高濃縮ウランを使う原子炉を二基搭載している。その合計熱出力は美浜原発1号機(一〇三万一千キロワット)に相当するという。
 米国は現在、一〇隻の原子力空母を保有しているが、これまでに報告されているのは微量な放射能漏れ事故だけなのだ。軍事組織は重大な事故をできる限り軍事機密として処理する。軍事作戦で最優先されるのは、最も効果的に敵の戦闘能力を奪うことにある。米側はこれまでに原子力空母が人体や環境に影響を及ぼす放射能を出したことはないと主張しているが、そんなことで安全性が保証されるだろうか。しかも事故を起こした場合の責任問題は、全く口をつぐんだままなのである。確かに重大な事故が起きた場合に、責任をとれる者などどこにもいないだろう。
  日本の行政当局は放射能漏れ探知施設の数を増やすと言っているが、そんなことをやっても気休めにすぎない。放射能漏れが探知されたときには既に手遅れなのである。いくら核兵器廃絶を叫んでも、核兵器の原料を自動的に生産する原子炉は、核大国に都合のよい仕組みで野放し状態にある。
 原子炉の実質は核兵器以外の何物でもない。その実態を言葉巧みに覆い隠している奇妙な仕組みがある。原子炉の生産で巨大な利権を握る産軍復合体。その仕組みはいまなお健在であり、情報の質と量にまで格差を設けようとしているのだ。その本質は文明社会の闇の領域に潜む魑魅魍魎にほかならない。                                  (九・二六)

 軍需産業と原子炉、企業家と政治家、文明の交流と葛藤が生み出す両義性の狭間に諸天善神と悪鬼魔神が入り乱れる。諸天善神と悪鬼魔神は文明社会の両義性にほかならない。文明社会に生きる人間の欲望がねじれるとき、魑魅魍魎が跋扈する。政治活動には人間の心に巣くう魑魅魍魎を退治する力はない。それどころか魑魅魍魎を見抜けなかったり、魑魅魍魎と協調したり、妥協したりする場合が多いのだ。創価学会の折伏活動と公明党の政治活動は、広宣流布を推進する両輪の関係にある。しかし人間より組織が優先されるとき、その両輪はどのように葛藤し何をもたらすのか。                (九・二八)

 釈尊は五百塵点劫成道以前に菩薩道を行じて妙法を悟ったのだという。五百塵点劫成道も我本行菩薩道も譬喩であり、それを実体化すれば仏法は虚妄に陥る。五百塵点劫成道の文底を開けば、釈尊は色心不二・久遠即末法なる時空、すなわち〈今、ここに〉成道することが見えてくる。従って五百塵点劫成道以前の我本行菩薩道の時空もまた、〈今、ここに〉のほかにはあり得ない。それはインドに生まれた釈尊が成道以前に行じた菩薩道が、そのまま妙法の修行であることを意味する。悉達多が菩提樹の木陰に結跏趺坐して悟った法こそ、人間・宇宙・生命の如是実相であり、それを妙法というのである。
 日蓮大聖人は悉達多、すなわち釈尊が妙法を悟った時空を〈今、ここに〉開くために、文底独一本門を説き、事の一念三千の大曼陀羅を顕現されたのである。〈今、ここに〉とは、かけがえのない生命・人生を担う一人ひとりの民衆にほかならない。悉達多、すなわち釈尊を他者と見る心は仏道とは無縁なのである。他者はすべて諸天善神と悪鬼魔神の両義性を持つ。他者から仏の記別を受けることを期待する心は仏道とは無縁なのである。仏は声聞・縁覚のみならず森羅万象に成仏の記別を与える。その境界を言葉や思索で把握することはできない。          (九・三〇)

 格差社会の頂点に立つ者に、その格差を根本的に改革する発想や行動を期待できるだろうか。過去の革命の指導者たちは例外なく、その指導者という立場を利用して社会的格差の頂点に立ち、国民を犠牲にして私的資産を蓄積している。社会主義国家の指導者たちはみな、その眷属である。
 革命の指導者が掲げる理想は、いつ変質するのか。国家権力を手にした者はいつの間にか、自分が掌握した権力の甘い汁に酔いしれるようになる。それが人間の本質なのかもしれない。歴史はどんな理想を掲げる革命も、新しい抑圧者を生み出すだけだったということを証明している。 
 政治家たちが掲げる選挙公約もそれによく似ている。格差社会の頂点に立って権力の座の甘い汁に酔いしれている国会議員に、仏法者の心を期待するのは無理なのである。仏法者の心を持たない者が仏法の理想を語れば詐欺という謗法を犯すことになる。権力者に都合のよい法律はその欺瞞を誤魔化してくれるが、仏法を守護する諸天善神はその偽善に厳しく報いるだろう。                                                    (一〇・三)

 文底独一本門は現当二世の生命を説く。その仏法を信じると称する人たちが集団で、一個人の過去の謗法や非道徳的な言動を弾劾している。そのような集団行動自体が文底独一法門に違背する謗法ではないのか。私たち学会員はみな過去の過ちを懺悔して文底独一本門の妙法を信受したのである。
 現在、学会が展開している個人攻撃が正しいとすれば、学会員一人ひとりの過去の過ちはすべて弾劾の対象となるはずだ。そうでなければ道理が通らない。それは宗門にも、そのまま当てはまる。一個人の人格を否定する一方的な悪口雑言を仏法の折伏とは言わない。しかも互いに強大な組織の力を振りかざしているのだ。組織の力は外道以外の何物でもない。
 学会も宗門も権実雑乱にまみれている。自らの謗法に気づかぬ集団は仏法の功徳とは無縁の存在であり、そこでは強者が弱者を収奪する外道の賞罰だけがまかり通ることになる。人間はみな阿私仙人即提婆達多、提婆達多即天王如来という両義的な存在なのである。それを自分の都合で褒め讃えたり、罵ったりする心に何が開くのだろうか。
 宗門や学会内での出世とは何か。宗教組織の内部で出世した人間が次々と謗法の姿をさらけ出しているではないか。組織内の肩書が利権という魔を呼び寄せるのか、それとも信心の詐欺師たちが出世するのか。仏道を行ずる組織の中で出世すること自体、大きな矛盾をはらんでいる。
 集団で一個人を裁くことを律国賊という。そんなことを続けていたら、さらに醜い罵り合いが展開されることになる。相手を提婆達多だと思い込んで罵る心を提婆達多というのである。この宿業を転換するには、他者から与えられるのは外道の記別だけなのだということを厳しく自覚しなければならない。組織内の肩書は外道の記別にほかならない。それは必ず金メッキの鎖となり、それを誇る者は蠅取り瓶の中の金蠅となる。そのような金メッキの鎖を妙法の世界へ飛翔する翼に転換するには何が必要なのか。     (一〇・五)

〈今、ここに〉

永遠の時の流れの中で
君と僕との出会いは
〈今、ここに〉開かれている

過去も未来も
言葉が描き出す幻

すべての存在は
〈今、ここに〉開かれている

森羅万象の出会いと葛藤は
〈今、ここに〉見つめ合う
君と僕の心と形となる
                                         (一〇・七)

 三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子(もちんす)の夜閒なり。夜閒のかくのごとく背手模枕子なる。摸枕子は億億万劫のみにあらず、我於海中、唯常宣説妙法華経なり。不言我起なるがゆゑに、我於海中なり。前面も一波ざん動万波随なる常宣説なり、後面も万波ざん動一波随の妙法華経なり。たとひ千尺万尺の糸綸を巻舒(けんじよ)せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なることを。いはゆるの全面後面は、我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。前頭後頭といふは、頭上安頭なり.海中は有人にあらず。我於海は世人の住処にあらず、聖人の愛処にあらず、我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣説なり。この海中は中閒に属せず、内外に属せず、鎮常在説法華経なり。東西南北に不居(ふこ)なりといへども、満船空載月明帰なり。この実帰は、便帰来なり。たれかこれを滞水の行履なりといはん、ただ仏道の剤限に現成するのみなり。これを印水の印とす。さらに道取す、印空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずしも印海の印にはあらず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり。心印を単伝して、印水し、印泥し、印空するなり。(『正法眼蔵』「海印三昧」)

南無妙法蓮華経
御義口伝に云く、南無とは梵語(ぼんご)なり、此(ここ)には帰命(きみよう)と云う。人法之れ有り、人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり。又帰と云うは迹門不変真如(ふへんしんによ)の理に帰するなり。命とは本門随縁真如(ずいえんしんによ)の智に命(もとず)くなり。帰命とは南無妙法蓮華経是なり。釈に云く「随縁不変・一念寂照」と。又帰とは我等が色法なり、命とは我らが心法なり、色心不二なるを一極(いちごく)と云うなり。釈に云く「一極に帰せしむ故に仏乗と云う」と。又云く、南無妙法蓮華経の南無とは梵語、妙法蓮華経は漢語なり。梵漢(ぼんかん)共時(ぐじ)に南無妙法蓮華経と云うなり。又云く、梵語には薩達磨(さだるま)・芬陀梨伽(ふんだりきや)・蘇多覧(そたらん)と云う。此には妙法蓮華経と云うなり。薩(さ)は妙なり、達磨(だるま)は法なり、芬陀梨伽(ふんだりきや)は蓮華なり、蘇多覧(そたらん)は経なり、九字(くじ)は九尊(くそん)の仏体なり。九界即仏界の表示なり。妙とは法性なり、法とは無明なり、無明法性一体なるを妙法と云うなり。蓮華とは因果の二法なり、是又(これまた)因果一体なり。経とは一切衆生(いつさいしゆじよう)の言語音声(ごんごおんじよう)を経と云うなり。釈に云く「声仏事を為す、之を名けて経と為す」と。或は三世常恒(さんぜじようごう)なるを経と云うなり。法界は妙法なり、法界は蓮華なり、法界は経なり、蓮華とは八葉(よう)九尊(そん)の仏体なり能(よ)く能く之を思う可し。(『御義口伝』南無妙法蓮華経)

 道元のテクストと日蓮のテクストは通底している。そこに示されているのは、森羅万象の起滅即衆法、衆法即妙法、妙法即森羅万象という三諦円融、すなわち人間・宇宙・生命の真実を把握する方法的原理にほかならない。
 道元の「三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子(もちんす)の夜閒なり。夜閒のかくのごとく背手模枕子なる。摸枕子は億億万劫のみにあらず、我於海中、唯常宣説妙法華経なり。不言我起なるがゆゑに、我於海中なり」という言説は、日蓮の「南無とは梵語(ぼんご)なり、此(ここ)には帰命(きみよう)と云う。人法之れ有り、人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり」という言説と通底している。
 そして道元の「前面も一波ざん動万波随なる常宣説なり、後面も万波ざん動一波随の妙法華経なり。たとひ千尺万尺の糸綸を巻舒(けんじよ)せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なることを。いはゆるの全面後面は、我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。前頭後頭といふは、頭上安頭なり.海中は有人にあらず。我於海は世人の住処にあらず、聖人の愛処にあらず、我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣説なり」という言説は、日蓮の「又帰と云うは迹門不変真如(ふへんしんによ)の理に帰するなり。命とは本門随縁真如(ずいえんしんによ)の智に命(もとず)くなり。帰命とは南無妙法蓮華経是なり。釈に云く『随縁不変・一念寂照』と。又帰とは我等が色法なり、命とは我らが心法なり、色心不二なるを一極(いちごく)と云うなり。釈に云く『一極に帰せしむ故に仏乗と云う』」という言説と通底している。
 さらに道元の「この海中は中閒に属せず、内外に属せず、鎮常在説法華経なり。東西南北に不居(ふこ)なりといへども、満船空載月明帰なり。この実帰は、便帰来なり。たれかこれを滞水の行履なりといはん、ただ仏道の剤限に現成するのみなり。これを印水の印とす。さらに道取す、印空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずしも印海の印にはあらず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり。心印を単伝して、印水し、印泥し、印空するなり」という言説は、日蓮の「又云く、南無妙法蓮華経の南無とは梵語、妙法蓮華経は漢語なり。梵漢(ぼんかん)共時(ぐじ)に南無妙法蓮華経と云うなり。又云く、梵語には薩達磨(さだるま)・芬陀梨伽(ふんだりきや)・蘇多覧(そたらん)と云う。此には妙法蓮華経と云うなり。薩(さ)は妙なり、達磨(だるま)は法なり、芬陀梨伽(ふんだりきや)は蓮華なり、蘇多覧(そたらん)は経なり、九字(くじ)は九尊(くそん)の仏体なり。九界即仏界の表示なり。妙とは法性なり、法とは無明なり、無明法性一体なるを妙法と云うなり。蓮華とは因果の二法なり、是又(これまた)因果一体なり。経とは一切衆生(いつさいしゆじよう)の言語音声(ごんごおんじよう)を経と云うなり。釈に云く『声仏事を為す、之を名けて経と為す』と。或は三世常恒(さんぜじようごう)なるを経と云うなり。法界は妙法なり、法界は蓮華なり、法界は経なり、蓮華とは八葉(よう)九尊(そん)の仏体なり能(よ)く能く之を思う可し」という言説と通底している。これについて深く思索しなければならない。                                 (一〇・一二)

 格差社会の底辺で苦しむ老夫婦の家庭を訪問して、ただ息苦しく感じたという国会議員の心とは何なのだろうか。その老夫婦の苦しみに共感し、政治・行政の悪と矛盾をどう改革すべきか語り合うべきではないのか。そういう発想はどこにもない。それどころか過去の政治権力者たちと官僚が国民の目を盗んで築き上げてきた国会議員の特権にどっぷりつかりきって、それを恥じるどころか誇らしげに宣伝し、社会格差の底辺で苦しむ人々を汚らわしいと軽蔑する無慈悲な心がむき出しになっている。あまりにも悲しい現実である。日蓮大聖人の文底独一本門を裏切った議員集団は、どのような報いを受けるのだろうか。既に竹入、矢野、市川といった先輩たちが、その業報を示している。     (一〇・一三)

 道元の「三昧は現成なり、道得なり。背手摸枕子(もちんす)の夜閒なり。夜閒のかくのごとく背手模枕子なる。摸枕子は億億万劫のみにあらず、我於海中、唯常宣説妙法華経なり。不言我起なるがゆゑに、我於海中なり」という言説は、事本物迹の視点から捉えた生命の真実を伝えている。日蓮はそれを色心不二・久遠即末法ととらえる。「人法之れ有り、人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり」という言説がそれを示している。ここでは「人」は色法、「法」は心法となり、さらに「釈尊」は末法、「法」は久遠となる。
  道元の「前面も一波ざん動万波随なる常宣説なり」という言説は、日蓮の 「帰と云うは迹門不変真如(ふへんしんによ)の理に帰するなり」という言説と通底し、道元の「後面も万波ざん動一波随の妙法華経なり」という言説は、日蓮の「命とは本門随縁真如(ずいえんしんによ)の智に命(もとず)くなり」という言説と通底している。いずれの言説も両義的であり、「前面」を色法ととれば「後面」は心法となり、「前面」を心法ととれば「後面」は色法となる。             (一〇・一四)

 国会議員はみな、一〇年勤めるだけで月額三十数万円の年金を受給できる特権の上にあぐらをかいている。その国会議員が月額五万円という低額の年金で暮らさなければならない高齢者に対して、月額八万円に増やしてやるから感謝しろと言っている。そこに浮き彫りになっているのは、傲慢不遜、無慈悲極まりない心ではないか。しかも自分たちの不当な特権を恥じる国会議員は一人もいないのである。
 国会議員はみな官僚の指導を受けて、その出先機関としての役割を果たしている存在なのである。地元の後援者たちの陳情を仲介するには官僚と慣れ親しまなければならない。官僚に対する罰則が甘いのは、すべて国会議員たちの自己保身のためなのである。これまでの公明党の国会議員の堕落はすべて、そこに根ざしている。
 法律や法案の文底をどう把握するのか。官僚たちが施行規則や細則をどのように操作しているのかを監視し、追及する国会議員は一人もいない。公明党が賛成した改正案はみな、実施されたとたんに次々とほころびが出てくる。文底独一本門の実践とは何か。そこに目覚めなければ、みな謗法者として厳しい業報を受けることになろう。     (一〇・一六)

  事業家として人を雇い、階級制度を設けて選別し、支配・服従関係に従わせることは仏法に違背しないのだろうか。企業・団体における階級制度の矛盾と欠陥は誰の目にも明らかである。宗門も創価学会も公明党も、その権力者たちは世俗の垢にひたりきり、格差社会の頂点で特権的な甘い汁を吸っている。仏法に違背する企業・団体・組織、その集大成である国家の矛盾と欠陥をどう克服するのか。そのための闘いは忘れ去られている。

 平和行動展や世界の政治権力者・有識者たちとの対談。池田先生は文底独一法門の後継者のために道を切り開く方便の戦いを展開されているのではないか。その後継者を自覚する弟子たちは、池田先生の言動を自分の本因と錯覚してはならないと思う。なぜなら池田先生の言動の多くは、文底独一法門の直接的な宣揚ではなく妙法を根本にしたご自身の成果、すなわち本果を宣揚していからである。日蓮は師の本果ではなく、その本因を引き継ぐのが真の師弟の道だと説いている。そのために何をどのように学び思索し実践するのか。師の本果を飾ることに専念し本因の修行を怠るとき、弟子に何が開き閉じるのか。それは仏法の勝負なのか、外道の賞罰なのか。事本物迹の視点に立つとき、師も弟子も特定の個人ではないことが見えてくる。    

 福島氏や原島氏は師の本果を自分の本因と錯誤して師の言動を真似たのである。妙法の弟子は師の本果の文底を開き、本因妙の実践を展開する使命がある。「仏は本因妙を本と為し、所化は本果妙を本と思えり」という『百六箇抄』の文を、さらに深く思索しなければならない。政治家という立場での本因妙の実践は、種熟脱、善悪不二(肯定即否定)、因果倶時(能動即受動)、従因至果即従果向因の法理に示されている。                   (一〇・三〇)

 財力を誇る人は金に使われ、肩書を誇る人は肩書に使われ、物力を誇る人は物に使われ、人を使役する人は人に使われる。それは善悪の問題ではなく、生命の真実なのである。仏教が説く釈尊も提婆達多も因縁生起、すなわち三諦円融の曼陀羅であり、葛藤なのである。三諦円融、すなわち人間・宇宙・生命のマンダラといっても、空・仮・中の三諦、すなわち人間(仮)、宇宙(中)、生命(空)の三つが融合したり、包含し合っているのではない。人間のほかに宇宙が存在するのでもなければ、宇宙のほかに生命が存在するのでもない。生命のほかに人間が存在するのでもない。人間は宇宙であり、生命であり、森羅万象であり、その法理なおである。歴史が語る人物はすべて、言葉が分節する虚構、分別虚妄となっている。妙法の曼陀羅は人間即宇宙・宇宙即生命・生命即人間という如是実相を示しているのである。
  どういう人物をどのように評価するかは方便であり、爾前権教であることを自覚しなければならない。組織や人師が選ぶ理想像は両義的であり、その文底をどう開くかが一人ひとりに問われているのではないか。組織や人師がナポレオンや信長を理想像として権威づけるとき、どのようなマンダラ、葛藤が描き出されるのか。                 (一〇・三一)

 一義的な美しい言葉で飾られた詩や文章、言葉は、その文底を洞察しなければならない。文上で読み取って権威づけるとき、それは人々の心を惑わす麻薬となる。存在はすべて両義性を秘めているからだ。日蓮大聖人の文底独一法門は、言葉の両義性を把握し、言葉が生み出す虚構を厳しく破折する実践である。自他を讃歎する言葉とは何か、厳しく吟味しなければならない。それは宗教や哲学、思想、法律、教育、政治、経済、科学、物理、さらに宗教家、哲学者、思想家、法律家、教育者、政治家、経済学者、科学者、物理学者、官僚、企業家の言動にも当てはまる。                  (一一・二)

 人間はみな生まれたときから死ぬまで、新しい事物を得ると同時に古い事物を失う日々を重ねている。それは当然、晩年になっても変わらない。そこに明るい哀しみを感じるのか地獄の苦しみを感じるのか、死の間際にも仏道の岐路がある。どの道を選ぶかは自己の宿業であり、他者すなわち外道に責任はない。仏法の師とは自己なのか、他者なのか。                                       (一一・三)

 集会で声を張り上げて他者の陰口を言ったり、言わせたりする人たちを何と呼ぶべきか。仏法者と呼べないことだけは確かである。そのような言動はどのような業報を呼び寄せるのか。外道によって増幅された力を利用して格差社会の頂点に上り詰めた人物が君臨する組織や団体に、格差社会の是正や改革はできるのだろうか。言葉の虚構を乗り越えることを学び実践するはずの集団が、言葉の虚構で人々を洗脳し個々の生命・人生を搾取するという妖しい構図が浮かび上がってくる。蠅取り瓶の中に取り込まれた人々に、出口を示すことはできるのか。蠅取り瓶の出口には別の蠅取り瓶の入り口が待ち受けている。     (一一・五)

 森羅万象が法華経を説き、法華経が森羅万象を説く。この法理を悟った釈尊とはいかなる存在なのか。この法理を悟って成道したのか、成道してこの法理を悟ったのか。法華経迹門方便品の色心不二の法理と法華経本門寿量品の久遠即末法の法理は、悉達多即釈尊、釈尊即妙法であることを示している。寿量品の「我本行菩薩道」とは悉達多即釈尊の菩提樹下での修証不二の修行であり、道元の只管打坐も日蓮の唱題も「我本行菩薩道」の実践にほかならない。                                                     (一一・六)

 法華経は悉達多即釈尊が成道した時の色心不二なる心を譬喩と象徴的言語で民衆に伝える唯一の仏典である。三大秘宝の本尊は、その悉達多即釈尊の色心不二・久遠即末法なる心を顕している。三大秘宝の本尊への唱題は、己心に冥伏する悉達多即釈尊の我本行菩薩道の蘇生にほかならない。成仏は修証不二であり、我本行菩薩道即久遠実成となる。

 宗門も創価学会も裏金をつくりやすい組織になっている。宗門のことは別にして葛飾の青年塾事件はその典型だった。竹入氏の弟もまた埼玉県の学会組織を私物化し、裏金を使って親分子分の関係をつくっている。このような組織に正しい仏法者が育つのだろうか。海外の学会組織はみな、池田先生のために外道の称号を獲得しようと競い合っている。仏法は外道に褒め讃えられたり、外道から称号を与えられることを厳しく戒めている。そのようなことをすれば、「御供養」という名目で集めた民衆の生命・人生をどぶに捨てるような大謗法を犯すことになる。外道のどんな美しい言葉も、民衆を幸せにすることも世界を平和にすることもできないのである。側近の弟子たちはみな、競い合って師を裏切りつづけているのではないか。
 宗門も学会も日蓮大聖人に背を向けている。三大秘宝の妙法に唱題すれば、どんな言動も妙法に命づく振る舞いとなるわけではない。宗門と学会の争い自体が、それを証明している。権実雑乱にまみれた宗門と学会に、日蓮大聖人の文底独一本門を蘇生させる力は残されているのだろうか。権力の座にある者は組織や肩書、財力などあらゆる面で他者に依存する時空が増大し、等身大の力が衰えていく。それを自覚できる人はいない。どんなに等身大の力が衰えても常に外道の力が補ってくれるからだ。その心は外道化する。「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」という言葉は、人間・宇宙・生命の法理に通底している。どのように腐敗するのか。人間の心を失い非人間的な怪物、すなわち凡夫が思い描く大日如来に変身するのである。その真言的な魔力を仏と錯覚する人は多い。                   (一一・一六)

 厚生省(現厚生労働省)の年金局長と厚生事務次官を歴任した山口剛彦氏夫妻が自宅の玄関で刃物で殺害され、同じ職歴の吉原健二氏の妻靖子さんもまた自宅の玄関で刃物で胸を刺され重傷を負った。両氏の職歴には重要な関連性がある。それは八四年六月から八五年八月までの一年二か月間、吉原年金局長―山口年金課長としてコンビを組んで年金改革に取り組んだことだ。政府当局は二つの事件について連続テロとの見方を強めている。人間を殺傷するテロ行為は最も許し難い犯罪であり、一日も早く犯人を逮捕し厳重に処罰すべきである。それと同時に年金「改革」の矛盾と歪みも根本的に正さなければならない。
 山口・吉原コンビによる「年金改革」案は、政治家や高級官僚の特権を温存・強化し、食費にも事欠く低額年金受給者や無年金者を生み出した。その元凶はまさに政治家と高級官僚であり、両者は相呼応して国民の生命を軽んずるという重大な謗法(生命の法に背く行為)を犯しているのだ。テロ行為を厳しく罰すると同時に、国民の生命を軽んじた政治家と官僚の罪も厳しく問うべきではないのか。
 この矛盾を放置すれば、さらに矛盾と歪みを増幅して重大な業報を招き寄せることになる。怨恨が醸成するテロも生命軽視の行政も文上(事象の表層)でとらえれば、一人の人間、あるいは特定の人間集団の行為に集約されるが、文底(事象の奥底)からとらえ直せば、すべて因縁生起・因果倶時の法理に貫かれている。
 政治家や官僚、企業家や宗教家、教育者による詐欺的行為が次々と発覚している。美辞麗句、豪華な建造物や装飾による欺瞞という真言的謗法が、その根をさらに広げているのではないか。声聞や縁覚の智慧や知識や技術で、この謗法の根を断つことはできない。生命尊重を声高に叫びながら、民衆の生命・人生を軽んじる者は、真言的謗法者にほかならない。「謗法と同座せず」という言葉の文底を深く思索すべきである。  (一一・一九)

 権力の座に君臨して外道の力を駆使する者を仏法者とは言わない。組織力や権力、財力が外道の力であることは誰でも知っている。そのような外道の力を駆使して外道からさまざまな記別を受けることは両義的である。文上と文底、相待妙と絶待妙の正しい位置づけが問われているのだ。森羅万象に仏の記別を与える心を仏という。唯仏与仏とは森羅万象が妙法を説き、妙法が森羅万象を説くことをいう。外道が森羅万象を説き森羅万象が外道を説くことを唯外道与外道という。その時、何が起こるのか。仏法の組織と外道の組織は何がどう違うのか。宗門と学会の組織はどうなのか。宗門や学会内の肩書と他の企業や団体の肩書はどう違うのか。権と実が昏迷する権実雑乱の時代。仏法を外道に貶める謗法を克服するには何が必要なのか。 (一一・二一)             

〈独創性とは何か

 独創力のある人間になりたいと言ってイチローのような人物を挙げる人は、イチローの真似をしようとしていることになる。独創力のある人間になどなりたくないと言う人は逆に他人のまねごとを拒否していることになる。言葉による表現と実質は逆転している。言葉の実質が把握されないかぎり、どんな哲学も堂々巡りの果てにトートロジー陥らざるを得ないのである。言葉を生み出す本源はマンダラであり、言葉は常に多義的となる。それを仏法者はどう展開すべきなのか。                                                 (一一・二五)
                                 
 生死去来(しようじこらい)は光明の去来なり、超凡越聖(ちようぼんおつしよう)は光明の藍朱(らんしゆ)なり、作仏作祖(さぶつさそ)は光明の玄黄なり。修証はなきにあらず、光明の染?(ぜんな)なり。草木牆壁・皮肉骨髄、これ光明の赤白な(しやくびやく)り。煙霞水石、鳥道玄路、これ光明の廻環(ういかん)なり。自己の光明を見聞するは、値仏の證験なり、見仏の證験なり。尽十方界は是自己なり、是自己は尽十方界なり。廻避(ういひ)の余地あるべからず。たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。而今の髑髏七尺、すなはち尽十方界の形なり、象なり。仏道に修證する尽十方界は、髑髏形骸・皮肉骨髄なり。(『正法眼蔵』「光明」)

 第三我実成仏已来無量無辺等の事 御義口伝に云く、我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり。然りと雖も当品の意は、我とは法界の衆生なり。十界己己を指して我と云うなり。実とは無作三身の仏なりと定めたり。此れを実と云うなり。成とは能成所成なり。成は開く義なり、法界仏なりと定めたり。此れを実と云うなり。成とは能成所成なり。成は開く義なり、法界無作の三身の仏なりと開きたり。仏とは此れを覚知するを云うなり。已とは過去なり、来とは未来なり、已来の言の中に現在は有るなり。我実と成(ひら)けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり。百界千如一念三千と説かれたり。百千の二字は百は百界、千は千如なり。此れ即ち事の一念三千なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり。惣じては迹化の菩薩、此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり。彼は迹表本裏、此れは本面迹裏、然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題目の五字計り当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仍って下種を以て末法の詮と為す云云。(『御義口伝下』「寿量品廿七箇の大事」)

  この二つのテクストは法華経文底の妙法、すなわち正法眼蔵涅槃妙心を言説している。道元の「生死去来(しようじこらい)は光明の去来なり、超凡越聖(ちようぼんおつしよう)は光明の藍朱(らんしゆ)なり、作仏作祖(さぶつさそ)は光明の玄黄なり」というテクストと、日蓮の「我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり。然りと雖も当品の意は、我とは法界の衆生なり。十界己己を指して我と云うなり。実とは無作三身の仏なり」というテクストと通底している。
  道元は、「修証はなきにあらず、光明の染?(ぜんな)なり。草木牆壁・皮肉骨髄、これ光明の赤白な(しやくびやく)り。煙霞水石、鳥道玄路、これ光明の廻環(ういかん)なり。自己の光明を見聞するは、値仏の證験なり、見仏の證験なり」と敷衍している。「修證はなきにあらず」は報身、「光明」は「法身」、「染?」は応身となる。
「尽十方界は是自己なり、是自己は尽十方界なり。廻避(ういひ)の余地あるべからず。たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。而今の髑髏七尺、すなはち尽十方界の形なり、象なり。仏道に修證する尽十方界は、髑髏形骸・皮肉骨髄なり」という道元のテクストは、日蓮の「已にとは過去なり、来とは未来なり、已来の言の中に現在は有るなり。我実と成(ひら)けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり。百界千如一念三千と説かれたり。百千の二字は百は百界、千は千如なり。此れ即ち事の一念三千なり」というテクストと通底している。                                                                    (一一・二六)

 慈悲という言葉は抜苦与楽を意味する。それは自他の苦悩を癒し、自他に生きる意欲と喜びを与え、自他に慈悲の心を蘇らす言動にほかならない。勤行唱題は慈悲の心を蘇らす我本行菩薩道、すなわち修証不二の修行である。我本行菩薩道と悉達多、釈尊は一体不二となる。我本行菩薩道は悉達多であり、悉達多は釈尊であり、釈尊は我本行菩薩道である。勤行唱題し妙法と境智冥合する心、すなわち正法眼蔵涅槃妙心を釈尊という。
                                                                    (一一・二八)

 この生しりがたし。生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。四見すでにおなじからず。諸類の見おなじからず。ただ志気を専修にして、辧道功夫すべきなり。辧道に生死をみるに相似せりと参学すべし、生死に辧道するにはあらず。いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辧道をさしおかんとするは至愚なり。生来たとひいくばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人閒の精魂の活計なり、学道の消息にあらず。壮齢耄及をかへりみることなかれ、学道究辧を一志すべし。脇尊者に斉肩なるべきなり。塚閒の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。無主の形骸、いたづらに?野せんとき、眼精(がんぜい)をつくるがごとく正観すべし。(『正法眼蔵』「行持」)

 第二迦葉光明の事 御義口伝に云く、光明とは一切衆生の相好なり。光とは地獄の灯燃猛火、此れ即ち本覚自受用の智火なり。乃至仏果之れ同じ。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経の光明を謗法の闇冥の中に指し出す、此れ即ち迦葉の光明如来なり。迦葉は頭陀を本とす、頭陀は爰に抖數と云うなり。今末法に入って余行を抖數して、専ら南無妙法蓮華経と修するは、「此経難持行頭陀者」是なり云云。(『御義口伝上』「授記品四箇の大事」)

  道元は迦葉の頭陀行等の志気を「専修にして、辧道功夫すべきなり」という。迦葉の頭陀行等は小乗経の修行であり、それをどうとらえるかは宿業による。頭陀行を縁として文底の妙法に至る道を不変真如の理に帰する一面という。妙法より頭陀行を位置づける道を随縁真如の智に命づく一面という。迦葉即頭陀行・頭陀行即迦葉である。迦葉光明の迦葉は不変真如の理に帰する一面、光明は随縁真如の智に命づく一面となる。随縁不変一念寂照を迦葉光明という。迦葉光明とは妙法と境智冥合する自他の色心である。(一一・二九)

 建造物や芸術作品は各時代の人類の知的遺産として重要な価値を持っている。建造物や芸術作品を生み出すのは、真言のプラスの働きである。しかし権力者が民衆を支配するために、建造物や芸術作品など高価な物財で自己の権力を飾るとき、真言のプラスの働きは冥伏し、マイナスの働きが浮上する。
  国民のための政治改革とは、格差社会の底辺で生活を圧迫され苦悩の人生を強いられるような人々を生み出さない社会的仕組みをつくることにあるのではないか。公明党は結党以来四十二年になる。その間、一度でもそういう国民のための抜本的な政治改革に取り組んだことがあっただろうか。
 明治維新の後、戦前戦後を通じて政治家と官僚が自らの利権を守るために築いてきた格差社会の根本的改革に取り組んだ政党もなければ、政治家もいなかった。共産主義や社会主義を標榜する政党も政治家も結果的に、党の利権を守り拡大することしか考えていないのである。
 旧ソ連の崩壊後に分裂・誕生した社会主義諸国も政治家や党の最高幹部たちが権力を利用して格差社会の頂点に立ち、国民を搾取しつづけている。日本の自民党はいうまでもなく格差社会の継続を望んでいる。日本の共産党、そして旧社会党員を抱える民主党はどうなのか。                                                            (一一・三〇)

  出家学道の、いかでか豊屋に幽棲するあらん。もし豊屋をえたる、邪命にあらざるなし、清浄なるまれなり。もとよりあらんは論にあらず、はじめてさらに経営することなかれ。草庵・白屋は古聖の所住なり、古聖の所愛なり。晩学したひ参学すべし、たがゆることなかれ。(『正法眼蔵』「行持上」)

  現代文明社会において「豊屋に幽棲する」とは何を意味するのか。「豊屋」とは何か、「幽棲」とは何か、深く思索しなければならない。道元は「豊屋をえたる」が「邪命」であり、「邪命」が「豊屋をえたる」であるという。「草庵・白屋」すなわち、「古聖の所住・古聖の所愛」は妙法の曼陀羅を示している。「晩学したひ参学すべし、たがゆることなかれ」は妙法への勤行唱題である。

 大悟をまつことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。不悟をねがふことなけれ、不悟は髻中の宝珠なり。ただまさに、家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利等なからんも、又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理、あきらかなり。それすなはち一条の行持なり。生前に名利をなげすてて、一事を行持せん、仏寿長遠の行持なり。いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。(『正法眼蔵』「行持上」)

「大悟をまつことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。不悟をねがふことなけれ、不悟は髻中の宝珠なり」の「大悟・不悟」とは声聞・縁覚の智、すなわち形而上学的分析・統合の論理である。「家郷・恩愛・親族・名利・田園」とは、物事に執着する心をいう。その執着を諦める(両義性を把握する)心を「一条の行持」という。「一条の行持」とは妙法との境智冥合である。
「生前に名利をなげすてて、一事を行持せん」は色心不二を表し、「仏寿長遠の行持」は久遠即末法を表す。妙法との境智冥合を「この行持、さだめて行持に行持せらるる」という。「この行持あらん身心、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし」は妙法への勤行唱題である。「この行持あらん身心」は随縁不変・一念寂照を表し、「みづからも愛すべし」は随縁真如の智に命づく一面、「みづからもうやまふべし」は不変真如の理に帰する一面を表す。                                                    (一二・三)

 年金収入を悪徳金融業者に吸い取られて自殺寸前の状態に追い込まれ、生活保護を受けて暮らしている高齢者の姿がテレビに映し出されていた。年金証書を担保にして融資するという不法金融が野放しにされていたのである。政治行政、すなわち政治家と官僚の怠慢が、格差社会の底辺で暮らす人々を地獄に追い落としている。これもまた厚生労働省にまつわる不祥事なのである。
 政治行政の怠慢が次々と明らかになっている。その元凶は高級官僚の指導に頼り、馴れ合いを続けざるを得ない国会議員たちの不勉強のつじつま合わせにほかならない。政治家とは何か。改めてその理念と行動が問われているのだ。国会議員の陳情活動とは何か。単なる官僚の出先機関に終わっていないか。国会議員一人ひとりが自ら、その実質を吟味する必要がある。

 仏法とは釈尊が説き、その後継者たちが編纂した経典によって体系化された(体系化される)教義であるというのが、世間一般の常識になっている。そこには根本的な誤解がある。『百六箇抄』の末尾に「又、立つ浪、吹く風、万物に就いて本迹を分け、勝劣を弁ず可きなり」と記されている。
 この文は文底独一法門の方法的原理を示している。仏法は思索と言語による分析・統合化の論理、すなわち形而上学ではないというのである。仏道とは〈肯定と否定〉〈能動と受動〉という方法的原理によって、経典すなわち森羅万象の究極の文底に迫る修行にほかならない。
 理論的体系化を拒否する人間(仮諦)・宇宙(中諦)・生命(空諦)の法理、すなわち妙法と〈自己〉が一体であることを悟るための修行を仏道という。『百六箇抄』には「仏は本因妙を本と為し、所化は本果妙を本と思えり」と説かれている。仏道修行は他者の言動を真似ることではない。本因妙を本とするとはどういうことなのか、一人ひとりに問われているのである。
 さらに組織や集団の運営は賞罰が基本となる。組織や集団の中で出世街道を進むことは外道の賞罰であり、そのまま仏法の功徳となるわけではない。福島・原島問題や竹入・矢野問題はそれを実証している。法華経は宇宙即我なる釈尊、すなわち妙法を信受する一人ひとりの生命の如是実相を説いているのである。組織や集団の行動を地涌菩薩に譬えれば、妙法を外道に貶める謗法となる。                                       (一二・五)

 一人の人間を地涌菩薩に譬えるのは方便であり、その文底を把握しなければならない。人間を何かの目的のための踏み石に譬えるのは組織すなわち外道の論理であり、人間を何かの手段に貶める者を仏とは言わない。先導者のちょっとした思い違いが組織を謗法に走らせる。成仏・広宣流布を分かりやすく解説すれば、文底が文上に還元されて随自意の法門が随他意の法門となり権実雑乱を招く。言実雑乱の謗法が渦巻く組織。その中枢から次々とパワーハラスメントの技に長けた謗法者が醜態をされけ出している。そのような組織は、どのような宿業をはらんでいるのか。その元凶は何なのか。                (一二・六)

 末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるヽことなかれ、仏祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目未だあきらめず、いたづらに殿堂精藍を結構する。またく諸仏に仏宇を供養せんとにはあらず、おのれが冥利の窟宅とせんがためなり。(『正法眼蔵』「行持下」)

 道元は「いたづらに堂閣の結構につかるヽことなかれ」と戒め、さらに「仏祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂精藍を結構する、またく諸仏に仏宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅とせんがためなり」と破折している。「堂閣の結構』とは何か、「仏祖いまだ堂閣をねがはず」とは何か、「自己の眼目いまだあきらめず」とは何か、「諸仏に仏宇を供養」とは何か、深く思索しなければならない。「いたづらに堂閣の結構につかるヽ」とは本質を隠し上辺を飾る色心であり、真言的謗法につながる。「仏祖いまだ堂閣をねがはず」とは、その謗法を破折する色心である。「自己の眼目いまだあきらめず」とは、仏向上を求める有羞の僧の色心である。「諸仏に仏宇を供養」とは、成仏・広宣流布の文底を実践する色心である。成仏・広宣流布を分かりやすく説明すれば、すべて仏法とは異質の個人の趣味、欲望に還元されてしまう。諸仏が仏宇となり、供養が諸仏となる時空を成仏・広宣流布という。        (一二・七)  

 いかなるかこれ莫帰郷(まくききよう)(帰郷すること莫(な)かれ)。莫帰郷とはいかにあるべきぞ。東西南北の帰去来、たゞこれ自己の倒起なり。まことに帰郷とは道不行(どうふあん)(道行われず)なり。道不行なる、帰郷なりとや行持する、帰郷にあらざるとや行持する。帰郷なにゝよりてか道不行なる。不行にさえらるとやせん、自己にさえらるとやせん。並舎老婆子は説汝旧時名なりとはいはざるなり。並舎老婆子、説如旧時名なりという道得なり。南嶽いかにしてかこの道得ある、江西いかにしてかこの法語をうる。その道理は、われ向南行するときは、大地おなじく向南行するなり。余方もまたしかあるべし。須彌大海を量としてしかあらずと疑殆し、日月星辰に格量して猶滞するは少見なり。(『正法眼蔵』「行持下」)

 仏道修行とは事象の文底を幾重にも探求する旅である。「東西南北の帰去来」は「自己の倒起」、すなわち文上となる。「まことに帰郷とは道不行」とは、文底を文上に還元することをいう。「帰郷なにゝよりてか道不行なる。不行にさえらるとやせん、自己にさえらるとやせん」という言説はは、「道不行」も「道行」もそのまま〈自己〉であって何かの属性ではないことを示している。仏道とは仏向上の道であり、仏向上とは教典、すなわち森羅万象の究極の文底に迫る道にほかならない。
「並舎老婆子は説汝旧時名なりとはいはざるなり。並舎老婆子、説如旧時名なりという道得なり」の「説汝」は文上、「説如」は文底となる。「われ向南行するときは、大地おなじく向南行するなり。余方もまたしかあるべし」とは、存在するものはすべて〈能動〉と〈受動〉が一体であることを示している。これは因果具時の法理にほかならない。「須彌大海を量としてしかあらずと疑殆し、日月星辰に格量して猶滞する」とき、色心不二なる森羅万象を唯色に還元する外道となる。 外道とは仏道、すなわち内道に違背する色心である。                                      (一二・一〇)

 いはゆるは、恁麼事(いんもじ)をえんとおもふは、すべからくこれ恁麼人(いんもにん)なるべし。すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん。この宗旨(そうし)は、直趣(じきしゅ)無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ。この無上菩提のていたらくは、すなわち尽十方界も無上菩提の少許なり、さらに菩提の尽界よりもあまるべし。われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり。なにによりてか恁麼あるとしる。いはゆる、身心ともに尽界にあらはれて、われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。(『正法眼蔵』「恁麼」)

「恁麼事(いんもじ)をえんとおもふは、すべからくこれ恁麼人(いんもにん)なるべし」という言説は、恁麼事がそのまま恁麼人であることを示している。それは直趣無上菩提、すなわち妙法との境智冥合を意味する。凡夫が尽十方界と思う現象は、妙法の働きの一つにほかならない。妙法は菩提の尽界を超えている。「われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり」は、宇宙即我我即宇宙の法理を示している。身心、すなわち色心ともに尽界の我であり、しかも我にあらざる存在を妙法という。我と妙法は主体と属性の関係ではなく、あくまでも一体不二なのである。

 一九四三年一二月二日に父が病死した。その翌年春、小学校の五年生だった私は、母と二人の姉、妹と一緒に東京から新潟に疎開した。越後線の小島谷駅に着いたのは三月二四日の朝である。その日は私の誕生日だった。出迎えの人はいなかった。駅から島崎を通って北野への道のりは約二キロ、雪解け道は泥でぬかっていた。
 私たち一家は三島郡桐島村大字北野の農家に婿入りしていた伯父(亡父の兄)を頼って疎開したのである。伯父は丸山廣蔵という名前だった。私の父も母も新潟県古志郡大田村の出身である。なぜ母が疎開先として自分や夫の実家ではなく、伯父の婿入り先の桐島村を選んだのか聞いたことはない。
 父母の故郷は深い山間の村であり、一冬に七メートルも積雪する豪雪地帯なのだ。疎開先の桐島村は海岸から三キロほど離れた農村だった。新潟県は海岸に近いところほど積雪が少ない。十六歳だった一番上の姉は三井物産に勤めて二年目だったが、疎開のため退職しなければならなかった。二番目の姉は高等小学校の一年生、妹は小学校の二年生だった。母は父が残した退職金と国債、貯金でどうやって子供たちを育てるか、長女の就職先をどうするかなど、さまざまなことを考えて義兄夫婦に相談したのではないだろうか。
 母が亡くなってから二十年になる。伯父も亡くなっている。母は子供たちとともに生きるために必死だったのだ。そのことを母から聞くことはできなかった。すべて母の苦労を知る子供たちの心にだけ秘められている。
 私を生んだ父母とは、いかなる存在なのだろうか。遺伝子は自他の色心を引き継ぎ伝える。父と母の遺伝子は何をどのように引き継ぎ、どこへどのように伝えているのか。父と母の遺伝子を引き継いだ私の遺伝子も同様である。遺伝子の色心は因果具時に過去と未来に波動を広げている。父と母にもう一度会いたいと思うことがある。      (一二・一二)

「民は知らしむべからず、依らしむべし」という政治的信条を抱いていた徳川家康とは、いかなる存在だったのか。よく考えてみると、今日においても政治家や官僚は、家康と同じ政治的信条を抱きつづけているように見える。政治家や官僚は自分たちの特権や格差社会の実態を、国民の目から覆い隠そうとする。
 家康の政治的信条は無慈悲の一言に尽きる。それは明治政府に引き継がれ、明治、大正、昭和、平成へと時代が変遷しても政治家や官僚の心に深く根付いたままになっている。世俗的な格差は無慈悲な欲望に根差している。世俗的格差を胚胎する組織や集団の特権階級は仏道とは無縁となる。互いに反目・敵視し合っている宗門と創価学会の場合はどうなのか。格差社会で特権を獲得する者は仏道を見失い、附仏法の外道となる。 (一二・一五)

 政治家や官僚、宗教家に、格差社会の底辺で苦しむ人々を自業自得と蔑む無慈悲な心が潜んでいる。 仏教には折伏という言葉がある。折伏とは何か。その文底を問い直す必要がある。折伏とは自分が悪とみなしたものを破折することと思い込んでいる人が多い。それが正しいとすれば、世俗的な不利益はすべて悪とみなされることになる。凡夫の心は、仏法が説く善と悪を取り違えやすい。そこに利権の獲得を善とみなす心が芽生える。それは文底独一本門を幾重にも文上に還元する謗法となる。世俗的な利権をめぐって互いに相手を悪とみなし、世俗的な欠点をあげつらう心はどのような業報を招き寄せるのだろうか。                                                                   (一二・一九)

 すべてを予見して適切に対応できる人間などどこにもいない。凡夫が思い描く仏とは仮説的な理想人格なのである。一人ひとりが思い描く仏はそれぞれ違っている。凡夫は魔を仏と錯覚し、仏を魔と錯覚する。オウム真理教をはじめ宗教組織が起こす事件はそれを裏付けている。 法華経が説く法理は声聞や縁覚には「所不能知」なのである。爾前教の声聞・縁覚は形而上学的分析・統合の論理を象徴している。
 森羅万象が法華経を説き、法華経が仏を説き、仏が法華経を説き、法華経が森羅万象を説いているのだ。仏とは一人の人間のことではない。魔も同様である。一人の人間を仏として崇め、魔として恐れる心とは何なのか。同時多発テロの元凶が、オサマ・ビン・ラディンという一人の人間でないことは確かである。敵は鏡に映った自分自身なのかもしれない。                                                                    (一二・二七)

 文底独一法門とは『御義口伝』や『百六箇抄』の文を暗記して、その文を権威にして他者を裁くことではない。『御義口伝』や『百六箇抄』から文底独一法門の方法的原理を学び取り、それを自他不二なる〈自己〉の生きる場に展開することなのである。その原点は妙法の曼荼羅と境智冥合することにある。他者の命令に従ったり、凡夫の欲望の充足を願う心で唱題しても慈悲の当体である妙法と境智冥合できるはずがない。妙法の曼荼羅の前に余計な文字やスローガンを置けば謗法となる場合がある。妙法の曼荼羅は色心不二・久遠即末法なる人間・宇宙・生命、すなわち〈今、ここに〉存在するすべてを顕している。そこに何かを付け加えることも、そこから何かを取り除くことも自己の責任となる。取り除く行為も自己であり、付け加える行為も自己にほかならない。          (一二・二八)

 不況が深刻化し、失業者が巷に溢れ、自殺者や犯罪者が増えるとき、格差社会の頂点に君臨する政治家や官僚、起業家、宗教家、評論家の心に潜むさまざまな矛盾が浮き彫りになる。歴史に記された革命はいずれも、格差社会という文明の根源的矛盾を解決するどころか助長してきた。国家・社会体制は法律によって規定され、行政官吏によって運営されている。それが格差社会を維持しつづけているのだ。
 革命家はみな格差社会の矛盾を温存し、その頂点に君臨している。権力を掌握すると、やがて世俗の欲望にとらわれて初心を見失う。「我本行菩薩道」の初心を維持するのは極めて困難なのだ。権力に魅せられた者の欲望は果てしなく膨らんでいく。法律も官吏もその奉仕者となる。                                                    (一二・三一)

 

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