仏教

仏教とは何か(3)

                      仏教とは何か(3)

         ――日蓮と道元に学ぶ――

              小幡照雄

 

   第二十一章 仏教は文明社会をどう見ているか②
           ――能率化社会の両義性――  

  四天王天の南に住む大増長天王と四箇の格言の禅天魔は、能率化社会の両義性を照らし出しています。大増長天王は色心(身体と心)の働きを増長させるプラスの働き、禅天魔は色心のリズムを狂わすマイナスの働きを象徴しているのです。技術の進歩によって能率化が進んだ社会は、人々の身心の力を一挙に増幅します。ジェット旅客機をはじめ交通機関の発達のおかげで、私たちは遠距離を短時間で旅行できるようになりました。それと同時に大きな事故も増えつづけています。大増長天王が南に配されていることにも、古代の人々の智慧がうかがえます。南の方角は植物の生長を増長する力を象徴しています。日蓮はさまざまな角度から論理的に禅宗の教義の誤りを指摘していますが、特に厳しく破折しているのは禅的価値観にひそむ能率主義の危険な陥穽なのです。
 禅的価値観もまた多義的であり、日蓮はそのすべてを否定しているわけではありません。禅宗の中には釈尊や宗祖の心を誤解して、「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)・直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という教義を立てる者がいます。仏法の真髄は、煩雑な教理の追求ではなく座禅入定の修行により直接自証体得できるとして、①不立文字(文字を立てず)②教外別伝(教法とは別に伝えられるものである)③直指人心・見性成仏(仏の教法は月をさす指のようなものであり、教法などなくても禅法を修すれば直ちに人の心に仏性を見ることができる)――と主張しているのです。日蓮はこのような教義を厳しく破折しています。

不立文字(ふりゅうもんじ)と云う。所詮(しょせん)文字と云う事は何(いか)なるものと得心(こころえ)此(か)くの如く立てられ候や。文字は是(これ)一切衆生の心法の顕れたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡(およ)そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福(ひんぷく)をも相するなり。然(しか)れば文字は是(こ)れ一切衆生の色心不二の質なり。汝若(も)し文字を立てざれば、汝が色心をも立つ可からず、汝六根を離れて禅の法門一句に答へよと責む可きなり。さてと云うも、かうと云うも有(う)と無(む)の二見をば離れず、無と云わば無の見なりとせめよと、有と云わば有の見なりと責めよ、何(いず)れも何れも叶わざる事なり。次に修多羅(しゅたら)の教は月をさす指の如しと云うは月を見て後は徒者(いたずらもの)と云う義なるか。若(もし)其義にて候わば御辺の親も徒者と云う義か。又師匠は弟子の為に徒者か、又大地は徒者か、又天は徒者か。如何となれば、父母は御辺を出生するまでの用(ゆう)にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん、人の師は物を習い取るまでこそ用なれ、習い取つて後は無用なり、夫(そ)れ天は雨露(うろ)を下すまでこそあれ雨ふりて後は天無用なり、大地は草木を出生せんが為なり、草木を出生して後は大地無用なりと云わん者の如し。(『諸宗問答抄』)

  仏法が経文すなわち文字によって伝えられてきたことは誰でも知っている。その仏の教えの外に伝えられたものは魔なのか鬼なのか。不立文字・教外別伝という言葉は、舌足らずというより人心をゆがめる邪義そのものといわなければならない。経文は月をさす指のようなものだから月という本体が見えてしまえば、もはや無用の長物だと主張する者がいる。
 このような禅宗の教義の両義性のはざまに、能率主義的価値観の陥穽が大きく口を開いていることを、日蓮は洞察したのです。
  最先端技術を駆使して生産される自動車は運転方法さえ習得すれば、自動車を製造する技術など全く知らなくても運転できます。コンピューターにしても同様です。現代文明社会は、製造されたものが便利でさえあれば、その生産過程や技術にひそむ欠点や危険性は人々の目から覆い隠されてしまう傾向を強めているのです。頻発する原発事故やコンコルド墜落事故、ロシアの原潜沈没事件、三菱自動車のクレーム隠し、大病院における医療ミスの続発などは、それを裏付けています。能率主義は心身の見かけの力を増幅する反面、心身自体のリズムを狂わせ、精神的、肉体的な障害や事故を増大させるのです。道元もまた、不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏を主張する者を、次のように厳しく破折しています。

ある漢いはく、釈迦老漢、かつて一代の教典(きょうでん)を宣説(せんぜつ)するほかに、さらに上乗一心の法を摩訶(まか)迦葉(かしょう)に正伝す。嫡々相承(ちゃくちゃくそうじょう)しきたれり。しかあれば、教は赴機(ふき)の戯論(けろん)なり、心(しん)は理性(りしょう)の真実なり。この正伝せる一心を教外別伝といふ。三乗十二分教の諸談にひとしかるべきにあらず。一心上乗なるゆゑに、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)なりといふ。 この道取、いまだ仏法の家業にあらず。出身の活路なし。通身の威儀あらず。かくのごとくの漢、たとひ数百年の先に先達(せんだつ)と称ずとも、恁麼(いんも)の説話あらば、仏法・仏道はあきらめず、つうぜざりけりとしるべし。ゆゑはいかん。仏をしらず、教をしらず、心を知らず、内を知らず、外をしらざるがゆゑに。そのしらざる道理は、かつて仏法をきかざるによりてなり。今諸仏といふ本末、いかなるとしらず。去来の辺際すべて学せざるは、仏弟子と称ずるにたらず。ただ一心を相伝して、仏教を正伝せずといふは、仏法をしらざるなり。仏教の一心をしらず、一心の仏教をきかず。一心のほかに仏教ありといふ、なんじが一心、いまだ一心ならず。仏教のほかに一心ありといふ、なんぢが仏教いまだ仏教ならざらん。たとひ教外別伝の謬説(びゅうせつ)を相伝すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理(ごんり)の符合あらざるなり。(『正法眼蔵』「仏教」)

  ある人物が次のように言っている。釈尊は一代の聖教を説いたほかに、さらに勝れた一心の法を摩訶(まか)迦葉(かしょう)に正伝し、それが嫡々相承(ちゃくちゃくそうじょう)されてきた。従って、釈尊の教典は赴機の(相手の機根に応じて説いた)戯論(利益のない教え)であり、この教外別伝の一心のみが最高の教えであり、これを、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)というのである。
 道元は、このようなとらえ方は仏法の説く成仏とは無縁であることを指摘し、さらに不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏などという誤った教義を立てる者は、たとえ仏法の先達と称しても、仏法の真髄が明らかになるとき、たちまち仏法とは無縁の外道であることがばれてしまう、と厳しく破折しています。「ただ一心を相伝して、仏教を正伝せずといふは仏法をしらざるなり」と道元が破折しているように、仏教を正伝しない一心は仏法とは全く無縁なのです。
 さらに道元は禅宗という宗派を立てることさえ否定しています。仏法は釈尊の法を伝えるところにある、自分の都合で禅宗などと称するのは天魔の所為だと戒めているのです。道元は法華経に色心不二なる法を読み取り、事象の両義性を把握していたのです。しかし道元の死後、その門下は禅宗の一派・曹洞宗を称して今日に至っています。組織が巨大化すれば、組織を維持するためのさまざまな配慮が必要になります。そこに謗法の入り込む隙が生じるのです。そのことも道元は警告しています。
 日蓮も道元も釈尊が説いた教典の内容を批判しているのではありません。人師(にんし)による経典を位置づけの誤りを破折しているのです。いつの時代にも、一つの宗派や宗教団体が組織として釈尊の心を正しく伝えるのは困難なのです。両義性をはらむ能率化社会の働きは、意(心)根と身根に配することができます。意根と身根について観普賢菩薩行法経は次のように説いています。

心根(しんこん)は猿猴(おんこう)の如くにして 暫(しばら)くも停(とどま)る時あることなし
若(も)し折伏(しゃくぶく)せんと欲せば 当(まさ)に勤めて大乗(だいじょう)を誦(じゅ)し
仏の大覚身(だいかくしん)、力無畏(りきむい)の所成(しょじょう)を念じたてまつるべし
身(み)は為(こ)れ機関(きかん)の主(しゅ) 塵(ちり)の風(かぜ)に随(したが)って転ずるが如し
六賊中(ろくぞくなか)に遊戯(ゆげ)して 自在にして罣礙(さわり)なし
若(も)し此の悪を滅して 永く諸(もろもろ)の塵労(じんろう)を離れ 
常に涅槃(ねはん)の城に処し 安楽にして心憺怕(こころたんぱく)ならんと欲せば
当(まさ)に大乗経を誦(じゅ)して諸(もろもろ)の菩薩の母を念ずべし

  心(意)根は木から木に飛び移る猿のように一瞬もとどまることがない。そのように乱れる心を調えたいと思うなら、大乗経(妙法)を唱え、仏の大覚身(だいかくしん)、力無畏(りきむい)の所成(しょじょう)を念ずべきである。身根もまた環境の変化にさらされて、風に吹き回される塵のように落ち着くところがない。狂った環境の中で悪に染められながら、それに気づかず遊び戯れている。このような悪を滅して、煩悩を克服し、欲望に振り回されることのない安らかな境界を得たいと思うなら、大乗経(妙法)を唱え、菩薩の母(慈悲の心)を念じなければならない。
「心根(しんこん)は猿猴(おんこう)の如くにして、暫(しばら)くも停(とどま)る時あることなし」とは、人間の心の状態を示しています。これは能率化に対応しようとして休まる暇もない心ととらえることができるでしょう。「身(み)は為(こ)れ機関(きかん)の主(しゅ)、塵(ちり)の風(かぜ)に随(したが)って転ずるが如し」とは、能率化社会の中で翻弄される身体をいいます。「六賊中(ろくぞくなか)」とは、六根とその対境である六境(色・声・香・味・触・法)との関係が調和を失った状況です。「遊戯(ゆげ)して、自在にして罣礙(さわり)なし」とは、そのような状況を自覚することなく、欲望を満たすことに夢中になっている人間の身体にほかなりません。このような状況を打破するには、「勤めて大乗を誦(じゅ)し、仏の大覚身(だいかくしん)、力無畏(りきむい)の所成(しょじょう)を念じ」、さらに「大乗経を誦(じゅ)して諸(もろもろ)の菩薩の母を念ずる」ほかないのです。ここにもまた、法華経の文底に秘められた我本行菩薩道が示唆されています。

   第二十二章  仏教は文明社会をどう見ているか③
            ――情報化社会の両義性――

  四天王天の北に住む大毘沙門天王と四箇の格言の真言亡国は、情報化社会の両義性を表しています。大毘沙門天王は多聞天とも呼ばれます。多聞天は常に仏の声に耳を傾けます。
仏の声が示すのは、人間が友情と連帯の心をもって豊かに生きる道なのです。大毘沙門天王が北に配されています。北の空に輝く北極星は、昔から空の道標とされたきました。六根のうち情報化社会で最も重要な働きをするのは耳根(にこん)です。大毘沙門天王は生命の正しい軌道を示す仏の教え、つまり、人間が最も人間らしく豊かに生きるために不可欠な情報を正しく選択する生命の働きを象徴してます。これに対し、真言亡国とは情報をねじ曲げ、価値観を転倒させる歪んだ論理と行動にほかなりません。
 真言宗を開いた弘法大師空海(七七四~八三五)は、「大日経は法身無始無終の大日如来が菩薩のために真言を説いた経であるが、法華経は応身(おうじん)の釈迦が霊山(りょうぜん)で二乗のために説いた経にすぎない。法華は真言より三重の劣である」と主張しています。空海はその著、『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の中で、大日経や菩提心論を依所として十住心を立てたのです。十住心とは①異生羝羊(いしょうていよう)住心(凡夫悪人)②愚童持斎(ぐどうじさい)住心(凡夫善人)③嬰童無畏(ようどうむい)住心(外道)④唯蘊無我(ゆいうんむが)住心(声聞)⑤抜業因種(ばつごういんしゅ)住心(縁覚)⑥他縁大乗(たえんだいじょう)住心(法相宗に説かれる)⑦覚心不生(かくしんふしょう)住心(三論宗に説かれる)⑧如実一道(にょじついちどう)住心(法華経に説かれる)⑨極無自性(ごくむじしょう)住心(華厳経に説かれる)⑩秘密荘厳(ひみつしょうごん)住心(真言宗のみに説かれる)――の十段階をいいます。第十住心の真言に比べれば、法華経は華厳経にも劣る第三の戯論だと空海は主張しているのです。だ。この真言的価値観にひそむ重大な誤謬を、日蓮は見逃しませんでした。

「問う、何(いか)なる経論に依つて真言宗を立つるや。答う、大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっち)経並びに菩提心論、此の三経一論に依つて真言宗を立つるなり。問う、大日経と法華経と何れか勝(すぐ)れたるや。答う、法華経は或いは七重或いは八重の勝なり、大日経は七八重の劣なり」(『真言天台勝劣事』)

 真言宗が依経としている大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっち)経はいずれも生命の部分観であり、真の成仏の法でないことは、法華経序分の無量義経で「四十余年未顕真実」と明言されています。日蓮は経典の内容ではなく、真言宗による経典の位置づけの誤りを破折しているのです。『十住心論』や『秘蔵法鑰』のように、人間の心を十段階に分類して差別を設けるのは、天台大師が法華経の文底に読み取った十界互具論を、法華経文上からさらに爾前権経に後退させた数段浅い観念論ということになります。仏道修行に段階を設けて差別するのも、生命の真実とは無縁の方便にすぎません。爾前権教の十界論には仏界を最高、地獄界を最低とする差別感があります。『十住心論』や『秘蔵宝鑰』を著したときの空海は、爾前権経の従因至果の視点にとらわれていたのです。本来、生命を守る平等な働きである十界や仏道修行を細かく分類して差別するのは、虹をいくつかの色に分類して優劣の位を設けるのと同様、仏法が把握する生命の如是(にょぜ)実相(じっそう)とは無縁の方便にすぎません。日蓮はさらに次のように破折しています。

「今大日経並びに諸大乗経の無始無終は法身(ほっしん)の無始無終なり、三身(さんじん)の無始無終に非ず。法華経の五百塵点(じんてん)は、諸大乗経の破せざる伽耶(がや)の始成(しじょう)之を破りたる五百塵点(じんてん)なり。大日経等の諸大乗経には全く此の義なし。宝塔の涌現(ゆげん)・地涌(じゆ)の涌出(ゆじゅつ)・弥勒(みろく)の疑い・寿量品の初の三(さん)誡(かい)四請(ししょう)・弥勒菩薩・領解(りょうげ)の文に『仏希有(けう)の法を説きたもう、昔より未だ曾(か)つて聞かざる所なり』等の文是(これ)なり。大日経六巻並に供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地(そしっち)経等の諸の真言部の経の中に未だ三止四請(さんしししょう)・三(さん)誡(かい)四請(ししょう)・二乗の劫国名号(こうこくみょうごう)・難信難解(なんしんなんげ)等の文を見ず」(『法華真言勝劣事』)

 真言宗が依経とする経論はすべて、法華経の開経である無量義経で未顕真実の方便権経に位地づけられています。さらに真言宗が崇める大日如来は、法華経を説いた三身即一身の釈尊とは根本的に異なる法身(唯心)仏なのです。それは言葉で虚構された現実には存在しない仏であり、印・真言、すなわち言語や記号、スローガン、文化や制度、肩書が持つ力を象徴しているのです。その大日如来という法身仏について説いたのは釈尊にほかなりません。権大乗経が説く法身仏とは言葉だけの存在、一種の記号体系であり、メタ言語なのです。メタ言語を生み出す根源を説いたのが法華経です。しかも、大日経等には法華経で明らかにされた「宝塔の涌現(ゆげん)・地涌(じゆ)の涌出(ゆじゅつ)・二乗作仏・五百塵点劫成道」などの重要な法門、すなわち生命の尊厳・妙法流布の決意、諸法実相(色心不二)・久遠実成(久遠即末法)の哲理は説かれていません。「三止(さんし)四請(ししょう)」は寿量品第十六で重要な法門(久遠実成)を初めて説く時の儀式、「三(さん)誡(かい)四請(ししょう)」は方便品第二で重要な法門(諸法実相)を初めて説くときの儀式、「二乗の劫国名号(こうこくみょうごう)」は二乗成仏の記別(十界互具・如是実相)なのです。
  真言的価値観が権威とする印・真言は、情報化社会を支配する記号・言語の機能を象徴しています。印は社会的な格式・制度・規則を象徴し、真言の力によって格式・制度・規則が律するマンダラ的な社会構造を生み出すのです。印と真言は人間の歴史や文化の両義性に深くかかわっています。真言宗が説く印や真言の力は極めて重要には違いありませんが、生命の部分的な働きなのです。そのような部分観を絶対化して、生命の全体観を明らかにした法華経を軽んずる真言的価値観には重大な誤謬がひそんでいます。
 文底の方法的原理に照らすとき、大日如来もまた妙法の働きの一面であることが見えてきます。経の表題はその経の心を表すのです。大日経(大日如来)の「大」は諸法(色法)、「日」は実相(心法)を表しています。大日如来とは色心不二の妙法の力用の一面にほかなりません。従って、印・真言の位置づけと運用を誤れば言葉や記号(制度や肩書)が権威化され、民衆の生命や人生が軽んじられることになります。そのような本末転倒は国家や地域、家庭、身体に混乱をもたらすのです。それを真言亡国といいます。日蓮は真言的価値観にひそむ魔のうごめきを警告しているのです。耳根について、観普賢菩薩行法経には次のような偈頌が説かれています。

耳根(にこん)は乱声(らんしょう)を聞いて 和合の義を壊乱(えらん)す
是れに由(よ)って狂心(おうしん)を起すこと 猶(なお)癡(おろか)なる猿猴(おんこう)の如し
但当(ただまさ)に大乗を誦(じゅ)し  法の空無想を観ずべし
永く一切の悪を尽して 天耳(てんに)をもって十方(じっぽう)を聞かん

「乱声」とは権実雑乱の言動です。耳根は乱声を聞くと、生命の調和を破ってしまいます。その心の狂える様子は愚かな猿と異なりません。そんなときは大乗経を唱え、法の空夢想を観ずることが必要なのです。そうすれば、一切の悪に惑わされることなく、正しい声を聞き分けられるようになります。「乱声」とは価値観の転倒を起こすゆがんだ情報を意味します。「和合の義」とは、国家、地域、家庭、身体など民衆の生きる場の調和と連帯です。ゆがんだ情報がはびこるとき、国も人も滅亡の渕に追いやられるのです。国家や政治家、企業家、宗教家が偽の情報を流し、民衆の生きる場をゆがめている今日の状況。マスコミもまた、その両義的な力を増幅しています。そこにうごめいているのは、情報化社会にひそむ真言亡国の魔の働きにほかなりません。
「大乗を誦(じゅ)し、法の空無想を観ずべし」とは、色心不二・久遠即末法という生命の原点に帰ることを意味します。この偈頌は、情報化社会がはらむ大毘沙門天王と真言亡国の両義性を照らし出しています。情報化社会は形式と本質が乖離しやすいのです。外道・権教の心は、あらゆる事象を表層的な形式で善悪(利害)に分別し、法華経(妙法)の心は事象の本質(両義性)に価値創造的にかかわります。外道・権教の心は生きる世界を幻想によって拡大しながら実質的に矮小化し、妙法の心は自他共存世界を実質的に拡大します。真言亡国の魔を打ち破る方法的原理の実践が、今ほど問われている時はないのです。

 

   第二十三章  仏教は文明社会をどう見るか④                   
                      ――管理化社会の両義性とは何か――
          
  大持国天王は四天王天の東に住む護法神です。大持国天王の一つ一つの文字を生命論の視点からとらえると、「大」は森羅万象の広がりと関係性、「持」は調和と連帯を保つ働き、「国」は国家・社会・家庭・身体を表し、「天」は生命、「王」は中心にあって全体を統率する働きを表します。王という一字は「天・地・人を貫いて揺るがざる働き」を象徴しています。大持国天王とは人間・宇宙・生命に備わる調和と連帯の働きの譬喩にほかなりません。
 大持国天王はなぜ東に配されているのでしょうか。東から昇る太陽は再生を象徴しています。身体は新陳代謝、つまり再生によって維持されているのです。再生には調和と連帯の働きがあいます。六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のうち、身体を維持するのに象徴的な働きをするのは、鼻根(嗅覚)と舌根(味覚)です。鼻根と舌根は身体の維持に必要なものを取捨選択します。大持国天王はまさに、管理化社会の調和と連帯というプラスの働きを象徴しているのです。
 これに対して、四箇の格言の律国賊は偏った価値観で民衆を裁断し、調和と連帯を破壊するマイナスの働きを象徴しています。大持国天王と律国賊は管理化社会の両義性にほかなりません。律国賊は、戒律を権威に掲げる律的価値観にひそむ魔の働きを警告しているのです。
  釈尊が小乗経や権大乗経で説いた戒律は本来、人間が人間として生きるための基本的な修行でした。戒律の本意は、身・口・意の三業より起こって成仏への善根を断とうとする邪念を防止するところにあります。その根底には人間を魔の働きから守るという発想があるのです。しかし釈尊滅後、教団の組織化が進むに従って、戒律はそれを破った者を罰する裁きの面が強くなっていきました。つまり人間を守る働きが人間を一方的に裁断する働きに変質したのです。人間を守る働きは大持国天王であり、人間を偏った価値観で裁断する働きは律国賊にほかなりません。偏った戒律や価値観で裁かれたとき、反逆心(国賊)が芽生えます。日蓮は次のように律的価値観にひそむ魔の働きを警告しています。

教大師未来を誡(いまし)めて云く「末法に持戒の者有らば是れ怪異なり。市(いち)に虎有るが如し」。(『四信五品抄』)。

 伝教大師は「末法に厳しく戒律を守る者がいれば、それはまさに社会を混乱させる魔物であり、町の中に放たれた虎のように人々の人生を食いちぎってしまうだろう」と警告しているのです。ここで「末法」とは、価値観の交錯した今日の情報化・能率化・権力化・管理化社会にほかなりません。「教大師」とは成仏、すなわち人間連帯の法理、「持戒の者」とは、偏った価値観で自他を裁く心です。「裁く心」は賞罰によって自己と他者の関係を選別します。「怪異」とは、本有の生命のメッセージから離反することです。「市に虎ある如し」とは、そのような論理と行動は「飢えた虎」のように民衆の生命・人生を食いちぎり、人間の連帯を引き裂いてしまうとの厳しい警告です。
 家庭内暴力、校内暴力、ゲリラ、血で血を洗うテロ、報復、戦争の根源には、人間の友情と連帯を引き裂く裁きの心があります。ヴィトゲンシュタインは「先入観を理想と取り違えるとき、哲学が簡単に陥ってしまうあの教条主義が生じる」と指摘しています。このヴィトゲンシュタインの指摘は、律国賊への警告にほかなりません。
 先入観とは現実に適合しない偏った価値観であり、あらゆる体験が先入観によって教条化・権威主義化するのです。ここに民衆抑圧の構造を生み出す根源があります。二十世紀は、イデオロギーの教条化・権威主義化が民衆を抑圧した時代でもありました。その抑圧の構造はいまだに解体されていないのです。
 学歴社会が生み出す選別の基準(戒律)は、「飢えた虎」のように子供たちの人生を引き裂きます。不当な裁きによって追いつめられ、希望を失った子供たちは自他の人生を食いちぎる虎に変身する以外にないのです。自分の未熟さを自覚しない教師は、愛情をもって叱るのではなく、国家権力を笠に着て簡単に子供に罰を与えます。いじめの技に長けた悪鬼神がのさばるゆがんだ世界。管理化社会はいじめの社会に変質しやすいのです。
 戒律とは正義の自己目的化です。正義は本来、自他共存世界を拡大する論理と行動を意味します。正義は両義性の一方の極を擁護し、他方の極を裁断します。それが制度化され、自己目的化するとき、人間同士の連帯を切り裂く悪を胚胎するのです。集団の論理は自己目的化しやすいのです。国家や組織、集団は同質のものを統合・支配し、異質のものを分析・排除しやすい構造を持っているからです。「飢えた虎」が跳梁する社会では平和運動が平和を破壊し、人権運動が人権を踏みにじるという根源的な矛盾が噴き出します。
 大国が独占する核兵器は二十世紀が生み出した不気味な戒律を象徴しています。今ほど民衆の生きがいと連帯をはぐくむ対話が求められている時はないのです。組織のオルガナイザーとして民衆に対する者は、個々の具体的な人間の営みが見えなくなる危険な立場にいることを厳しく自覚しなければなりません。命令や説明は対話ではないのです。対話とは新たな発見のための出会いといえるでしょう。語る人と聞く人の双方に人間連帯への道を開く新たな発見の喜びがあれば、たとえ一方的な語りかけに見えても、そこに心と心の対話が成立するのです。
  法華経常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)第二十には、不軽菩薩の振る舞いが説かれています。無量阿僧祇劫(あそうぎこう)の昔、不軽菩薩は四衆(比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい))に会うごとに悪口罵詈(めり)され、杖木で打たれながらも、「我深く汝等(なんだち)を敬う。敢(あ)えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん。汝等(なんだち)皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得べし」と礼拝してやみませんでした。しかし上慢の四衆たちは「そんな記別は何の意味もない」と言って、不経菩薩を罵り迫害したのです。日蓮は不軽菩薩の振る舞いについて、次のように文底の意義を説いています。

第三十礼拝住処忍辱地(らいはいじゅうしょにんにくじ)の事 御義口伝に云く、既に上慢の四衆罵詈瞋恚(めりしんに)を成して、虚妄の受記(じゅき)と謗ずと云えども、不生瞋恚(ふしょうしんに)と説く間、忍辱地に住して礼拝の行を立つるなり云云。(『御義口伝巻下』常不軽品三十箇の大事)

「上慢の四衆」は教条化・権威主義化した言語・文化・制度を象徴しています。「罵詈瞋恚(めりしんに)」とは異質とみなした他者を排除する心です。それは正義の制度化・権威主義化に通じます。る。「虚妄の受記(じゅき)と謗ず」とは事象の両義性を一義的に分節する心、「不生瞋恚(ふしょうしんに)」とは事象の両義性を読み取る心です。「忍辱地(にんにくじ)」とは自他共存の世界観。「礼拝(らいはい)の行」とは人間連帯の論理と行動です。「罵詈瞋恚(めりしんに)」の色心を「不生瞋恚(ふしょうしんに)」と転換するとき、人間疎外の世界は人間連帯の世界へと転換するのです。管理化社会の働きは鼻根と舌根に象徴されます。鼻根と舌根について、観普賢菩薩行法経の偈頌(げじゅ)は次のように説いています。

鼻根(びこん)は諸香(しょこう)に著(じゃく)して 染(ぜん)に随って諸(もろもろ)の触(ぞく)を起す
此(かく)の如き狂惑(おうわく)の鼻 染(ぜん)に随って諸塵(しょじん)を生ず
若(も)し大乗経(だいじょうきょう)を誦(じゅ)し 法の如実際(にょじっさい)を観ぜば
永く諸(もろもろ)の悪業(あくごう)を離れて 後世(ごせ)に復(また)生ぜじ
舌根(ぜっこん)は五種の 悪口(あっく)の不善業(ふぜんごう)を起す
若(も)し自(みずか)ら調順(じょうじゅん)せんと欲せば  勤めて慈悲を修し
法の真寂(しんじゃく)の義(ぎ)を思うて 諸(もろもろ)の分別の想(おもい)なかるべし

  六根のうち鼻根はさまざまな香りをかぐと、それに染められて心を揺り動かすのです。このように狂い惑った鼻根の働きは、さまざまな煩悩を引き起こします。そのときは大乗経を唱え、法の如実際を観すれば、再び悪業に染められることはなくなるのです。また舌根は悪口の不善業(悪業)を起こし、自他の福運を失います。その悪業を正したいと思うなら、慈悲の行を修し、分別の義にとらわれず、法の真寂の義を求めなければなりません。。「鼻根(びこん)は諸香(しょこう)に著(じゃく)し、染(ぜん)に従って諸(もろもろ)の触(ぞく)を起こす」とは他者を利用して利権をむさぼる心です。「悪口(あっく)の不善業(ふぜんごう)を起す」とは選別の両義性であり、他者の人生を踏みにじる言動です。こうした悪業を免れるには、「法の如実際(にょじっさい)を観じ、法の真寂(しんじゃく)の義を思う」心を取り戻さなければなりません。「法の如実際」とは色法、「法の真寂の義」とは心法です。これは色心不二なる生命の法、すなわち妙法を示しています。
 仏法は他者の人生を豊かにする行為のなかに、自己創造の根源力が開くことを説いています。管理化社会においては、組織を拡大・強化する行為と他者の人生を豊かにする行為はともすれば対立し、矛盾とジレンマにさらされます。それを打開する生命の哲理こそ、法華経の文底に秘められた妙法なのです。

   第二十四章 五時八教とは何か

  日蓮は次のように教示しています。

「日蓮は諸経の勝劣をしること、華厳の澄観、(ちょうかん)三論の嘉祥(かじょう)、法相の慈恩(じおん)、真言の弘法(こうぼう)にすぐれたり。天台・伝教の(でんぎょう)跡をしのぶゆへなり。彼の人人は天台・伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱(とがのが)れさせ給うべしや。当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつり、名をば後代に留(とど)むべし。大海の主となれば諸の(もろもろ)河神(かわかみ)したがう。須弥山(しゅみせん)の王に諸の山神(さんじん)したがはざるべしや。法華経の六難九易(くい)を弁う(わきま)れば一切経よまざるにしたがうべし」(『開目抄下』)

 ここで「日蓮」は生命の全体観を象徴し、「華厳の澄観、(ちょうかん)三論の嘉祥(かじょう)、法相の慈恩(じおん)、真言の弘法(こうぼう)」は生命の部分観を象徴しています。「天台・伝教に帰す」とは、妙法の曼陀羅を信受することです。日蓮大聖人の生命・人生は、三諦円融の人間(仮諦)・宇宙(中諦)・生命(空諦)と開かれています。妙法の曼陀羅に随順するとき、調和と連帯の豊かな生命・人生が開くのです。
「法華経の六難九易(くい)を弁う(わきま)」とは、生きる一瞬一瞬を退歩の許されぬ限界状況と覚悟することにほかなりません。釈尊一代の聖教を説法の次第(順序)によって五時に分類し、法体(教義の内容)によって四教(化法)に、化導の形式・方法によって四教(化儀の四教)に分類し、これを体系化した五時八教はすべて仮説(方便)であり、〈今、ここに〉妙法に唱題する色心不二なる己心のほかに、一生成仏の場はないのです。

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仏教とは何か(2)

             仏教とは何か(2)

             ――道元と日蓮に学ぶ――

                      小幡照雄

仏教とは何か(1)目次

はじめに(2010.4.20)
第一章 釈尊はどのように修行したのか(2010.4.22)
第二章 釈尊は何を悟ったのか(2010.4.24)
第三章  爾前経から法華経へ(2010.4.26)
第四章 五百塵点劫と三千塵点劫(2010.4.27)
第五章 法華経の譬喩(2010.4.28)
第六章 一念三千とは何か(2010.4.29)
第七章 九識論と曼荼羅(2010,4,30)



   第八章 法華経には、どのような譬喩が説かれているのか

  法華経には大きく分けると、七つの譬喩が説かれています。それは①三舎火宅(さんしやかたく)の譬え(譬喩品(ひゆぼん)第三)②長者窮子(ちようじやぐうじ)の譬え(信解品(しんげぼん)第四)③三草二木(さんそうにもく)の譬え(薬草喩品(やくそうゆほん)第五)④化城(けじよう)宝処(ほうしよ)の譬え(化城喩品(けじようゆほん)第七)⑤衣裏珠(えりじゆ)の譬え(五百弟子受記品(じゆきぼん)第八)髻中明珠の(けいちゆうみようしゆ)譬え(安楽行品(あんらくぎようぼん)第十四)⑦良医病子(ろういびようし)の譬え(寿量品第十六)――の七つです。
 このうち、三舎火宅の譬え、三草二木の譬え、化城宝処の譬え、髷中明珠の譬え、良医病子の譬えは釈尊が説いた譬喩、そして長者窮子の譬え、衣裏珠の譬えは釈尊が説いた譬喩を弟子たちがとらえ返した譬喩になっています。
 既に考察したように、釈尊が説いた譬喩と、その文底を把握した弟子たちの譬喩をやさしく解説しようとすると、文上がさらに浅い文上に還元されるという矛盾が生じるのです。その矛盾を犯すことになりますが、それぞれの譬喩の内容を要約してみましょう。

〈三舎火宅の譬え〉
 家の中で遊びに夢中になり、家が火事になっているのに気づかない子供たちを救うために、父の長者は「家の外にお前たちの大好きな羊車(ようしや)、鹿車(ろくしや)、牛車(ごしや)があるから出ておいで」と呼びかけます。そのおかげで子供たちは家を飛び出し、危険を免れるのです。子供たちの無事を確かめた長者は、約束した車よりもはるかに素晴らしい大白牛車(だいびやくごしや)を子供たちに与えます。
 ここでは羊車、鹿車、牛車が三乗(声聞・縁覚・菩薩の感性・能力(気根)に対応する教え)に、大白牛車が一仏乗(仏の悟りに導く教え)に譬えられています。

〈長者窮子の譬え〉
  幼いときに家出した窮子は他国を流浪し、生活に困り心も下劣になっていました。窮子は偶然、父が成功して大長者になっていた街にたどり着つくのです。父は一目で、窮子が
自分の子であることに気づきますが、窮子は父であることに気づかず逃げ出します。父が家来に命じて連れ戻そうとしても、窮子は恐れおののいて気絶する始末でした。下劣な窮子の心を見抜いた父は、親子の名のりを先に延ばすことにします。その代わりに、良い条件で窮子を雇い、くみ取りの仕事をさせるのです。
 父は自分の家で働く窮子に優しい心配りをしながら、わが子の人間的成長を見守ります。窮子は次第に重要な仕事を与えられ、人間的に立派に成長していきます。長者は臨終の床に窮子を呼び、初めて親子の名のりをあげ、そこに集まった親戚、友人、国王、大臣、婆羅門たちに窮子が自分の後継者であることを告げるのです。
 ここでは他国を流浪し、生活に困り、心も下劣になった窮子が三乗に、初めて親子の名のりをあげ長者の後継者となった窮子が一仏乗に譬えられています。

〈三草二木の譬え〉
  三千大千世界の大地には草や木が生い茂っていますが、その種類はさまざまで形や性質も異なっています。その三千大千世界を密雲が覆い、慈雨となって降り注ぐのです。その潤いを受けて草や木は、それぞれの種類や性質に従って成長し、花を開き実を結びます。その生ずる大地も降り注ぐ雨も同じですが、上中下の薬草や大中小の樹木に分かれて成長するのです。
 ここでは降り注ぐ雨と大地が一仏乗に、上中下の薬草や大中小の樹木が三乗に譬えられています。

〈化城宝処の譬え〉
  一人の導師に導かれが宝を求めて旅をしています。しかし道は険しく、さまざまな危険が待ち受けているのです。道は五百由旬(ゆじゆん)(一由旬は八キロ、あるいは十五キロ)もありますが、導師はどの道が険しく,危険なのかよく知っています。しかし旅人たちは前途の多難であることを恐れ、もう引き返したいと導師に訴えます。すると導師は三百由旬を過ぎたところに素晴らしい化城(宮殿)を出現させて、ここでしばらく休んでから旅を続けるよう、旅人たちを説得するのです。旅人たちは宮殿の素晴らしさに感動して、これで旅の目的を果たしたような満足感にひたっていました。そのとき導師は宮殿を消滅させて(即滅化城)、求めている宝はこの宮殿ではなく、すぐ近くにあることを教えるのです。
  ここでは化城は三乗に、宝処は一仏乗に譬えられています。

〈衣裏珠の譬え〉
  親友から無価(むげ)(最も価値の高い)の宝珠をもらった人がいます。その人は酒に酔っていたために、そのことに気づかず、長い間放浪して苦労した後に、その親友に再会するのです。親友から「君の衣の裏にかけてあげた無価の宝珠はどうしたのだ」と言われて、初めて自分がその無価の宝珠を持っていたことに気づきます。
  ここでは酒に酔うことが三乗に、無価の宝珠が一仏乗に譬えられています。

〈髻中明珠の譬え〉〉
  転輪聖王は戦功のあった武将にさまざまな恩賞を与えますが、通常は転輪聖王の髻の(もとどり)中にある明珠だけは与えることがありません。しかし特別の功労者にはこの明珠を与えるのです。
 ここでは通常の功労者に与えられる恩賞は三乗に、転輪聖王の髻の中の明珠は一仏乗に譬えられています。

〈良医病子の譬え〉
  名医の子どもたちは、父が留守の間に誤って毒を飲んでしまいます。正気を失わない子どももいましたが、正気を失った子どももいました。父は良薬を調合して子どもたちに与えます。すると、正気を失っていない子どもはその薬を飲んで病がすぐ治りましたが、正気を失った子どもはその薬を飲もうともせず苦しむばかりでした。
 そこで父は方便を使って、「私は老いていつ死ぬかもしれない。ここに良薬を残しておくから飲みなさい」と言って、他国に旅立ってしまいます。そして旅先から父が死んだことを子どもたちに知らせるのです。父の死を悲しんだ子どもたちはみな、父が残してくれた薬を飲んで病が全快します。子どもたちの病が全快したことを聞いた父はすぐ,帰宅して、元気な姿を子どもたちに見せたのです。
 ここでは子どもたちが誤って飲んだ毒が三乗に、父の調合した良薬が一仏乗に譬えられています。

   第九章  日蓮は法華経の譬喩をどうとらえたのか

 前章では法華経の七譬の内容を要約してみましたが、どの譬喩も誰でも応用できそうな教育的、道徳的な説話の域を出ません。そんなことが法華経の真意なのでしょうか。そんなはずはありません。法華経の中で釈尊自身が、声聞や縁覚の智慧では把握できないと宣言しているのですから。それでは日蓮は、法華経の七譬の文底をどうとらえているのでしょうか。衣裏珠の譬えを取り上げて、法華経の経文と『御義口伝』の文を対照させながら考察してみましょう。

世尊、譬(たと)えば人有り、親友(しんぬ)の家に至りて、酒に酔うて臥(ふ)せり。是(こ)の時に親友、官事の当(まさ)に行くべきあって、無価(むげ)の宝珠を以て、其の衣の裏に繋(か)け、之を与えて去りぬ。其の人酔い臥して、都(すべ)て覚知せず。起き已(おわ)って、遊行し他国に到りぬ。衣食の為の故に勤力求索(ごんりきぐしやく)すること、甚だ大いに艱難(かんなん)なり。若(も)し少し得(う)る所有れば、便ち(すなわ)以て足りぬと為す。後に親友に会い遇(あ)うて、之を見て是(こ)の言を作(な)さく、
 拙い哉(かな)丈夫、何ぞ衣食の為に、乃ち(すなわ)是(かく)のごとくなるに至る、我昔、汝をして安楽なるこ とを得、五欲に自ら恣な(ほしいまま)らしめんと欲して、某の(そればし)年日月(としひつき)に於て、無価の宝珠を以て、汝 が衣裏の裏に繋けぬ。今故現(いまなおげん)に在り。而(しか)るを汝知らずして艱苦(かんく)し憂悩(うのう)して、以て自活を 求むること甚だ為(こ)れ癡(ち)なり。汝今此の宝を以て所須(しよしゆ)に貿易(むやく)すべし。常に意の(こころ)ごとく乏短(ぼうたん) なる所無かるべし。
といわんが如く、仏も亦是(またかく)の如し。(五百弟子受記品第八)

 日蓮はまず、経文の「無価の宝珠を以て衣の裏に繋け」について、次のように文底の意義を説いています。

第一衣裏の事 御義口伝に云く、此の品には無価の宝珠を衣裏に繋くる事を説くなり。所詮日蓮等の類、(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、一乗妙法の智宝を信受するなり。信心を以て衣裏にかくと云うなり。(『御義口伝巻上』受記品三個の大事)

  文底よりとらえると、「無価の宝珠」は生命本有(ほんぬ)の妙法、すなわち妙法の曼陀羅となります。「衣裏に繋くる」とは法華経の心、すなわち菩提樹の木陰で瞑想した釈尊の心と冥合(同調)することなのです。それは法華経の文底に秘められた「一乗妙法の智宝」、すなわち妙法の曼陀羅を信受することにほかなりません。妙法の曼陀羅を信受し、南無妙法蓮華経と唱えることを「衣裏にかく」というのです。次に日蓮は「酒に酔い臥して」について、その文底意義を明らかにしています。

第二酔酒而臥(すいしゆにが)の事 御義口伝に云(いわ)く、酒とは無明(むみよう)なり、無明は謗法(ほうぼう)なり。臥(が)とは謗法の家に生(うま)るる事なり。三千塵点(じんてん)の当初に悪縁の酒を呑みて、五道六道に酔い廻(めぐ)りて、今謗法の家に臥(ふ)したり。酔とは不信なり、覚とは信なり。今日蓮等の類、(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る時、無明の酒醒めたり。又云く、酒に重重之れ有り。権教は酒、法華経は醒めたり。本迹相対する時、迹門は酒なり始覚(しかく)の故なり、本門は醒めたり本覚(ほんがく)の故なり。又本迹二門は酒なり,南無妙法蓮華経は醒めたり。酒と醒むるとは相離れざるなり。酒は無明なり、醒むるは法性な(ほつしよう)り。法は酒なり、妙は醒めたり。妙法と唱うれば、無明法性体一(たいいち)なり。止(し)の一に云く「無明塵労即是菩提(むみようじんろうそくぜぼだい)」と。(同前)

「謗法の家に生るる」も「謗法の家に臥したり」も、森羅万象の色心不二・久遠即末法なることに目覚めない心、すなわち妙法に違背する色心の振る舞いにほかなりません。ここには権教から法華経迹門、法華経本門、法華経文底へと、経文の文底を幾重にも開くことによって森羅万象の奥底に迫る方法的原理が示されています。妙法の曼陀羅に唱題する色心に、天台大師が説いた『摩訶止観(まかしかん)』の一にある「無明塵労即是菩提」、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)・生死即涅槃(しようじそくねはん)の境界が開かれるのです。この煩悩と生死は末法の色心、菩提と涅槃は久遠の色心を顕しています。この言葉もまた、色心不二・久遠即末法の法理を説いているのです。さらに日蓮は、この経文の末尾にある「我今仏に従って授記荘厳(じゆきしようごん)の事、及び転次(てんじ)に受決(じゆけつ)せんことを聞き奉って身心遍く歓喜す」という一節を取り上げて、次のように文底の意義を説いています。

第三身心遍歓喜(しんしんへんかんぎ)の事  御義口伝に云く、身とは生死即涅槃(しようじそくねはん)なり。心とは煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なり。遍とは十界(じつかい)同時なり。歓喜とは法界(ほつかい)同時の歓喜なり。此の歓喜の内には三世諸仏の歓喜納(おさ)まるなり。今日蓮等(ら)の類、南無妙法蓮華経と唱え奉れば「我則ち(われすなわ)歓喜す」とて、釈尊歓喜し給うなり。歓喜とは善悪共(とも)に歓喜なり。十界同時なり.深く之を思うべし云云。(同前)

 これは釈尊が次々と成仏の記別を与え、それぞれの使命を明らかにするのを見た声聞の弟子たちの言葉です。「遍とは十界同時・法界同時の歓喜」の「十界」は地獄界から仏界に至る生命の色心、法界は森羅万象です。この文は森羅万象の個々の色心はそのまま宇宙の色心であり、それが同時に歓喜することを示しています。
「我則ち歓喜す」は、宝塔品第十一の「此の経は持(たも)ち難し、若(も)し暫くも持つ者は、則ち我歓喜す諸仏も亦然(またしか)なり」という一節にある言葉です。妙法の曼陀羅に南無妙法蓮華経と唱えるとき歓喜するのは、色心不二・久遠即末法なる己心に成道する釈尊、すなわち三世十方の諸仏にほかなりません。「善悪共(とも)に歓喜なり。十界同時なり」とは、〈今、ここに〉生きる一瞬一瞬に感謝し、歓喜する心なのです。

  第十章 道元は法華経の真髄をどうとらえたのか

 道元の『正法眼蔵』は法華経を分かりやすく解説したものではありません。法華経自体がそれは不可能だと宣言しています。釈尊は方便品第二の冒頭で弟子(でし)の舎利弗(しやりほつ)に、「諸仏の智慧は甚深無量(じんじんむりよう)なり。その智慧の門は難解難入(なんげなんにゆう)なり。一切の声聞、(しようもん)辟支仏(びやくしぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり」と告げているのです。
「辟支仏」は縁覚(えんがく)のことで、「一切の声聞、辟支仏」の文底を開くと、西欧形而上学的な分析・統合の論理ということになります。そのような分析知では、法華経が展開する人間・宇宙・生命のマンダラを把握することは不可能なのです。道元は法華経の真髄をどのように把握したのでしょうか。道元は次のように説いています。

  而今(にこん)の山水は、古仏の道現成(どうげんじよう)なり。ともに法位に住して、究尽(くじん)の功徳を成ぜり。空功(くうこう)已前(いぜん)の消息なるがゆへに、而今の活計なり。朕兆未萌(ちんちようみぼう)の自己なるがゆへに、現成の透脱な(ちようとつ)り。山の諸功徳(しよくどく)高広(こうこう)なるをもて、乗雲の(じよううん)道徳、かならず山より通達(つうだつ)す。順風の妙功、さだめて山より透脱するなり。(『正法眼蔵』「山水経」)

  この文は方便品第二と寿量品第十六の文底を説いています。「而今(にこん)の山水は古仏の道現成なり」の「而今の山水」は色心不二なる森羅万象が描き出すマンダラです。「古仏の道現成(どうげんじよう)なり」は五百塵点劫成道、すなわち久遠即末法を示しています。これは色心不二・久遠即末法の譬喩にほかなりません。「ともに法位に住して究尽(くじん)の功徳を成ぜり」は、方便品の「是(こ)の法は法位に住して世間の相常住なり」を道元が独自の譬喩でとらえた表現です。「ともに法位に住して」は「是(こ)の法は法位に住して」に対応し、「究尽(くじん)の功徳を成ぜり」は「世間の相常住なり」に対応しています。その文底は色心不二・久遠即末法、すなわち妙法にほかなりません。以下の文もすべて正法眼蔵、すなわち道元が法華経の文底から読み取った妙法の譬喩なのです。
 この文の「空功(くうこう)已前(いぜん)の消息なるがゆへに・朕兆未萌(ちんちようみぼう)の自己なるがゆへに・山の諸功徳(しよくどく)高広(こうこう)なるをもて」は心法・久遠を顕し、「而今の活計なり・現成の透脱な(ちようとつ)り・乗雲の道徳、かならず山より通達(つうだつ)す・順風の妙功、さだめて山より透脱するなり」は色法・末法を顕しています。「通達・透脱」という言葉もまた、「通・透」は心法・久遠に通じ、「達・脱」は色法・末法に通じているのです。道元は釈尊の弟子たちと同様に、釈尊が説いた言葉を色心不二なる己心(こしん)の体験から生まれる独自の譬喩でとらえ返しているのです。
『正法眼蔵』はまさに譬喩の宝庫といえます。その中から、もう一つ道元独自の譬喩を見てみましょう。

「天上の天花(てんげ)、人間の天花、天雨曼陀羅華(てんうまんだらけ)、摩訶曼陀羅花(まかまんだらけ)、曼珠沙花(まんじゅしゃげ)、摩訶曼珠沙花および十方無尽国土の諸花は、みな雪裏梅花(せつりばいか)の眷属(けんぞく)なり。梅花の恩徳分(おんどくぶん)をうけて開花せるがゆゑに、百億花は梅花の眷属なり、小梅花と称ずべし。乃至空華(くうけ)・地華(じけ)・三昧華(さんまいけ)等、ともに梅花の大小の眷属群花なり。花裡に百億国をなす、国土に開花せる、みなこの梅花の恩分なり。梅花の恩分のほかは、さらに一恩の雨露(うろ)あらざるなり。命脈みな梅花よりなれるなり」(『正法眼蔵』「梅花」)

「雪裏梅花」とは森羅万象の因縁生起の根源、すなわち法華経文底の妙法にほかなりません。「人間の天花、天雨曼陀羅華(てんうまんだらけ)、摩訶曼陀羅花(まかまんだらけ)、曼珠沙花(まんじゅしゃげ)、摩訶曼珠沙花および十方無尽国土の諸花」は森羅万象の色心を示しています。森羅万象の色心は妙法の眷属であり、妙法の功徳を「梅花の恩徳分」というのです。「花裡に百億国をなす、国土に開花せる」という言葉は花と国土が一体不二であることを示しています。譬喩を用いて法華経の真髄に迫る道元。その譬喩を譬喩のまま受け止めて、森羅万象の根源に迫るとき仏道が開くのです。

   第十一章 十界とは何か

  仏法は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界論を説いています。しかし、そのとらえ方は法華経と爾前権経(にぜんごんきょう)(法華経以前に説かれた方便を帯した教え)とでは大きく異なるのです。爾前権経は仏界を最高、地獄界を最低とする別々の境界として十界をとらえています。爾前権教が説く仏道修業の目的は、六道(地獄界から天界までの境界)輪廻(りんね)を断ちきり、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の境界を開くことにあります。この爾前権教の十界論を根本的に転換したのが法華経なのです。法華経方便品第二で初めて十如実相が説かれ、十界互具の原理が明かされます。十界互具とは、十界のそれぞれに十界の働きが備わっていることをいうのです。法華経は十界を位の異なる別々の境界とする爾前権経の仮説(方便)を打ち破り、十界はいずれも生命本有(ほんぬ)の平等な働きであることを開示しているのです。十界論について日蓮は次のように説いています。

「数数(しばしば)他面を見るに、或る時は喜び、或る時は瞋(いか)り、或る時は平らかに、或る時は貪(むさぼ)り現じ、或る時は癡(おろか)現じ、或る時は諂曲(てんごく)なり。瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろか)は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於いては六道共に之有(これあ)り。四聖(ししょう)は冥伏(みょうぶく)して現れざれども、委細(いさい)に之を尋ねば之有るべし。…中略…世間の無常は眼前(げんぜん)に有り。豈(あに)人界に二乗界無からんや。無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり。但(ただ)仏界計(ばか)り現じ難し。九界を具(ぐ)するを以て強(し)いて之を信じ、疑惑せしむることなかれ」(『観心本尊抄』)

  地獄から仏界までの十界は生命の種々相であり、それぞれに働きを持っています。十界を要約すると、①地獄は瞋り②餓鬼は貪り③畜生は愚か④修羅は諂曲(自分の意志を曲げて、こびへつらうこと)⑤人は平らか⑥天は喜び⑦声聞は知識欲⑧縁覚は三昧境⑨菩薩界は慈愛⑩仏界は現じ難し――となります。この十種の生命の働きは、宇宙全体にも個の生命の場にも備わっているのです。仏法の目的は生命の本質を説き明かし、真の生きがいを開くことにあります。
 法華経は宿業転換の方法的原理の一つとして、すべての事象に善と悪の両義性を読み取っています。十界もまた、それぞれに両義性を秘めているのです。文上の法華経には、十界を差別する面が残っています。しかし仏だけを特別な境界と錯覚すれば、仏法の生命論はたちまち権威主義化し、破綻してしまうでしょう。十界の衆生は本来、それぞれに色心不二の生命を守り、はぐくみ、成長させる生命本有の働きの譬喩なのです。例えば、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は四悪道(四悪趣(あくしゅ))と呼ばれています。しかし地獄界(苦痛)の本質は善でも悪でもなく、生命が痛みを感ずることによって自らを守ろうとする働きなのです。同じように餓鬼界(貪)は飢えを感ずることによって生命が必要なものを摂取する働き、畜生界(癡)は環境の変化に素早く対応しようとする生命の智慧、修羅界(瞋・慢)は危険と感じたものを排除しようとする生命の働きにほかなりません。
 その生命本有の働きが調和と連帯を失うとき、両義性のマイナス面が浮上するのです。生命の真実を把握するためには、常に十界の両義性を自覚しなければなりません。三悪道、四悪趣、六道、四聖という一義的な呼び方には、偏った生命観を助長する危険性がひそんでいます。

〈地獄界〉
  地獄界には極めて重要な役割があります。人間が生きるために苦痛はどのような意味を持つのでしょうか。精神的、肉体的に大きな傷を受けたとき、生命は外からの情報や物理的刺激をできるだけ遮断することによって自己の生命空間を縮小し、ひたすら傷の回復に全力を上げるのです。そこに苦痛を感ずることの重要な役割があります。私たちの日常的価値観は、苦痛をマイナス・イメージでとらえがちですが、その本質は生命を維持し、より力強くよみがえるための智慧(内在的活力)にほかなりません。
 痛みの感覚は生命を守り、人間性を形成するための不可欠な情報源なのです。母と子はその出会いの初めから、生命の連帯に支えられた痛みの共感を持つのだといいます。産む母と生まれる子供が共有する痛みの感覚に、人間としての連帯の原点を読み取ることができるでしょう。現代社会の価値観は、その痛みの共感の場を切り裂く方向に偏ってきているのではないでしょうか。
 家庭にも学校にも地域にも、痛みに共感してくれる人を見失った子供たちは、見えない地獄の責め道具(大人が考えた規則や制度)から逃れるために、自己と他者の関係を暴力的に変えようとするに違いありません。現代社会は、表面的にマイナス・イメージでとらえたものを、すべて切り捨てる方向に動いています。それは痛みが社会的に弱い立場の人たちに、一方的に押し付けられることを意味します。家庭や教育の現場にも同じ力が働いているのです。
 痛みの感覚、つまり地獄界は生命を維持するために欠かせない働きなのです。年を取って痛感神経が鈍くなった人は、自分の足が囲炉裏の中で火傷をしていても痛みを感じません。先天的に痛感神経の欠落した子供は、常にけがをしないように周囲の人たちが見守ってやらなければ生きられません。地獄界は人間が人間として生きるための重要な役割を担っているのです。

〈餓鬼界〉
  餓鬼界の本質は、心身が必要なものを外界から取り入れようとする働きにほかなりません。餓鬼界について「この道(どう)は余(よ)道と往還(おうげん)し善悪相通ずる」(『立世阿毘曇論(りゅうせあびどんろん)』)と説かれています。「余道と往還し」は十界互具を示しています。餓鬼界がなければ声聞・縁覚・菩薩の向上心も生まれません。餓鬼道のおかげで人間は身心ともに成長することができるのです。餓鬼界を一義的に悪と見て侮蔑し、排除する価値観は生命の法に違背します。「余道と往還」するのは餓鬼道だけではありません。十界はいずれも「余道と往還」しているのです。日蓮は餓鬼界の働きについて次のように述べています。

「経に云く、『一を藍婆(らんば)と名(なづ)け乃至汝等但能(ないしなんだちただよ)く法華の名を護持する者は福量(はか)るべからず』等云云、是れ餓鬼(がき)界所具の十界なり」(『観心本尊抄』)

  引用されている経文は法華経陀羅尼品第二十六の文で、藍婆をはじめとする十羅刹女(じゅうらせつにょ)とその母である鬼子母神(きしもじん)、その眷属たちが末法に法華経を受持、読誦し、修行する者を擁護することを仏に誓い、仏が十羅刹女たちに成仏得道の印可を与えるところです。十羅刹女、鬼子母神は餓鬼界の働きを象徴しています。妙法に随順するとき、餓鬼界もまた慈悲を働きをよみがえらすのです。

〈畜生界〉
 畜生界の本質は生きている場の変化に素早く対応しようとする生命の働きにほかなりません。野生の動物は危険に遭遇したとき、とっさに状況を判断して戦うか逃げるかを決めます。人間は文明という檻の中で、戦うことも逃げることもできない状況に追い込まれやすいのです。その異常に長引くストレスは、現代病の大きな原因となっています。仏法はストレスの文底に難(なん)(逆境)をとらえます。難もまた両義的なのです。畜生界所具の仏界について、法華経提婆達多品第十二に次のように説かれています。

「皆竜女(りゅうにょ)の、忽然(こつねん)の間(あいだ)に変じて男子(なんし)となって、菩薩の行を具(ぐ)して、即ち南方無垢世界(なんぽうむくせかい)に往いて、宝蓮華(ほうれんげ)に坐して、等正覚(とうしょうがく)を成じ、三十二相、八十種好(しゅごう)あって、普(あまね)く十方の一切衆生の為に妙法を演説(えんぜつ)するを見る」

  この文は女人成仏(にょにんじょうぶつ)の証であると同時に、畜生界所具の仏界、すなわち十界互具を表しています。畜生界の本質もまた、生命を守る重要な働きにほかなりません。妙法に照らされた生命の場に慈悲の働きがよみがえるのです。

〈修羅界〉
  修羅界の本質もまた、危険なものを排除しようとする生命の働きなのです。敵の攻撃から生命を守るのは修羅界の働きにほかなりません。免疫機能も修羅界の働きの一つと見ることができます。免疫機能障害の一つである膠原病は、修羅界の働きが調和を失った姿なのです。日蓮は修羅界の働きについて次のように説いています。

「経に云く『婆稚阿修羅王乃至(ばちあしゅらおうないし)一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし』等云云。修羅界(しゅらかい)所具の十界なり』(『観心本尊抄』)

  日蓮は法華経法師品第十の経文を引用して修羅界所具の十界を明かし、修羅界の生命の働きもまた妙法に随順するとき、本来の慈悲の働きを取り戻すことを教示しているのです。

 四悪道のうち餓鬼、修羅、畜生の三つは貪欲(どんよく)(取)、瞋恚(しんに)(捨)、愚癡(ぐち)(選択)の三毒に対応しています。貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)は、人生に無明をもたらす煩悩として、爾前経ではこれを消し去ることが仏道修行の目的とされました。しかし、法華経はそれを転換して、三毒(どく)即三徳(とく)(法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ))の法理を説いています。法身・般若・解脱の三徳は、仏の生命を修行の面からとらえた概念です。法身は根源的な法の覚知(取)、般若は生命本有の智慧(選択)、解脱は煩悩の超克(捨)ととらえることができます。つまり、三毒と三徳は生命が必要なものを取、捨、選択する働きの両義性にほかなりません。
  爾前経(にぜんきょう)には、この三毒を含めて貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)の六つの煩悩が説かれています。修羅界は、日蓮が「諂曲(てんごく)なるは修羅」と指摘するように、勝他(しょうた)の念にかられて他より劣ることに耐えられない心、すなわち慢を象徴しています。煩悩の一つとされる慢は生命の主体性の現れであり、自他隔別の主体性は無慈悲に通じ、自他不二の主体性は慈悲に通じるのです。疑(ぎ)と悪見について爾前経には細かく説かれていますが、これは両義的な癡(ち)の働きをさらに一義的に分析・体系化したものにほかなりません。貪・瞋・癡・慢・疑・悪見などの煩悩を消し去れば、仏の生命の働きである三徳も消滅することになります。煩悩がなければ、仏の生命を開くことはできないのです。
  さらに仏法は十界の色心を十如是(じゆうによぜ)と三世間(さんせけん)に分類しています。


第十二章 十如是とは何か

  日蓮は、法華経方便品の冒頭にある「仏の成就したまえる所は、第一希有難解(だいいちけうなんげ)の法なり、唯、仏と仏と乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。所謂(いわゆる)諸法の如是相(によぜそう)、如是性(しよう)、如是体(たい)、如是力(りき)、如是作(さ)、如是因(いん)、如是縁(えん)、如是果(か)、如是報(ほう)、如是本末究竟等(ほんまつくきようとう)なり」という一節を取り上げて、次のようにその意義を明らかにしています。

 我が身が三身即一身の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く、如是相(によぜそう)・如是性(しよう)・如是体(たい)・如是力(りき)・如是作(さ)・如是因(いん)・如是縁(えん)・如是果(か)・如是報(ほう)・如是本末究竟等(ほんまつくきようとう)文。始めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり、是(これ)を応身如来(おうじんによらい)とも又は解脱(げだつ)とも又は仮諦(けたい)とも云うなり。次に如是性とは我が心性を(しんしよう)云うなり、是を報身(ほうしん)如来とも又は般若(はんにや)とも又は空諦(くうたい)とも云うなり。三に如是体とは我が此の身体なり、是を法身(ほつしん)如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり。されば此の三如是を三身(さんじん)如来とは云うなり。此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだつるがはや我が身の上にてありけるなり。かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり。此の三如是を本として是よりのこりの如是はいでて十如是とは成りたるなり。『十如是事』)

  経文は仏が究めつくした諸法の実相は、最も希有にして難解な法、すなわち十如実相であることが宣言されています。十如是の内容を要約すると、①如是相=森羅万象の外面の姿②如是性=内面の性質③如是体=実体(当体)④如是力=森羅万象に内在する力⑤如是作=力が他に及ぼす作用⑥如是因=果をもたらす原因⑦如是縁=果を招く外界の助縁⑧如是果=因が外界の助縁と相まって生む結果⑨如是報=果によって受ける報い⑩如是本末(ほんまつ)究竟(くきょう)等(とう)=始めの相を本とし、終わりの報を末として、本末は究竟して等しいこと――となります。
 この十如是のうち、前の三如是(相性体)が本体で、三諦(三身)に対応しています。如是相が仮諦(応身如来)、如是性が空諦(報身如来)、如是体が中諦(法身如来)となるのです。後の七如是は三如是の用(ゆう)(働き)となります。「法華経をさとれる人」とは、法華経文底の妙法を信受する人にほかなりません。妙法の曼陀羅を信受しなければ三身如来が己心に開くことを悟ることはできないからです。
  さらに日蓮は、十如是の意義を次のように展開しています。

第六如我等無異(にょがとうむい)如我昔所願(にょがしゃくしょがん)の事 御義口伝に云く、我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり。此の本門の釈尊は我等衆生の事なり。如我の我は十如是の末の七如是なり。九界の衆生は始の三如是なり。我等衆生は親なり、仏は子なり。父子一体にして本末究竟等(ほんまつくきょうとう)なり。此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱うる者是(これ)なり。(中略)南無妙法蓮華経を指して、今者已(こんじゃい)満足(まんぞく)と説かれたりと意得(こころう)べきなり。されば此の如我等無異の文肝要なり。如我昔所願は本因妙、如我等無異は本果妙なり。妙覚の釈尊は我等が血肉(けつにく)なり、因果の功徳骨髄(こつずい)に非ずや」(『御義口伝巻上』方便品八箇の大事)

  この文は法華経方便品第二に「舎利弗(しゃりほつ)当(まさ)に知るべし、我本誓願(もとせいがん)を立てて、一切の衆(しゅ)をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲(ほっ)しき、我が昔の所願(しょがん)の如きは、今者(いまは)已(すで)に満足しぬ、一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」とある部分の御義口伝です。「我」とは釈尊という他者性の仏ではなく、妙法に随順する己心に開く釈尊、すなわち自他不二の仏のことなのです。「我が如く等しくして異なること無からしめん」とは色心をもって妙法に帰すること、すなわち発心による唱題です。「我が昔の所願(しょがん)の如きは、今者(いまは)已(すで)に満足しぬ」とは妙法に命(もと)づく心法をもって色法を開くこと、すなわち生の場における慈悲(心法)の振る舞い(色法)の展開にほかなりません。「因果の功徳」は心法の成仏、「妙覚の釈尊」は色法の成仏を示しています。妙法に境智冥合する自己の色心が妙法の当体と開かれるというのです。

   第十三章 三世間とは何か

  三世間(さんせけん)について、日蓮正宗第二十六世の日寛(にちかん)(一六六五~一七二六)は『三重秘伝抄』で、「世間とは即ち差別の義なり、所謂(いわゆる)十種の五陰(ごおん)不同なる故に五陰世間と名づけ、十種の衆生不同なる故に衆生世間と名づけ、十種の所居(しよご)不同なる故に国土世間となづくるなり」と教示しています。
 三世間とは五陰(ごおん)世間、衆生(しゆじよう)世間、国土(こくど)世間の三つで、世間とは差別を意味します。十種とは十界です。三世間とは十界の色心を三つの視点から分類したものにほかなりません。『三重秘伝』の分類を要約すると次のようになります。

〈五陰世間〉
 五陰世間の五陰とは生命の本源である五要素(色(しき)、受(じゆ)、想(そう)、行、(ぎよう)識(しき))のことです。五陰の陰は集積を意味します。この五要素が仮に集まって個々の生命を構成することを、五陰仮和合(けわごう)というのです。五陰を要約すると、①色陰=物質や身体の物質的側面②受陰≡六根を通して外界にあるものを受け入れる心の働き③想陰=受け入れたものを知覚四、心に想い受けベル作用④行陰(ぎよう)=想陰に基づいて起こる意志や行動の善悪にかかわる心の作用⑤識陰=認識、識別、および受・想・行の作用を起こす根本の意識――となります。

〈衆生世間〉
 衆生世間の衆生とは、五陰が仮に和合した状態をいいます。五陰が仮に和合して生命活動をなすのが衆生です。つまり人間の生命は死ねば宇宙に還流し、また因縁生起する故に仮に和合した状態なのです。この五陰仮和合の衆生は地獄界から仏界まで差別があります。衆生世間とは、十戒それぞれに備わる色心の働きの違いということなのです。

〈国土世間〉
 国土世間の国土とは、十界の衆生(正報=(しようほう)主体)が住する依報(えほう)(国土・環境)を意味します。正報とは果報の主体で衆生の身体、依報とは正報の所依(依り所)となる非常の草木、国土です。この正報と依報が二にして、しかも不二(ふに)であることを依正不二(えしようふに)といいます。

 この三世間の文底を開くと、衆生世間は中諦(法身)と対応し、五陰世間は空諦(報身)と対応し、国土世間は仮諦(応身)と対応していることが見えてきます。衆生世間は生命の主体を分類し、五陰世間は生命の智慧を分類し、国土世間は生命の依り所(環境)を分類しているのです。それはさらに色心不二と通底しています。その文底を開くと、五陰世間は心法となり、国土世間は色法となり、衆生世間は不二(中道)となるのです。

   第十四章 一念三千とは何か

  一念三千とは、人間・宇宙・生命の如是実相を説き明かした仏教の極理です。釈尊は出世の本懐である法華経でこの極理を説き、中国の天台大師はその真髄を把握して、一念三千の法門を完成したのです。さらに日蓮は、天台の一念三千の法門を次のように展開しています。

 十界の衆生・各互(かくぐ)に十界を具足す。合すれば百界なり。百界に各各(おのおの)十如是(にょぜ)を具すれば千如なり。此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰(おん)世間を具すれば三千なり。百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦(けたい)の一なり。千如は総て空の義なれば空諦(くうたい)の一なり。三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり。法門多しと雖も但(ただ)三諦なり。この三諦を三身如来とも三徳究竟(くきょう)とも申すなり。(『一念三千法門』)

 生命には十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)の働きが備わっています。その十界に十界が互具すれば百界となります。百界各々に十如是(じゅうにょぜ)(相(そう)・性・(しょう)体(たい)・力(りき)・作(さ)・因(いん)・縁(えん)・果(か)・報(ほう)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう))が備われば、千如是となります。千如是に三世間が具足して一念三千となるのです。この一念三千は一瞬一瞬の生命に備わる本源的な法、すなわち妙法にほかならなりません。
 十界が互具して百界と現れる色相は、仮和合ですから仮諦となります。百界それぞれに十如が備わって千如となります。千如はすべて空の義ですから空諦(くうたい)となります。三千世間は総じて中諦を表します。法華経はすべて、この三諦を説いているのです。この三諦は三身如来となります。前の三如是(相・性・体)と後の六如是(力・作・因・縁・果・報)が無二無別であり、一貫して等しいことを本末究竟等というのです。本とは仏性、末とは未顕の仏(九界)です。法華経は仏と凡夫、すなわち民衆一人ひとりの生命に差別がないことを明らかにしています。日蓮はで次のように説いています。

 一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・(りゆうじゆ)天親(てんじん)知つてしかもいまだひろ(拾)いいだ(出)さず、但我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり。(『開目抄上』)

 この「一念三千の法門」とは、釈尊が悟った根源の一法、すなわち人間・宇宙・生命のマンダラにほかなりません。「但法華経」は爾前権教ではなく法華経(権実相対)、「本門寿量品」は法華経迹門ではなく法華経本門(本迹相対)、「文の底にしづめたり」は文上脱益ではなく文底下種(種脱相対)を示しています(第三章の「五重の相対」を参照)。このように仏法の極理は三重の文底に秘められているのです。これを三重秘伝といいます。
  この人間・宇宙・生命の極理は、竜樹(生没年不詳、一五〇~二五〇頃の南インドの大乗論師)・天親(生没年不詳、四~五世紀頃のインドの学僧)も説き明かしておらず、『摩訶止観』で理の一念三千を説いた天台大師でさえ、自分では悟っていたが明確には説かなかったというのです。

   第十五章 事の一念三千とは何か

「法界かならずしも上下四維(しゆい)の量にかゝはるべからざれども、四大・五大・六大等の行処(ぎょうしょ)によりて、しばらく方隅法界(ほうぐうほうかい)を建立するのみなり。無想天(むそうてん)はかみ、阿鼻獄(あびごく)はしもとせるにあらず。阿鼻も尽法界(じんほうかい)なり、無想も尽法界なり」(『正法眼蔵』「山水経」)。

  これは道元が言語の本質を指摘した言葉です。道元が伝えようとしていることは、次のように言い換えることができるでしょう。「法界を上下や東西南北の方向、距離、内と外に分けることは本来不可能なのである。目に見えない事(コト)を理解させるために、それを目に見える物(モノ)に喩えて、上下・内外と言っているのだ。天界が上で地獄界が下というわけではない。表層意識が上で深層意識が下というわけでもない。対象を外側、認識する心を内側と立てわけるのも方便にすぎない。天界といえばすべてが天界となり、地獄界といえばすべてが地獄界となる」。
 ここには形而上学が陥りやすい言葉の虚構を乗り越えるための方法的原理が示されています。天台大師もまた『摩訶止観』第五で理の一念三千の意義を説いた後、次のように述べているのです。

「また一心は前に在り一切の法は後に在りといわず。また一切の法は前に在り一心は後に在りといわず。たとえば八相(はっそう)が物を遷(うつ)すがごとし、物が八相の前に在らば物は遷されず、相が物の前に在らばまた遷されず。前もまた不可なり、後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし、もし一心より一切の法を生ぜば、これすなわち縦なり、もし心が一時に一切の法を含まば、これすなわち横なり。縦も不可なり、横も不可なり。ただ、心は一切の法、一切の法はこれ心なるなり。故に縦にあらず横にあらず、一にあらず異にあらず、玄妙深絶(げんみょうしんぜつ)にして識(しき)の識(し)るところにあらず、言(げん)の言(い)うところにあらず、故に称して不可思議の境となす。意ここに在るなり。云云」

  天台大師は一念三千という法界の在り方を、空間になぞらえて前後とか縦横、あるいは一つであるとか別々であるといった形で分析・統合の論理でとらえることはできないといいます。天台大師は理の一念三千がはらむ言語的な限界を自覚していたことが分かります。天台大師も道元も、法華経の諸法実相・色心不二の心を自分の譬喩で語っているのです。仏法が説く三諦論にも同じことが当てはまります。三諦円融(円融三諦)といっても空諦と仮諦、中諦の三つが前後、左右、縦横に並んだり重なっているのでもなく、三つのものが一つに融合しているわけでもありません。空諦と言えば空諦、中諦と言えば中諦、仮諦と言えば仮諦がすべてなのです。
  しかし混沌を分節して意味を生み出す言語の機能を用いなければ、一念三千の法理を人々に伝えることはできません。従って天台大師が分析・統合化した一念三千の法門もまた譬喩の限界を超えることはできず、さらなる文底への思索が問われているのです。それは言語で表現されたものは常に、それを正しく位置づける根源的な法理が求められている、ということにほかなりません。
 鎌倉時代の天台宗は既に世俗の利権に汚染され、その一念三千の法門は実証を伴わない単なる理論に還元されていました。それを厳しく批判した道元は、法華経の文底、すなわち森羅万象の奥底に「古仏の道」、すなわち妙法を見いだしたのです。日蓮もまた天台宗の実態を厳しく破折しています。そして法華経寿量品の文底、すなわち森羅万象の奥底に妙法をとらえ、さらに妙法を事の一念三千の曼陀羅として顕現したのです。日蓮は天台大師の理(り)(理論)を事(じ)(実践)に展開したといえるでしょう。

     第十六章 九識論とは何か

 人間の心を分析して現代心理学の基盤を確立したのは、ジグムント・フロイト(一八五六~一九三九)とカール・ユング(一八七五~一九六一)です。オーストリアの神経病学者・精神分析学者であるフロイトは、精神分析によって失錯行為と夢の意味、エディプス・コンプレクス、攻撃性の問題、空想や創作の心理的意味などを明らかにしています。 無意識を分析する手段として自由連想法を編み出すとともに、神経症の治療理論を確立し、これを「精神分析」と名づけたのです。フロイトの著書には、精神分析の総合的解説書である『精神分析入門』(一九一七年)、『続精神分析入門』(一九三三年)、絶筆となった未完の『精神分析概説』などがあります。
 スイスの精神医学者・分析心理学者であるユングは、精神病者の幻覚や妄想が古来から伝わる神話や伝説、昔話などと共通の基本的パターンを持つことを発見し、〈元型〉という概念を一九一九年に発表しています。ユングには『心理学と錬金術』(一九四四年)、『アイオーン』(一九五一年)、『結合の神秘』(一九五五~五六年)、『個性化とマンダラ』(論文集)などの一連の著作があります。自己のシンボルとして〈マンダラ〉に関心を抱き、研究に打ち込んでいることから、東洋思想や仏教について深く研究していることがうかがえます。東洋思想に啓発されたユングは、無意識の深層に集合的無意識を想定しています。
 ユングとフロイトの考え方には、いくつかの相違点があります。フロイトがリビドーを性的、反理性的なものとしているのに対し、ユングはリビドーをより幅広い心的エネルギーととらえているのです。さらに無意識に対する両者の考え方も違っていました。フロイトは無意識を快感原則に支配された反理性的なものと考えましたが、ユングは無意識を意識を補償する積極的、肯定的な機能をもつものと考えたのです。こうしたフロイトとユングの研究を引き継ぐ形で、現代心理学はより多角的な研究を展開しています。
 仏法が説く唯識哲学は現代心理学が取り上げている多くの問題を先取りし、より深遠な論理を展開しているといっても決して過言ではありません。
 仏法は物事を識別する心の作用を九つに分類し、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識のほかに、第七識(末(ま)那(な)識)、第八識(阿頼耶(あらや)識)、第九識(阿摩羅(あまら)識)の三つを加えています。識とは対境の異同を知る心の作用です。五根(感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身の働き)が対境(色・声・香・味・触)に縁して生ずる識を五識といいます。第六識(意識)は、意根が法境(思考や感情の対象)に縁して物事を判断し、推理する働きです。
 第七識(末那識)は境に縁することなく、思考・感情を思い量る働きなので思量識とも呼ばれます。この第七識は美醜・好悪・全体・部分などを判断する働きです。自我に愛着し、法に執する煩悩の渦巻く段階から、法空を証得する清浄の段階まで含んでいます。
 第八識(阿頼耶識)は無意識の心の領域であり、前七識を支えています。一切法(森羅万象)を含蔵(ごんぞう)しているので含蔵識ともいうのです。藏には能蔵・所蔵・執蔵の三つの働きがあります。能蔵は経験世界を生成し、所蔵は自己の行為の結果を保持します。執蔵とは第七識(末那識)の働きによって阿頼耶識が根源的な我として執着されてしまうことをいうのです。阿頼耶識はまだ染浄の二法を含んでおり、根源的な生命の心王の座とはいえません。阿羅耶識には現代科学が発見した遺伝子情報も含まれています。阿羅耶識はさまざまな種子(しゅうじ)を集め、一瞬もとどまることのなく変化しつづける激流なのです。
 爾前権経を依経とする唯識派は、この第八識を根本にして教義を立てています。しかし、染浄の二法を含む阿羅耶識を根本にしているかぎり、文明社会に構造的に組み込まれた両義性のねじれを振りほどくことはできません。
 第八識の奥底には、清浄無染(むぜん)の第九識(阿摩羅識)が秘められているのです。それは無垢(むく)識、清浄識(しょうじょうしき)とも呼ばれます。天台宗では、一切衆生の生命に九識(心王真如の都)が存在することを把握し、これを顕現する方法として観念観法を用います。天台大師の解釈によれば、釈尊は五百塵点劫成道の時、この第九識(妙法)を悟ったことになります。九識心王真如の都とは久遠即末法の生命、すなわち我本行菩薩道を行ずる民衆一人ひとりの生命に開く始源の時(場)にほかなりません。それは宇宙の生命情報があふれ出てくる場に例えることができるでしょう。九識心王と久遠元初は時空を超えて通底しています。それを色心不二・久遠即末法というのです。
  デカルトの「我思う故に我あり」という意識は第七識(末那識)の一面、プラトンのイデア論やフロイトのイドは第八識(阿頼耶識)の一面、ユングの集合的無意識は第九識(阿摩羅識)の一面をとらえたものと見ることができます。

   第十七章 南無妙法蓮華経とは何か

 日蓮は法華経寿量品の文底に秘められた人間・宇宙・生命の極理を事の一念三千の曼陀羅(本尊)として顕わしました。この曼陀羅と境智冥合する民衆一人ひとりの生命に久遠元初の釈尊がよみがえるのです。日蓮は南無妙法蓮華経という題目について、『御義口伝』の冒頭で次のように述べています。

「南無妙法蓮華経 御義口伝に云く南無とは梵語(ぼんご)なり、此(ここ)には帰命(きみょう)と云う。人法(にんぽう)之れ有り、人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり。又帰と云うは迹門不変真如(しゃくもんふへんしんにょ)の理に帰するなり。命とは本門随縁真如(ほんもんずいえんしんにょ)の智に命(もとづ)くなり。帰命とは南無妙法蓮華経是(これ)なり。釈に云く『随縁不変(ずいえんふへん)・一念寂照(いちねんじゃくしょう)』と。又帰とは我等が色法(しきほう)なり、命とは我等が心法(しんぽう)なり、色心不二(しきしんふに)なるを一極(いちごく)と云うなり。釈に云く、『一極に帰せしむ、故に仏乗と云う』と。又云く、南無妙法蓮華経の南無とは梵語、妙法蓮華経は漢語なり。梵漢共時(ぼんかんぐじ)に南無妙法蓮華経と云うなり。又云く、梵語には薩達磨(さだるま)・芬陀梨伽(ふんだりきゃ)・蘇多覧(そたらん)と云う。此(ここ)には妙法蓮華経と云うなり。薩(さ)は妙なり、達磨(だるま)は法なり、芬陀梨伽(ふんだりきゃ)は蓮華なり、蘇多覧(そたらん)は経なり、九字は九尊の仏体なり。九界即仏界の表示なり。妙とは法性(ほっしょう)なり、法とは無明(むみょう)なり、無明法性一体なるを妙法と云うなり。蓮華とは因果(いんが)の二法なり、是又(これまた)因果一体なり。経とは一切衆生の言語音声(ごんごおんじょう)を経と云うなり。釈に云く『声仏事を為す、之を名づけて経と為す』と。或は三世常恒(さんぜじょうごう)なるを経と云うなり。法界は妙法なり、法界は蓮華なり、法界は経なり。蓮華とは八葉(よう)九尊(そん)の仏体なり、能(よ)く能く之(これ)を思う可し已上」

 南無妙法蓮華経の「南無」は梵語の音訳で帰命と訳されます。「人法(にんぽう)之れ有り」の「人」は文底の釈尊で色法、「法」は文底の法華経で心法、「人法」は色心不二なる妙法を表します。「迹(しゃく)門(もん)不変(ふへん)真如(しんにょ)の理に帰する」とは、〈今、ここに〉生命の法(妙法蓮華経)を信じ、我本行菩薩道を実践することです。「本門(ほんもん)随(ずい)縁(えん)真如(しんにょ)の智に命(もとづ)く」とは、我本行菩薩道を実践する生命に久遠元初の釈尊(寿量文底の仏の生命)が、〈今、ここに〉よみがえることを意味します。その生命の境界を「随縁不変(ずいえんふへん)・一念寂照(いちねんしゃくしょう)」というのです。
 不変真如の理に帰する生命の働きは色法を表とした心法であり、随縁真如の智に命く生命の働きは心法を表とした色法です。帰命(南無)は随縁不変・一念寂照、すなわち色心不二を表します。「一極」とは色心不二であり、色心不二なる妙法に帰命することを仏成というのです。
「妙法」の「妙」は法性、「法」は無明です。法性は悟り、無明は迷いとなります。無明と法性が一体であることを妙法というのです。妙法に違背する思想や行動、制度がはびこれば、台風の目のように矛盾が拡大し、人間社会に禍をもたらします。これを総罰という。のです。人間が人間の命を奪うことを正当化したり、権力者が民衆の人生を搾取して自己の利権を拡大するような思想や行動、法律や制度は妙法に違背します。
 法性と無明は別々のものではなく、色心不二・久遠即末法なる森羅万象の働きが妙法への信によって功徳の縁となり、妙法への不信によって罰の縁となるのです。太陽の光と熱は何が縁となるかによって、地球に緑の楽園をもたらす場合もあれば、焦熱地獄をもたらす場合もあります。。
「蓮華」は因果の二法、すなわち因果一体・因果倶時を表しています。仏法は因果の二法を宇宙・森羅万象を貫く法則ととらえているのです。これには因果(いんが)異時(いじ)と因果倶時(いんがぐじ)の二つの見方があります。言葉で分節された過去・未来・現在という時間の流れの中でとらえれば、すべての現象は因果異時となります。例えば春に種をまくと秋に実が成るとか、真剣に勉強すれば試験に合格するといった見方です。法華経の文底に秘められた色心不二・久遠即末法の妙法は、花が開くと同時に実が成る蓮華に譬えられます。花は因、実は果です。花と実が同時の蓮華は因果倶時(一瞬の中に因と果が現成する法理)の妙法を象徴しているのです。
 森羅万象は因果(因縁)の理法によって一つに結ばれています。因果異時は因果が空間的に直線的・並列的に波及する物理的論理の世界観、因果倶時は因果が時間的に双方向に波及するマンダラ的法理の世界観です。森羅万象は色心不二・久遠即末法という生命の場に因果異時即(そく)因果倶時に現成しています。
「経」とは一切衆生の言語音声です。「声仏事を為す」の「声」とは言葉を理解し、使用する生命の働きをいいます。「之を名づけて経と為す」の「経」とは、価値創造の場で使用される一回性の言語です。妙楽大師の『法華文句記』には「依報(えほう)正報(しょうほう)常に妙経を宣(の)ぶ」とあります。依報は環境、正報は主体を意味し、森羅万象の実相がそのまま経であることを示しているのです。
「三世常恒(さんぜじょうごう)なるを経と云う」の「経」とは、言葉を成立させると同時に言葉に支えられているパラダイム、すなわち政治、社会、文化を支える生命の働き、影響力にほかなりません。
 現代言語学を確立したソシュールは、その『一般言語学講義』の中で言語の本質を、ラング、パロール、ランガージュの三つに分類しています。ラングは言語を成り立たせている構造性、パロールは一回性の発話、ランガージュは人間の言語理解能力です。御義口伝の「声仏事を為す」「之を名づけて経と為す」「三世常恒なるを経と云う」の三つは、ソシュールの「ランガージュ」「パロール」「ラング」と対応し、言葉のパラダイムは宇宙のパラダイムと対応しています。そして、宇宙のパラダイムと生命(遺伝子)のパラダイムは互いに照らし合い、響き合っているのです。南無妙法蓮華経とは森羅万象を生・住・異・滅させている根源の一法の名前なのです。
 ソシュールは、人間に備わる普遍的な言語理解・抽象化・カテゴリー化などの能力をランガージュと名づけ、それぞれの言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングと呼んで、この二つを明確に立て分けています。
 ソシュールによれば、ランガージュは自然と対置される人間文化の源泉であり、ラングは社会的関係によって歴史的、地理的に多様化している個別文化なのだといいます。さらにソシュールは、特定の話し手によって発話される具体的音声の連続をパロールと呼んでラングと区別しています。ラングはパロールを規制すると同時に、パロールによって変革されるのです。
 ラングは人間の文化や制度、個人の宿業に対応しています。ソシュールが追究した言葉の本質とは、既に存在しているものを名指しする手段ではなく、混沌を分節することによって新しい意味を生み出す存在喚起力にほかなりません。言葉は伝達の手段であると同時に、認識および自己表出、自己改革の手段なのです。
 ソシュールは「いかなる事物も、いかなる対象も即自的には与えられていない」といいます。つまり、一つ一つの言葉はそれ自体では意味を持たず、全体の関係性の中で初めて意味を表すのです。ラングを構成する各要素は、共存することによって相互に価値を決定し合っています。その価値は関係性の網の目に生まれるのです。これは仏法の縁起やマンダラの法理と通底しています。ソシュールは、後にユングが掘り起こすマンダラの原理を先取りしていたのです。

      第十八章 曼陀羅とは何か

 物理学者によると物質の最小単位である原子は、太陽系によく似た構造をしており、相対的に極大の空間に極微の陽子や電子、中性子などが高速で飛び回っているのだといいます。物質的部分はほんのわずかで、ほとんどが空間なのです。空間は物質を生み出し、変化させる力に満ちあふれています。
 仏法はこの空間に目を凝らし、その論理と実践を展開したのです。日蓮が曼陀羅として顕わした十界の生命は、この空間にみなぎる力域を象徴しています。古来、マンダラにはさまざまな記号が用いられてきました。文字のマンダラもあれば、絵像や立体像、幾何学模様のマンダラもあります。
 日蓮が弘安二年十月十二日(一二七九年)に建立した事の一念三千の大曼荼羅は、文字によって顕されています。そこに記されているのは、法華経の虚空会(こくうえ)の儀式にほかなりません。中央に南無妙法蓮華経の七字、その下に日蓮と署名して花押が据えられています。左上部に釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、右上部に法華経の真実を証明する多宝如来(たほうにょらい)が記されています。これは釈迦・多宝の二仏並座(にぶつびょうざ)を顕すのです。釈迦は智・心法、多宝は境・色法、二仏並座は境智冥合・色心不二を顕します。その左右に従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)で大地より涌出する四菩薩(右側に上行菩(じようぎよう)薩と無辺行(むへんぎょう)菩薩、左側に淨行(じようぎよう)菩薩と安立行菩(あんりゆうぎよう)薩)等が配されています。さらに中央右側に文殊師利(もんじゅしり)菩薩、舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)、帝釈(たいしゃく)天王、第六天魔王(だいろくてんのまおう)、大日天王(だいにちてんのう)等が並び、中央左側に普賢(ふげん)菩薩、迦葉(かしょう)尊者、大梵天王(だいぼんてんおう)、大(だい)月(がつ)天王(てんのう)、大明星天王(だいみょうじょうてんのう)等が並びます。下部右側に鬼子母神(きしもじん)、提婆達多(だいばだった)、転輪聖王(てんりんじょうおう)、阿修羅王(あしゅらおう)等が配され、左側に十羅刹女(じゅうらせつにょ )、阿闍世王(あじゃせおう)、大竜王(だいりゅうおう)等が配されています。その下右側に天照大神(てんしょうだいじん)と天台大師(てんだいだいし)等が並び、左側に八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)と伝教大師(でんぎょうだいし)等が並びます。そして四隅(東西南北)に大きく大持国天王(だいじこくてんのう)(右上、東)、大広目(だいこうもく)天王(右下、西)、大増長(だいぞうちょう)天王(左下、南)、大毘沙門(だいびしゃもん)天王(左上、北)の四天王とその眷属が記されます。さらに両脇には梵字で不動明王(ふどうみょうおう)等(右脇)と愛染明王(あいぜんみょうおう)等(左脇)が記されているのです。

 このように妙法の曼陀羅には、南無妙法蓮華経の七文字を中心に六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)、四聖(ししょう)(声聞・縁覚・菩薩・仏)、天王・明王の名前が記されています。四聖の名前の上には南無の文字があります。南無は帰命と発心を表すのです。さらに文字曼陀羅の左右の肩には、功徳と罰の文証が記されています。向かって左肩に「有供養者福過十号」(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)、右肩に「若悩乱者頭破七分」(若(も)し悩乱する者は頭(こうべ)七分に破(わ)る)と記されています。この本尊の相貌(そうみょう)について、日蓮は法本尊開顕の書である『観心本尊抄』の中で次のように述べています。

「其の本尊の為体(ていたらく)本師の娑婆(しゃば)の上に宝塔空(くう)に居(こ)し塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩・文殊弥勒(もんじゅみろく)等は四菩薩の眷属(けんぞく)として末座(まつざ)に居(こ)し迹化他方(しゃっけたほう)の大小の諸菩薩は万民の大地に処(しょ)して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処(しょ)し給う」

 ここに記された本尊の相貌(そうみょう)は、宇宙(森羅万象)の色心不二を象徴する法華経の虚空会(こくうえ)の儀式(虚空での説法の座)をそのまま映し出しています。「本師の娑婆の上に宝塔空に居し」とは、色心不二・久遠即末法の時空にほかなりません。このように、文底独一本門の曼陀羅が文字で顕されているのはなぜなのでしょうか。日蓮は次のように教示しています。る。

「日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽(は)も、奥州の金(こがね)も、乃至(ないし)国の珍宝・人畜、乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂(おさま)れり。天眼をもっては、日本と申す二字を見て、六十六国、乃至人畜等をみるべし。法眼をもっては、人畜等の此(ここ)に死し、彼(かしこ)に生(うま)るをもみるべし。譬えば人の声をきいて体を知り、跡をみて大小をしる。蓮(はちす)をみて池の大小を計り、雨をみて竜の分斉(ぶんざい)をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり」(『報恩抄』)

  日本という二字の中に、日本国内のあらゆる珍宝、人や動物、寺塔神社などすべてが収まっています。それだけではありません。日本という二字の中には人や動物の生き死になど、さまざまな出来事も収まっています。日本国内に存在する物事すべてを絵や模型で表すことはできません。しかし文字にはそれを可能にする不思議な力が秘められています。日蓮はマンダラの原理を金剛界(こんごうかい)曼陀羅や胎蔵界(たいぞうかい)曼陀羅から学びました。しかし色心不二・久遠即末法の生命は、文字マンダラとして顕わす以外にないことを悟ったのです。

      第十九章 四天王とは何か

  仏教には諸天善神が登場します。その役割は仏法を守ることです。諸天善神が守るのは経文ではなく、仏法を信ずる人々の心であり、その心が経文や寺院を守るのです。諸天善神の代表として四天王について考察してみましょう。
 宇宙・生命の壮大なドラマを展開する法華経の舞台には、四天王(①大持国天王(だいじこくてんのう)②大広目(だいこうもく)天王・③大増長天王・④大毘沙門天王)が登場します。四天王は帝釈天の外将で、法華経序品第一で眷属(けんぞく)万の天子とともに列座し、同陀羅尼品(だらにぼん)第二十六では法華経の行者を擁護することを誓っているのです。四天王は須弥山(しゅみせん)の中腹にある四天王天の四方(東西南北)に住む護法神です。日蓮が顕した曼陀羅の四隅(東西南北)には四天王の名前が大きく書かれています。
 ①大持国天王は東方を守護する善神で、須弥山の第四層級、賢上戒に住し、乾闥婆(けんだつば)(香神・尋香等と訳します。天界の楽神で、酒肉を食わず唯香を求め、体から香を出すのでこの名がある)、毘舎遮(びしゃじゃ)(食血肉鬼(じきけつにくき)・噉精鬼(かんしょうき)等と訳す。人間の精気を食う鬼といわれる)を眷属として従えています。
 ②大広目天王は西方を守護する善神で、須弥山の西面中腹に住し、浄天眼によって閻浮(えんぶ)提(だい)の衆生を見守ります。竜、富単那(ふたんな)(臭穢(しゅうえ)、熱病鬼と訳す)を眷属として従えています。
 ③大増長天王は南方を守護する善神で、須弥山の第四層級に住し、鳩槃荼(くはんだ)(陰嚢(いんのう)・形卵(ぎょうらん)等と訳します。人の精気を吸い、変幻自在の悪鬼といわれる)等の諸鬼神を眷属として従えているのです。
 ④大毘沙門天王は多聞天とも呼ばれます。北方を守護する善神で、須弥山の中腹、由犍(ゆけん)陀(だ)羅(ら)山の北峰に住し、夜叉、羅刹を眷属として従えています。
 このように四天王が従える諸鬼神は両義的な精神作用を象徴し、法華経では善鬼として法華経の行者を守護する働きとなるのです。このように 四天王が悪鬼魔神を眷属として従えていることからも、仏法が基本的にあらゆる事象に善と悪の両義性を見ていることが分かります。
 この四天王の働きは文明社会のプラスの働き(①管理化→大持国天王②権力化→大広目天王③能率化→大増長天王④情報化→大毘沙門天王)を象徴しています。四天王は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に配することができます。大持国天王は鼻根と舌根、大広目天王は眼根、大増長天王は身根と意(心)根、大毘沙門天王は耳根となるのです。
 これに対応する文明社会のマイナス面を破折しているのが念仏無間(ねんぶつむげん)・禅天魔(ぜんてんま)・真言亡国(しんごんぼうこく)・律国賊(りつこくぞく)という日蓮の有名な四箇(しか)の格言(かくげん)です。これは日蓮が立宗宣言(建長五年四月二十八日)に当たり、当時最も流布していた四宗(念仏・禅・真言・律)を選んで、それぞれの教義の根源的な矛盾を簡潔に破折した言葉なのです。この四箇の格言は経典の内容を破折したものではなく、各宗派による経典の位置づけの誤りと、その悪影響を破折しているのです。
  日蓮は経典の文底に森羅万象の心性を読み取っています。従って、四箇の格言は森羅万象の一つである社会現象にも当てはまるはずです。仏教の根本的な精神が失われ修行も形骸化の傾向を強めている現代においては、四箇の格言はゆがんだ教義・価値観に染められた社会構造に潜む謗法への破折ととらえることが必要なのです。
 四箇の格言を現代社会の現実に即してとらえ直すとき、文明社会における権力化(念仏)・能率化(禅)・情報化(真言)・管理化(律)のマイナス面を厳しく警告していることが見えてきます。四天王と四箇の格言は文明社会の両義性を照らし出しているのです。

   第二十章 仏教は文明社会をどう見ているか①
                    ――権力化社会の両義性――

  四天王天の西に住む大広目天王と四箇の格言の念仏無間は、権力化社会の両義性を象徴しています。大広目天王は太陽が沈む西方を守護するのです。爛々と輝く目は闇の世界を見通す力を持ちます。権力は目の力で味方を守ると同時に、敵とみなした者を射すくめます。権力者が互いに憎しみの眼でにらみ合うとき、地上は地獄の炎に包まれます。権力化社会は天国と地獄の両義性をはらんでいるのです。眼で見守り、支配し、賞罰を与える権力者。権力化社会は眼根(げんこん)に配されます。浄土宗が依経とする三部経(無量寿(むりょうじゅ)経、観無量寿(かんむりょうじゅ)経、阿弥陀(あみだ)経)は、阿闍世(あじゃせ)王一家の権力闘争の犠牲となった女性のために説かれた経典です。浄土の三部経と無量義経の「四十余年未顕真実」の文を対比して、日蓮は次のように述べています。

華厳・方等(ほうどう)・般若・究境(くきょう)最上の大乗経・頓悟(とんご)・漸悟(ぜんご)・の法門・皆未顕(みけん)真実と説かれたり。此の大部の諸経すら未顕真実なり、何(いか)に況(いわん)や浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや。其の上・経経ばかりを出すのみにあらず、既に年月日数を出すをや。然(しか)れば華厳・方等・般若等の弥陀(みだ)往生已(すで)に未顕真実なること疑い無し。(『唱法華題目抄』)

  ここには、釈尊が法華経以前に説いた経々はすべて生命の部分観であり、成仏の直道(じきどう)を隠した未顕真実の教えであることが指摘されています。それを宣言した無量義経には、未顕真実の経々が説かれた時と場所まで記されているのです。浄土の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)は、阿闍世王(あじゃせおう)の母、韋提希(いだいけ)夫人のために説かれた教えです。阿闍世王が提婆達多(だいばだった)の甘言に乗り、自分の父・頻婆裟羅王(びんばしゃらおう)を幽閉して餓死させようとしたとき、韋提希夫人は体に蜜を塗って夫を養い、その命を守ろうとしました。それを知った阿闍世王は激怒し、母である韋提希夫人をも殺そうとしたのです。絶望した韋提希夫人は釈尊に救いを求めました。一説によると、釈尊はただちに王宮に赴き、韋提希夫人のために観無量寿経を説いたと言われています。
 釈尊は韋提希夫人に、今世で幸せになることは諦めて、阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わることを願いなさい、と説いています。極楽浄土という幻想の世界を渇仰させる教えに、現実への対応力を麻痺させる麻薬が含まれていることは確かです。つまり観無量寿経は夫と息子の権力闘争の犠牲となり、地獄の苦しみの境界にあった韋提希夫人を救うための方便の教え、つまり一時の痛み止めの麻薬にほかなりません。日蓮は次のように浄土の三部経を位置づけています。

 浄土の三部経とは、釈尊一代五時の説教の内(うち)第三方等(ほうどう)部の内より出でたり。此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏出世の本懐にも非ず、唯暫く衆生誘引の方便なり。譬えば塔をくむに足代(あししろ)をゆうが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり、法華を説き給うまでの方便なり。法華の塔を説給(ときたまう)て後は、念仏の足代を切り捨べきなり。然(しか)るに法華経を説き給うて後、念仏に執著(しゅうじゃく)するは塔をくみ立て後、足代に著(じゃく)して塔を用いざる人の如し。豈(あに)違背の咎(とが)無からんや。然(しか)れば法華の序分・無量義経には四十余年未顕真実(みけんしんじつ)と説き給て念仏の法門を打破り給う。(『念仏無間地獄抄』)

  方便の教えである浄土三部経は、法華経という塔を建てる際に使われた足場のようなものです。建物を建てるには足場が必要ですが、建物が完成したときには足場はかえって邪魔になります。同じように、痛みを麻痺させる麻薬の使い方を誤れば人生を破壊する恐ろしい毒薬になる、と日蓮は警告しているのです。仏法は極めて深遠な心理学でもあります。浄土の三部経は、心理学的な治療法として正しく位置づける必要があるのです。さらに日蓮は、阿弥陀経に超権力への幻想がひそんでいることを見逃しませんでした。阿弥陀経には次のように極楽の世界が描かれています。

これより西方(さいほう)、十万億土の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽(ごくらく)という。その土に仏ありて、阿弥陀と号す。(かれ)いま、現に在(い)まして説法したもう。舎利弗(しゃりほつ)よ、かの土、なにがゆえに、名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦しみあることなく、ただもろもろの楽しみのみを受く。かるがゆえに極楽と名づく。(『浄土三部経』岩波文庫)。

 西方十万億土の彼方に極楽という世界がある。その仏の名は阿弥陀如来という。極楽という名前の由来は、その国の人々がみな、あらゆる苦しみを免れ、楽しみだけを受けているというのです。このように阿弥陀経の説く極楽は、生命の両義性を無視した幻想の超権力を象徴しているのです。極楽も阿弥陀如来もメタ言語の世界にほかならりません。日蓮は、言葉で虚構された仏の権威主義化を次のように厳しく破折しています。

 当世日本国は人毎(ごと)に阿みだ経並に弥陀の名号等(みょうごう)を本として法華経を忽諸(こっしょ)し奉る。世間に智者と仰がるる人人、我も我も時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども、小善を持て大善を打ち奉り、権経(ごんきょう)を以て実経を失ふとがは小善還って大悪となる、薬変じて毒となる、親族還って怨敵と成るが如し。難治の次第なり。(『下山御消息』)

「当世日本国は人毎に阿みだ経並に(ならび)弥陀の名号等を本として法華経を忽諸(こっしょ)し奉る」とは、自己の欲望を満たす超権力にあこがれ、煩悩即菩提・生死即涅槃という等身大の生命の価値、生命のメッセージを見失うことにほかなりません。極楽という幻想の超権力に執着して、生命の真実を見失えば、小善どころか大悪となってしまう。阿闍世王一家と同じように、親族同士が権力争いで憎み合うのは避けられない。その謗法を正すのは極めて難しいと日蓮はいうのです。
「世間の智者と仰がるる人人」とは超権力への幻想にとりつかれ、そこに生きがいを見いだそうとする心です。。「我も我も時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども」とは、色心不二・久遠即末法の法理に違背する言動です。「権経を以て実経を失ふとが」とは、生命の全体観を忘れて部分観にとらわれる錯誤です。「小善還って大悪となる、薬変じて毒となる」という言葉は、転倒した価値観に基づく選択の集積が、人間疎外、自然破壊、国家・組織悪、戦争につながることを示しています。
 阿弥陀はアミターバの音訳で、無量光あるいは無量寿と訳されます。無量は諸法(色法)、光(寿)は実相(心法)を表すのです。文底からとらえ直せば、阿弥陀如来もまた色心不二の妙法の力用(りきゆう)の譬喩であることが見えてきます。三世諸仏はすべて妙法を師として成道するのです。阿弥陀如来も大日如来も例外ではありません。妙法を見失うとき、いかなる優れた思想も生命の大地から切り離された根無し草となるのです。
 大企業の管理職、特に机で事務を執る人たちの間に腰痛を訴える人が増えています。運動不足による筋力の減退が原因です。現代社会は一部の人間に(すべての人間にと言うべきかもしれません)、自分の身体を動かすことなく目で管理するだけで他者を支配し、選別する役割を与えています。人間の五感が機能する範囲は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の順に狭くなります。つまり、視覚は自分の身体から最も遠くにある物を識別できる感覚なのです。視覚以外の感覚を十分機能させるには、自分の身体を動かさなければなりませんが、視覚は自分の身体を動かさなくても一応間に合います。しかし視覚は途中に遮蔽物があれば近くの物でも見えなくなるのです。そこに大きな陥穽がのぞいています。官庁や大企業では管理者や株主の目から隠れたところで不正事件が多発しているのです。管理者自身が不正事件にかかわる場合もあります。しかも他の感覚と切り離された視覚は、人間的な触れ合いを拒む他者支配と選別の論理につながりやすいのです。眼根について、観普賢菩薩行法経には次のように説かれています。

若(も)し眼根(げんこん)の悪あって 業障(ごうしょう)の眼不浄(まなこふじょう)ならば
但当(ただまさ)に大乗を誦(じゅ)し 第一義を思念すべし
是れを眼(まなこ)を懺悔(さんげ)して 諸(もろもろ)の不善業(ふぜんごう)を尽くすと名づく

 眼根が悪に染められて悪業を積み重ね、その働きにゆがみが生じているならば、大乗(妙法)を唱え、第一義(根源的な生命の法)を思念すべきである。そうすれば眼根の働きを浄化し、不善業(悪業)を断ち切ることができる。
「業障(ごうしょう)の眼不浄(まなこふじょう)ならば」とは、自己の利権獲得に狂奔するゆがんだ権力者の心です。権力的な政治は社会的に弱い立場の人々を切り捨てます。価値観のゆがんだ権力者の眼は支配・服従の関係を強化し、地上に戦争という地獄をもたらします。この危険な状況を克服する方法的原理もまた、我本行菩薩道の実践なのです。この経文には、「但当(ただまさ)に大乗を誦(じゅ)し、第一義を思念すべし」と説かれています。「第一義」とは久遠元初、すなわち色心不二・久遠即末法の妙法にほかなりません。

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          小幡照雄

君と僕は無限の距離を置いて脈動する
二つの世界を形成していた……

五十億劫の時空を超えて
二つの世界が出会った

   性と文学

  性は文学における永遠のテーマの一つといえるだろう。科学が進歩し、男と女、あるいは同性が互いにひかれ合う生理的メカニズムがすべて解明されたとしても、性の謎が完全に解けたとはいえない。それは、カオス理論や複雑系理論の格好のテーマになる。性もまた、人間同士の出会いの一つの形態であり、マンダラと見ることができよう。マンダラを言葉に還元することはできない。男女関係のマンダラ模様を描いた文学は常に、未解決のまま余韻を残して終わらざるを得ないのである。
 古来、哲学者たちは男性と女性の関係を、さまざまな譬喩で語ってきた。しかし、言葉で語られたものは、真実の一面に過ぎない。動物の世界では、雄と雌の関係は種によって異なる場合がある。人間の社会でも、男性と女性の関係は、時代と民族の違いや文化の変遷の中で、さまざまに変化してきた。男性と女性の関係も、権力構造や経済構造に影響されてきたのである。日本人の男女観も時代の流れとともに、大きく変化してきた。
  仏教の場合も、男性と女性の関係は当時の社会的価値観を反映している。仏教もまた、ヒンズー教社会で培われた男性優位の価値観を引き継いでいるのだ。法華経以前に説かれた爾前権教では、女性はことごとに差別され、仏道修行を妨げる魔の眷属とみなされていた。日蓮は、爾前権教の偏った女性観を次のように指摘している。

 されば華厳経に云く「女人は地獄の使なり、能(よ)く仏種子を断ず、外面(げめん)は菩薩に似て内心は夜叉(やしゃ)の如し」云云。銀色女(ごんじきにょ)経に云く、「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも、法界の諸(もろもろ)の女人は永く成仏の期無し」云云。或(あるい)は又女人には五障(しょう)三従(じゅう)の罪深しと申す。其れは内典には五障を明し、外典には三従を教えたり。其の三従とは少(おさな)くしては父母に従い、盛にしては夫に従ひ、老いては子に従ふ。一期(いちご)身を心に任せず、されば栄啓期(えいけいき)が三楽(さんらく)を歌ひし中にも、女人と生れざるを以て一楽とす。天台大師云く「他経には但(ただ)菩薩に記して二乗に記せず。但(ただ)男に記して女に記せず」とて、全く余経には女人の授記これなしと釈せり。(『女人成仏抄』)

  こうした女性観には、古代インド社会に醸成された社会的価値観が色濃く反映されていることが分かる。しかし、法華経提婆達多品第十二は、このような爾前権経の女性観を根本的に転換し、次のように女人(にょにん)成仏を説いている。

文殊師利(もんじゅしり)言わく、
娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)に女(むすめ)有り。年始めて八歳なり。智慧利根にして、善(よ)く衆生の諸根の行業(ぎょうごう)を知り、陀羅尼(だらに)を得(え)、諸仏の所説の甚深の秘蔵悉く能(よ)く受持(じゅじ)し、深く禅定に入(い)って、諸法を了達(りょうだつ)し、刹那(せつな)の頃(あいだ)に於いて、菩提心(ぼだいしん)を発(ほつ)して不退転を得たり。弁才無礙(べんざいむげ)にして、衆生を慈念(じねん)すること、猶(なお)、赤子(しゃくし)の如し。功徳具足して、心に念(おも)い口に演(の)ぶること、微妙(みみょう)広大なり。慈悲仁譲(にんじょう)、志意和雅(しいわげ)にして、能(よ)く菩提に至れり。
智積(ちしゃく)菩薩言わく、
我(われ)釈迦如来を見たてまつるに、無量劫(こう)に於いて、難行苦行し、功を摘み徳を累(かさ)ねて、菩薩の道を求むること、未だ曾(かつ)て止息(しそく)したまわず。三千大千世界を観るに、乃至(ないし)芥子(けし)の如き許(ばか)りも、是(こ)れ菩薩にして、身命(しんみょう)を捨てたもう処(ところ)に非ざること有ること無し。衆生の為の故なり。然(しか)して後(のち)に、乃(すなわ)ち菩提の道を成ず ることを得たまえり。此の女(むすめ)の須臾(しゅゆ)の頃(あいだ)に於いて、便(すなわ)ち正覚(しょうがく)を成ずることを信ぜじ。言論未だ訖(おわ)らざる時に、龍王の女(むすめ)、忽(たいま)ちに前(みまえ)に現じて、頭面(ずめん)に礼敬(らいきょう)し、却(さ)って一面に住して、偈(げ)を以って讃(ほ)めて曰(もう)さく、
深く罪福(ざいふく)の相を達して ?(あまね)く十方(じっぽう)を照らしたもう
微妙(みみょう)の浄き法身 相を具せること三十二
八十種好(しゅごう)を以って 用(も)って法身(ほっしん)を荘厳(しょうごん)せり
天人の戴仰(たいごう)する所 龍神も咸(ことごと)く恭敬(くぎょう)す
一切衆生の類(たぐい) 宗奉(しゅうぶ)せざる者無し
又聴いて菩提を成ずること 唯仏のみ当(まさ)に証知(しょうち)したもうべし
我(われ)大乗の教(おしえ)を闡(ひら)いて 苦の衆生を度脱せん
爾(そ)の時に舎利弗(しゃりほつ)、龍女に語って言わく、
汝久しからずして、無上道を得たりと謂(い)えり。是(こ)の事信じ難し。所以(ゆえん)は何(いか)ん。女身は垢(く)穢(え)にして、是れ法器に非ず。云何(いかん)ぞ能(よ)く、無上菩提を得ん。仏道は懸曠(はるか)なり。無量劫(こう)を経て、勤苦(ごんく)して行を積み、具(つぶ)さに諸度を修して、然(しか)して後(のち)に乃(すなわ)ち成ず。又女人の身には、猶(なお)五障(ごしょう)有り。一には梵天王(ぼんてんおう)と作(な)ることを得ず。二には帝釈(たいしゃく)、三には魔王、四には 天輪聖王(てんりんじょうおう)、五には仏身なり。云何(いかん)ぞ女身(にょしん)、速やかに成仏することを得ん。
爾(そ)の時に龍女、一つの宝珠(ほうじゅ)有り。価値(あたい)三千大千世界なり。持って以って仏に上(たてまつ)る。仏即ち之を受けたもう。龍女、智積(ちしゃく)菩薩、尊者、舎利弗(しゃりほつ)に謂(い)って謂(い)わく、
我宝珠を献(たてまつ)る。世尊の納受(のうじゅ)、是(こ)の事(じ)疾(と)しや不(いな)や。
答えて言わく、
甚だ疾(と)し。
女(むすめ)の言わく、
汝が神力を以って、我が成仏を観(み)よ。復(また)、此れよりも速やかならん。
当時の衆会(しゅえ)、皆龍女の、忽然(こつねん)の間に男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方無垢(むく)世界に往いて、宝蓮華に坐して、等正覚(とうしょうがく)を成じ、三十二相、八十種好(しゅごう)あって、普(あまね)く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見る。

  この経文の重要な語句を取り上げて、日蓮は『御義口伝巻上』(提婆達多品(だいばだったぼん)八箇の大事)の中で、次のように文底の法理を展開している。

第六年始八歳(ねんしはっさい)の事 御義口伝に云く、八歳とは八巻なり。提婆は地獄界なり。竜女は仏界なり。然る間、十界互具百界千如一念三千なり。又云く、八歳とは法華経八巻なり。我等八苦の煩悩なり。惣じて法華経の成仏は八歳なりと心得べし。八苦即八巻なり。八苦八巻即八歳の竜女と顕るるなり。一義に云く、八歳の事はたまをひらくと読むなり。歳(たま)とは竜女の一心なり。八(ひらく)とは三千なり。三千とは法華経八巻なり。仍(よ)って八歳とは開仏知見の所表なり。「智慧利根にして」より「能(よ)く菩提に至れり」まで法華に帰入(きにゅう)するなり。此の中に「心に念(おも)い口に演(の)ぶる」とは口業(くごう)なり。「志意和雅(しいわげ)にして」とは意業(いごう)なり。「悉く能(よ)く受持(じゅじ)し、深く禅定に入(い)って」とは身業(しんごう)なり。三業即三徳なれば三諦法性(さんたいほっしょう)なり。又云く、心念とは一念なり、口演(くえん)とは三千なり。「悉く能(よ)く受持し」とは竜女法華経受持の文なり。歳(たま)とは如意宝珠(にょいほうじゅ)なり、妙法なり。八(ひらく)とは色心を妙法と開くなり。

 「八歳」とは妙法の色心である。衆生には本来、三因仏性が備わっている。三因仏性とは正因仏性(しょういんぶっしょう)・了因(りょういん)仏性・縁因(えんいん)仏性の三つをいう。正因仏性は一切衆生本有(ほんぬ)の仏を開く性分、了因仏性は法性・真如の理を観照する智慧、縁因仏性は正因の助縁となり、了因を開く働きである。「八巻」は縁因仏性、提婆は正因仏性、竜女は了因仏性を表している。「八」とは色心不二・久遠即末法の始源の時を自覚して、わが色心を妙法と開くことにほかならない。

第七言論未訖(ごんろんみこつ)の事 御義口伝に云く、無明即法性(むみょうそくほっしょう)の明文なり。其の故は、智積(ちしゃく)難問の言(ことば)未だ訖らざるに竜女三行半の偈を以て答うるなり。難問の意は別教(べっきょう)の意なり、無明なり。竜女の答は円教の意なり、法性なり。智積は元品(がんぽん)の無明なり。竜女は法性の女人なり。仍(よ)って無明に即する法性、法性に即する無明なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉るは言論未訖(ごんろんみこつ)なり。時とは上(かみ)の事の末(すえ)、未の事の始(はじめ)なり。時とは無明法性同時の時なり。南無妙法蓮華経と唱え奉る時なり。智積菩薩を元品の無明と云う事は「不信此女」の不信の二字なり。不信とは疑惑なり。疑惑を根本無明と云うなり。竜女を法性と云う事は、「我(われ)大乗の教(おしえ)を闡(ひら)いて」の文なり。竜女とは竜は父なり、女は八歳の娘なり。竜女の二字は父子同時の成仏なり。其の故は『時に竜王の女(むすめ)』の文是(これ)なり。既に竜王の女という間(あいだ)、竜王は父なり、女(むすめ)とは八歳の子なり。されば女の成仏は此の品にあり。父の竜の成仏は序品に之れあり。「八竜王有り」の是なり。然りと雖も父子同時の成仏なり。序品は一経の序なる故なり。「又聞いて菩提を成ずること」とは竜女が智積を責めたる言(ことば)なり。されば唯我が成仏をば仏御存知あるべしとて「又聞いて菩提を成ずること、仏のみ当に証知したもうべし」と云えり。「苦の衆生」とは別して女人の事なり。此の三行半の偈は一念三千の法門なり。「?(あまね)く十方(じっぽう)を照らしたもう」とは十界なり。(中略)提婆は我等が煩悩即菩提を顕すなり。竜女は生死即涅槃を顕すなり。文殊をば此(ここ)には妙徳と翻(ほん)ずるなり。煩悩生死具足して当品の能化(のうけ)なり。

 難問する「智積」の心は無明である。智積菩薩は「境智の二法」の境を表す多宝如来に従っている。しかし、知識や体験を積み重ねるだけでは妙法を悟ることはできない。成仏を実証を示す「竜女」の心は法性である。妙法は無明と法性の両義性をはらんでいる。「言論未訖」は本因妙・現当二世を表す。生命の一瞬一瞬は現当二世であり、言論未訖・因果倶時である。能化(のうけ)の文殊も所化(しょけ)の竜女も、主体的な民衆の己心(こしん)に収まる。竜女の成仏を他者の成仏と見る心が無明なのである。

第八有一宝珠(ういちほうじゅ)の事 文句(もんぐ)の八に云く「一とは珠(たま)を献じて円解(えんげ)を得(う)ることを表す」と。御義口伝に云く、一とは妙法蓮華経なり。宝とは妙法の用(ゆう)なり。珠とは妙法の体なり。妙の故に心法(しんぽう)なり、法の故に色法なり。色法は珠なり、心法は宝なり。妙法とは色心不二(しきしんふに)なり。一念三千を所表して竜女宝珠を奉るなり。釈に「円解を得ることを表す」と云うは一念三千なり。竜女が手に持(たも)てる時は性得(しょうとく)の宝珠なり。仏受け取り給う時は修得(しゅとく)の宝珠なり。中に有るは修証不二(しゅしょうふに)なり。「甚だ疾(と)し」とは頓極(とんごく)・頓速・頓証の法門なり。「則(すなわ)ち為(こ)れ疾(と)く、無上の仏道を得たり」なり。神力とは神は心法なり、力とは色法なり。「我が成仏を観(み)よ」とは舎利弗(しゃりほつ)、竜女が成仏と思うが僻事(ひがごと)なり、我が成仏ぞと観ぜよと責めたるなり。観に六即観(ろくそくかん)之れ有り。爰元(ここもと)の観は名字即(みょうじそく)の観と心得(こころう)べきなり。其の故は南無妙法蓮華経と聞ける処を「道場に坐して成仏すること虚(むな)しからざるなり」と云えり。「変じて男子(なんし)と成って」とは竜女も本地(ほんじ)南無妙法蓮華経なり。其の意(こころ)経文に分明(ふんみょう)なり。

  日蓮は竜女が献ずる宝珠を妙法ととらえている。竜女が手に持つ宝珠は性得の宝珠であり、一切の衆生に正・了・縁の三因仏性が備わることをいう。釈尊が受け取る宝珠は修得の宝珠となり、仏道修行によって実際に悟りを得ることを表す。宝珠を献ずる竜女も宝珠を受け取る釈尊も、主体的な一人ひとりの民衆の己心に収まる。他者性の仏から成仏の記別を受けると思う心が無明なのである。「我が成仏を観(み)よ」とは舎利弗(しゃりほつ)、竜女が成仏と思うが僻事(ひがごと)なり、我が成仏ぞと観ぜよと責めたるなり」と、日蓮も明言している。
 法華経陀羅尼品(だらにほん)第二十六には十羅刹女(じゅうらせつにょ)が登場し、法華経を持(たも)つ者を擁護することを誓っている。十羅刹女には、それぞれ①藍婆(らんば)②毘藍婆(びらんば)③曲歯(こくし)④華歯(けし)⑤黒歯(こくし)⑥多髪(たほつ)⑦無厭足(むえんぞく)⑧持(じ)瓔珞(ようらく)⑨皐諦女(こうだいにょ)⑩奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうけ)という名前がある。十羅刹女たちは陀羅尼神呪(だらにしんしゅ)を説き、次のように誓っている。

若(も)し我が呪(しゅ)に順ぜずして 説法者を悩乱(のうらん)せば  
頭破(こうべわ)れて七分(しちぶん)に作(な)ること  阿梨樹(ありじゅ)の枝の如くならん
父母(ぶも)を殺しぬる罪の如く 亦(また)油を圧(お)す殃(つみ)
斗秤(としょう)をもって人を欺誑(ごおう)し 調達(ちょうだつ)が破僧罪(はそうざい)の如く
此の法師(ほっし)を犯さん者は 当(まさ)に是(かく)の如き殃(つみ)を獲(う)べし
諸(もろもろ)の羅刹女、此の偈(げ)を説き已(おわ)って、仏に白(もう)して言(もう)さく、
世尊、我等亦当(またまさ)に、身自(みみずか)ら是(この)の経を受持(じゅじ)し、読誦(どくじゅ)し、修行せん者を擁護(おうご)して安穏なることを得(え)、諸(もろもろ)の衰患(すいげん)を離れ、衆(もろもろ)の毒薬を消さしむべし。
仏、諸(もろもろ)の羅刹女に告げたまわく、
善(よ)い哉(かな)、善い哉、汝等(なんだち)但(ただ)能(よ)く、法華の名(みな)を受持せん者を擁護(おうご)せんすら、福量(はか)るべからず。何(いか)に況(いわん)や具足して受持し、経巻(きょうがん)に、華香(けこう)、瓔珞(ようらく)、抹香(まっこう)、塗香(ずこう)、焼香(しょうこう)、旛蓋(ばんがい)、伎樂(ぎがく)を供養し、種種(しゅじゅ)の燈(ともしび)、蘇燈(そとう)、油燈(ゆとう)、諸(もろもろ)の香油燈(こうゆとう)、蘇摩那華(そななけ)油燈、瞻蔔華(せんぼくけ)油燈、婆師迦華(ばしらけ)油燈、優鉢羅華(うばっらけ)油燈を燃(とも)し、是(かく)の如き等の、百千種をもって供養せん者を擁護(おうご)せんをや。皐諦(こうだい)、汝等(なんだち)及び眷属、応当(まさ)に是(かく)の如き法師を擁護(おうご)すべし。此の陀羅尼品(だらにほん)を説きたもう時、六万八千人、無生法忍(むしょうほうにん)を得たり。

  この陀羅尼品について、日蓮は次のように文底の意義を明らかにしている。

第四受持法華名者福不可量(じゅじほっけみょうしゃふくふかりょう)の事  御義口伝に云く、法華の名(みな)と云うは題目なり。者(しゃ)と云うは日本国の一切衆生の中には法華経の行者なり。又云く、者の字は男女の中には別して女人を讃(ほ)めたり。女人を指して者と云うなり。十羅刹女(じゅうらせつにょ)は別して女人を本とせり。例せば竜女が「苦の衆生を度脱(どだつ)せん」とて、女人を苦の衆生と云うが如し。薬王品の「是経典者(ぜきょうてんしゃ)」の者と同じ事なり。(『御義口伝巻下』陀羅尼品六箇の大事)
                                                         
  経文には、「善(よ)い哉(かな)、善い哉、汝等(なんだち)但(ただ)能(よ)く、法華の名(みな)を受持せん者を擁護(おうご)せんすら、福量(はか)るべからず」と説かれている。「者」とは主体的な民衆一人ひとりの生命である。「題目」とは妙法と境智冥合するとき開かれる力用である。これを「一切衆生の中には法華経の行者」という。「別して女人を讃めたり」とは本果妙である。「別して女人を本とせり」とは本因妙である。本果妙は事を理に収め、本因妙は理を事に開く。本果妙を本と思う心を転じて本因妙を本となす時、自己の生命に仏界が開くことを示している。さらに、経文の「種種の燈」の「種々」は色法、「燈」は心法を意味する。「諸の香油燈」の「諸」は色法、「香油燈」は心法である。わが色心を妙法に供養するとき、始源の時がよみがえる。

第五皐諦女(こうだいにょ)の事 御義口伝に云く、皐諦女(こうだいにょ)は本地は文殊菩薩なり。山河何かなる処にても法華経の行者を守護すべしと云う経文なり。九悪一善皐諦女(こうだいにょ)をば一善と定めたり。十悪の煩悩の時は偸盗(ちゅうとう)に皐諦女(こうだいにょ)は当れり。逆次(ぎゃくじ)に次第するなり。(『御義口伝巻下』陀羅尼品六箇の大事)

 陀羅尼品に「皐諦(こうだい)、汝等(なんだち)及び眷属、応当(まさ)に是(かく)の如き法師を擁護(おうご)すべし」とある部分の御義口伝である。「皐諦女(こうだいにょ)」は法性、「偸盗」は無明である。「文殊菩薩」は無明法性体一の体に当たる。妙法に随順する一念は「皐諦女(こうだいにょ)」と現れ、妙法に違背する一念は「偸盗」と現れる。「皐諦女(こうだいにょ)」は事本物迹(じほんぶつしゃく)の一念、「偸盗」は物本事迹(ぶつほんじしゃく)の一念である。物本事迹の一念を事本物迹の一念に転換するとき生命の真実が見えてくる。

 釈尊はヒンズー教の四姓(カースト)制度を否定し、人間の平等を説きつづけた。しかし、どんなに矛盾だらけの制度でも、それは民衆の生活を支える基盤でもあるのだ。一挙に改革しようとすれば新たな矛盾と対立が噴き出す。そこに暴力的革命の落とし穴がある。
釈尊は漸進的な形で、価値観の革命をめざしたのである。それは浅いところから、深いところへ徐々に真実の根を掘り起こしていく作業に似ている。釈尊もまた、文底からさらに深い文底へと生命の真実に迫っていったのである。
 爾前権経だけでなく文上の法華経にも、当時のインド社会の女性観や価値観が色濃く反映されている。それは、多宝塔が金や銀、瑠璃など七宝で飾られていることや、四十二相・八十種好という仏の荘厳な姿、理想的な仏国土が平坦にして清浄、安穏で楽しみに満ちあふれている世界として描かれていることにも表れている。見方を偏らせれば、金や銀は人間の心を汚染する最も下劣な色ということもできよう。法華経の譬喩を一義的に実体化して読み取れば、阿弥陀経に描かれている極楽浄土と同じ幻想にとらわれることになる。日蓮の文底の法門とは、そのような幻想を超克する方法的原理にほかならない。そこに開かれるのは、常に事象の両義性を見つめる視点である。それは色心不二・久遠即末法の生命につながっている。

 提婆品に二箇の諫暁あり。提婆達多は一闡提(いっせんだい)なり、天王如来と記せらる。涅槃経四十巻の現証は此の品にあり。善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ、頭をあげ、万ををさめ、枝をしたがふ。一切の五逆・七逆・謗法・闡提、天王如来にあらはれ了んぬ。毒薬変じて甘露となる、衆味にすぐれたり。竜女が成仏此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす。法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有明無実の成仏なり。挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。(『開目抄下』)

   善悪不二と因果倶時

  法華経の提婆達多品には、男性の〈提婆達多〉の成仏と、女性の〈竜女〉の成仏が説かれている。そこに通底しているのは〈善悪不二=肯定即否定〉と〈因果倶時=能動即受動〉の法理である。〈釈尊〉の過去世の師である〈阿私仙人〉を空諦とすれば、〈提婆達多〉は仮諦、〈天王如来〉は中諦となる。これは三諦円融を意味する。この法理は師弟不二論へと展開される。〈提婆達多〉も〈天王如来〉も〈己心〉、すなわち〈いま、ここに〉に脈動する〈妙法=の曼荼羅〉の現成であり、常に〈違背=提婆達多〉か〈随順=天王如来〉かが問われているのだ。
 竜女の成仏は、すべての女性の成仏を示している。爾前権教はすべて、衆生の機根を整えるための方便(仮説)であった。あるいは〈言葉〉で成仏を定義するだけで、成仏の根源的な方法的原理は説かれていない。法華経の文底を開き、その方法的原理を文底下種独一法門として確立したのは日蓮である。
 道元もまた、伝統的な偏見がもたらす性差別の虚妄を厳しく指摘し、伝統・文化・習俗による男女差別は、すべて方便であり、生命の法に違背する謗法であることを説いている。

 又、イマ至愚のハナハダシキ人オモフコトハ、女流ハ貪婬所対(とんいんしょたい)ノ境界ニテアリトオモフココロヲアラタメズシテコレヲミル。仏子是クノ如クアルベカラズ。婬所対の境トナリヌベシトテイムコトアラバ、一切男子モ又イムベキカ。染汚ノ因縁トナルコトハ、男も境トナル、女も境縁トナル。非男非女モ境縁トナル、夢幻空花も境縁トナル。アルイハ水影ヲ縁トシテ非梵行アルコトアリキ、アルイハ天日ヲ縁トシテ非梵行アリキ。神モ境トナル、鬼モ境トナル。ソノ縁カゾヘツクスベカラズ。八万四千の境界アリト云フ、コレミナスツベキカ、ミルベカラザルカ。
=中略=
 又、唐国ニモ、愚癡僧アリテ、願志ヲ立スルニ云ク、「生々世々ナガク女人ヲミルコトナカラン」。コノ願、ナニノ法ニカヨル。世法ニヨルカ、仏法ニヨルカ、外道ノ法ニヨルカ、天魔ノ法ニヨルカ。女人ナニノトガカアル、男子ナニノ徳カアル。悪人ハ男子モ悪人ナルアリ、善人ハ女人モ善人ナルアリ。聞法ヲネガヒ出離ヲモトムルコト、カナラズ男子女人ニヨラズ。モシ未断悪のトキハ、男子女人オナジク未断悪ナリ。断惑証理ノトキハ、男子女人、簡別サラニアラズ。又ナガク女人をミジト願セバ、衆生無辺誓願度ノトキモ、女人ヲバスツベキカ。捨テバ菩薩ニアラズ、仏慈悲と云ハンヤ。タヾコレ声聞ノ酒ニヱフコトフカキニヨリテ、酔狂ノ言語ナリ。人天コレヲマコトト信ズベカラズ。
 又、ムカシ犯罪アリシトテキラハバ、一切菩薩ヲモキラフベシ。モシノチに犯罪アリヌベシトテキラハバ、一切発心ノ菩薩ヲモキラフベシ。此ク如クキラハバ、一切ミナステン。ナニニヨリテカ仏法現成セン。是ノ如キコトバハ、仏法ヲシラザル癡人の狂言ナリ。
=中略=
 又、日本国ニヒトツノワラヒゴトアリ。イハユル或ハ結界ノ地と称ジ、アルイハ大乗ノ道場ト称ジテ、比丘尼・女人等ヲ来入セシメズ。邪風ヒサシクツタハレテ、人ワキマフルコトナシ。稽古の人アラタメズ、博達の士モカンガフルコトナシ。或ハ権者ノ所為ト称ジ、アルイハ古先ノ遺風ト号シテ、更ニ論スルコトナキ、笑ハバ人ノ腸モ断ジヌベシ。権者トハナニ者ゾ。賢人カ聖人カ、神カ鬼カ、十聖カ三賢カ、等覚カ明覚カ。又、フルキヲアラタメザルベクハ、生死流転オバスツベカラザルカ。(『正法眼蔵』「礼拝得髄」)

  道元は、女性を一義的に「貪婬所対(とんいんしょたい)ノ境界」とみる爾前権教の心を破折している。「ナガク女人をミジト願セバ、衆生無辺誓願度ノトキモ、女人ヲバスツベキカ」と、その矛盾を厳しく指摘する。いずれも森羅万象を〈在りのまま〉に〈見つめる〉仏道とは無縁となる。さらに道元は、方便(仮説)にとらわれた〈修行者〉が抱く「生々世々ナガク女人ヲミルコトナカラン」という念願に対して、「是ノ如キコトバハ、仏法ヲシラザル癡人の狂言ナリ」と破折している。
  道元のテクスト(言説=道得)を、そのまま何回も読み返すとき、釈尊の心に添いながら、生命の真実に迫る道元の心が見えてくる。道元の家族関係や幼年からの成長過程を文献学的に調べても限界がある。すべて「説似一物即不中」となるからだ。文献学的な叙述は、そのことを自覚して読まなければならない。仏教は類推や憶測とは無縁なのである。生きる場の現実を〈在りのまま〉に〈見詰める〉こと、すなわち〈妙法の曼荼羅〉に随順し、その法理と同調するとき、初めて仏道が開くのである。発心がそのまま、修行となり、修行がそのまま成道となる。私たち一人ひとりに、その文底を開くことが問われているのである。
 ゆがんだ権威主義がはびこる社会は、人間の自由な発想や行動の芽を無惨に摘み取る謗法を犯しつづける。発心のない権力者の宿業は重い。いくら女性の権利を主張(定義)しても、それだけで男女差別が解消するわけではない。そのような〈定義〉を振り翳す権力者の〈心〉に、無慈悲な勘違いや傲慢、女性蔑視という錯乱がのぞいている。

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種子を植えると種子が実る
向日葵には向日葵の種子
月見草には月見草の種子

宇宙の片隅に
そっと植えられた原初の種子
そこに未来の形態が記されていた

   自然の本来性

 地球上の進化の過程で、動物と直物はどちらが先に発生したのだろうか。食物連鎖から推定すると植物の方が先ということになりそうだ。しかし、単細胞生物発生以前のことは分からない。地球上で最も長生きしている樹木の寿命は、どのくらいなのだろうか。屋久島にある縄紋杉は推定樹齢六千年。世界で最も老齢の大木の一つといわれる。ほとんどの樹木は、それ以前に土に還るか、大理石のように大地に埋もれて化石化してしまう。樹木は種子から成長し、毎年、花を咲かせ、種子を実らせる。その種子もまた大地に落ちて生長し、花を咲かせ、種子を実らせる。世代から世代へと何億年にもわたって、樹木は生命を引き継いできたのである。仏教の種・熟・脱という法門は、種子を大地に下ろし、生長し、種子を実らせる植物から学び取った智慧にほかならない。
 文明もまた、樹木と同様に種子をはぐくみ、花を咲かせ、その果実を伝えるという形で発展してきたのである。痕跡も残さず滅びた文明もあれば、いまだ解明されない多くの謎を投げかけている文明遺跡もある。文明社会の矛盾と陥穽に気づいたとき、私たちは文明のマイナス面に目を向け、それまで無関心だった自然を一つの理想郷として思い描くようになる。しかし、そこには極めて身勝手な思い込みがのぞいている。
 人類の進化と文明の発展の陰には、過酷な自然との戦いの痕跡が数多く残されている。地球上に人類の祖先が誕生したのは、四百万年以上前のアフリカだった。それまで、私たちの祖先は樹上で集団生活をおくり、常に猛獣や猛禽類に狙われ、自然の猛威にさらされていたのである。裸の自然は少しでも油断をすると、たちまち命を失うはめになる厳しい環境だった。そして四百万年前、私たちの祖先の一人が樹上生活を捨てて、初めて広大なサバンナの草原に二足で立ち上がったのである。人類の祖先がホモ・サピエンスに進化する過程での重要な出来事だった。
  なぜ人類は地球上で進化したのか。その謎を解くすべはなさそうだ。しかし、法華経には、その謎を解く手がかりが記されている。生・住・異・滅を繰り返す宇宙内存在である地球上の生命が、宇宙と無関係であるはずがない。地球は自転しながら太陽の周りを公転し、太陽系は銀河とともに回転する。その銀河は広大な宇宙に他の銀河系とともに起動を描いている。そのベクトルは多重螺旋運動であり、宇宙はまさに星と星、銀河と銀河が響き合い、照らし合いながら無限の意味と力と生み出しているマンダラなのである。
 マンダラとは、いま、ここに、無限の意味と力が躍動する生命の場にほかならない。地球上の原初の生命体は、宇宙のマンダラから生まれた。生命の基本である遺伝子には生命体と宇宙との共振がすべて記憶されている。その共振こそ、進化の源泉なのである。法華経の開経である無量義経十功徳品第三には、次のように説かれている。

善男子(ぜんなんし)、汝、是(こ)の経は何(いず)れの所より来り、去って何(いず)れの所にか至り、住(とどま)って何(いず)れの所にか住(じゅう)すると問わば、当(まさ)に諦(あきら)かに聴くべし。善男子、是(こ)の経は本(もと)諸仏の室宅(しったく)の中より来り、去って一切衆生の発菩提心(ほつぼだいしん)に至り、諸(もろもろ)の菩薩所行の処(ところ)に住す。善男子、是(こ)の経は、是(かく)の如く来り、是(かく)の如く去り、是(かく)の如く住したまえり。是(こ)の故に、此の経は、能(よ)く是(かく)の如き無量の功徳、不思議の力あって、衆(しゅ)をして疾く無上菩提(ぼだい)を成ぜしむ。

 これに続いて経文は十の不思議功徳力を挙げている。それは①浄心(じょうしん)不思議力②義生(ぎしょう)不思議力③船師(せんし)不思議力④王子(おうじ)不思議力⑤龍子(りゅうし)不思議力⑥治等(じとう)不思議力⑦封賞(ほうしょう)不思議力⑧得忍(とくにん)不思議力⑨抜済(ばっさい)不思議力⑩登地(とうじ)不思議力である。一つ一つの意味を要約すると次のようになる。
 
 ①浄心不思議力=未発心の者に菩提心を起こさせ、煩悩の盛んな者には、それを克服する力を起こさせる。
 ②義生不思議力=この経を受持する者は、無量の義に通達するようになる。
 ③船師不思議力=無上菩提という船に一切衆生を乗せて、生死の苦しみから救い出す。
 ④王子不思議力=常に諸仏に守られ、慈愛される。
 ⑤龍子不思議力=一切衆生を歓喜させ、信伏させる功徳力。
 ⑥治等不思議力=衆生のために法を説いて、得道させる功徳力。
 ⑦封賞不思議力=六波羅蜜を修行しないでも自然に六波羅蜜が備わり、無生忍(絶対不変の真理を悟って心が動揺しないこと)を得る功徳力。
 ⑧得忍不思議力=衆生に法を説いて発心させ無生忍を得さしめ、得道させる功徳力。
 ⑨抜済不思議力=一切衆生を救い上げて、悟りを得させる功徳力。
 ⑩登地不思議力=次第に菩薩の階位を登り、やがて十地の法雲地に住し、久しからずして成仏することのできる功徳力。

 十の不思議功徳力とは、まさに宇宙の多重螺旋運動のマンダラが生み出す意味(心法)と力(色法)の譬喩にほかならない。日蓮は無量義経の無量義処について、『御義口伝巻下』(無量義経六箇の大事)で、次のように文底の法門を展開している。

第一無量義経徳行品(むりょうぎきょうとくぎょうほん)第一の事 御義口伝に云く、無量義の三字を本迹(ほんじゃく)観心(かんじん)に配する事、初めの無の字は迹門(しゃくもん)なり。其の故は理円(りえん)を面(おもて)とし、不変真如の旨を談ず。迹門は無上の摂属(しょうぞく)なり。常住を談ぜず。但(ただ)し『是の法は法位に住して、世間の相常住なり』と明かせども、是(こ)れは理常住(りじょうじゅう)にして事常住(じじょうじゅう)に非ず。理常住の相を談ずるなり。空は無の義なり。但(ただ)し此の無は断無(だんむ)の無に非ず。相即の上の空なる処を無と云い、空と云うなり。円の上にて是を沙汰(さた)するなり。本門の事常住無作(むさ)の三身(さんじん)に対して迹門を無常と云うなり。

 「無」を無の一面にとらわれて見る心、「不変真如の理」を不変真如の理の一面にとらわれて見る心が迹門である。「此の無は断無(だんむ)の無に非ず。相即の上の空なる処」と見る心が本門の開会(かいえ)である。「是の法は法位に住して」は不変真如の理、「世間の相常住なり」は随縁真如の智、「相即の上の空なる処」は、随縁不変・一念寂照である。この妙法の理常住に帰する時、わが身即事常住・無作三身の当体と開かれる。

第二量(りょう)の字(じ)の事 御義口伝に云く、量の字を本門に配当する事は、量とは権(はかり)摂(おさむる)の義なり。本門の心は無作三身を談ず。此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身の自体顕照(けんしょう)と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして、己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意(こころ)なり。是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば、是れ即ち量の義なり。

 「量」とは妙法に会入(えにゅう)した生命・人生である。「不変真如の理円」を、わが当体無作三身のの心法と権(はかり)摂(おさむる)とき、わが生命即本門事円三千・色心不二・久遠即末法の当体蓮華と開かれる。その生命をもって生きるとき、新羅万象いずれも妙法の現成となる。

第三義(ぎ)の字(じ)の事  御義口伝に云く、義とは観心なり。其の故は文は教相、義は観心なり。所説の文字を心地に沙汰するを義と云うなり。就中(なかんずく)無量義は一法より無量の義を出生すと談ず。能生(のうしょう)は義、所生(しょしょう)は無量なり。是(これ)は無量義経の能生・所生なり。法華経と無量義経とを相対する能所に非ざるなり。『無相・不相を名づけて実相と為す』の理より万法を開出すと云う。

 無量義経は法華経の序分として一念三千の義を説いている。「能生」は一念、「所生」は三千である。その示す根源が妙法であるが故に「義」を観心という。無量義経を理とすれば、法華経は事、その文底は事理相即して妙法となる。

第四処(しょ)の一字(いちじ)の事  御義口伝に云く、処の一字は法華経なり。三蔵(さんぞう)経と通(つう)経とは無の字に摂(せっ)し、別教は量の字に摂し、円教は義の字に摂するなり。此の爾前(にぜん)の四教を所生と定め、さて序分の此の経を能生と定めたり。能生を且(しばら)く処と云い、所生を無量義と定めたり。仍(よ)って権教に相対して無量義経処を沙汰(さた)するなり。

 「処の一字は法華経なり」とは、森羅万象の根源に妙法を見ることである。爾前の小乗教は人間を守るための戒律や制度を説き、権大乗の大日経は言語の力を説き、華厳経は森羅万象の客観的認識を説き、法華経は宇宙とともに脈動する生命のダイナミズムを説いている。生命のダイナミズムは能生、戒律や制度、言語の力や森羅万象の客観的認識は所生である。能生より所生に価値をおく錯誤が生命・人生をゆがめる。

第六無量義処(むりょうぎしょ)の事  御義口伝に云く、無量義処とは一念三千なり。十界各各(おのおの)無量に義処(ことわりい)たり。此の当体其の儘(まま)、実相の一理より外は之無きを諸法実相と説かれたり。其の為の序なる故に一念三千の序として無量義処と云うなり。処は一念、無量義は三千なり。我等衆生朝夕吐く所の言語(ごんご)も、依正(えしょう)二法共に無量に義処(ことわりい)たり。此れを妙法蓮華経とは云うなり。然(しか)る間、法華の為の序分開経なり云云。

 「無量義処」の「処」は妙法、「無量義」は妙法より現成する無量無辺の働き・変化相である。「此の当体」とは妙法を信受する主体的な一人ひとりの民衆である。「其の儘(まま)、実相の一理」とは、生命に内在する一切の働きを意味する。「序」とは、その働きの潜在性である。「吐く所の言語」とは、その働きの発動・影響にほかならない。「依正二法共に無量に義処(ことわりい)たり」とは、自他の出会いの中に無量の出来事が開かれることを示している。自他の出会いが開く出来事の総体を人生という。日蓮は法華経の文底に、一人ひとりの人間の生命と人生の限りない豊かさと可能性を読み取り、友情と連帯の世界を拡大する思索と実践を訴えているのである。

   生きる場の原点

  法華経従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五に登場する上行菩薩は、民衆の心に秘められた慈悲と限りない向上心を象徴している。宇宙・生命は常に調和と連帯を求める。自他共存世界を創造する人も破壊する人も、いま、ここに、生きる場が生命の原点となる。それは自分が創造した豊かな世界であり、あるいは自分が破壊した貧しい世界にほかならない。自他共存世界を破壊する者は、自分が破壊した最も貧しい世界が出発点となる。それが生命のバランスを回復する唯一の道なのだから。自前の正義を振りかざし、民衆を不当な手段におとしる指導者たちは、何を運命の導き手としているのだろうか。色心不二・久遠即末法の哲理は、その実相を照らし出している。
  現代文明社会を、一義的にマイナスの視点から読み取れば、次のような諸相が浮かび上がってくる。現代文明社会では、巨大技術はすべて政治家や企業家、投資家たちの思惑によって見切り発車させられている。原子力や航空機の開発などは、その典型ということになる。チェルノブィリの原発事故や東海村の核燃料事故が示すように、原子力事故が発生した場合、責任を取る者は誰もいない。政治家や企業家、投資家たちはみな、口をつぐんで知らん顔の半兵衛を決め込む。民主主義の基本である多数決で決めたことだから、それに賛成した一人ひとりの責任は問えないというわけだ。そして、必ず罪をかぶせるスケープゴートを選び出す。
 空の旅についても同じことがいえる。人命が大切というなら、空中事故に備えて乗客全員に気密服と落下傘、酸素補給器を用意するのが当然ではないだろうか。実際、戦闘用のの航空機の場合は、そういう対応措置が取られている。しかし、民間航空機にそんなことをしていたら採算が取れない。結局、経済的な思惑が最優先され、乗客の安全性は二の次、三の次にされて、見切り発車してしまう。いったん空中事故が起これば、助かる確率はゼロに近い。便益と危険が天秤に掛けられているのだ。民衆の生命を賭けた博打が日常的に行われているのに、誰一人問題にしようとする者はいない。巨大技術社会には、民衆をマインドコントロールする舞台装置が、さまざまな形で組み込まれているのだ。
  私たちは技術という人間の魔法の杖がまだ触れていない、手つかずの自然を「自然」と思い込んでいる。しかし、人間が暮らしている地域に人間の手つかずの「自然」が存在するわけがない。人間も自然の一部であるとすれば、人間の手によって変えられたものも自然であると定義しても決しておかしくはない。それを前提にしないと、鳥や蟻の巣は自然なのか自然ではないのか、という際限のない言葉遊びが始まり、秩序を失った混沌だけが自然ということになりかねない。つまり言葉で定義すれば、人間は巨大技術社会という自然の中で生きていると見ることもできるのだ。
 法華経観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五は、その冒頭で観世音菩薩の功徳力を次のように説いている。

爾(そ)の時に無尽意(むじんに)菩薩、即ち座より起(た)って偏(ひと)えに右の肩を袒(あらわ)にし、合掌して仏に向かいたてまつりて、是の言(ことば)を作(な)さく、
世尊、観世音(かんぜおん)菩薩は何の因縁を以ってか観世音と名づくる。
仏、無尽意(むじんんに)菩薩に告げたまわく、
善男子、若(も)し無量百千万億の衆生有って、諸(もろもろ)の苦悩を受けんに、是(こ)の観世音菩薩を聞いて、一心に名を称せば、観世音菩薩、即時に其の音声(おんじょう)を観じて、皆解脱(げだつ)することを得せしめん。若(も)し、是(こ)の観世音菩薩の名を持(たも)つこと有らん者は、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能(あた)わじ、是(こ)の菩薩の威神力(いじんりき)に由(よ)るが故に。若(も)し大水に漂わされんに、其の名号(みょうごう)を称せば、即ち浅き処を得ん。若(も)し百千万億の衆生有って、金(こん)、銀(ごん)、??(しゃこ)、碼碯(めのう)、珊瑚(さんご)、琥珀(こはく)、真珠(しんじゅ)等の宝を求むるを為(も)って大海(だいかい)に入(い)らんに、仮使(たとい)黒風、其の船舫(せんぽう)を吹い て羅刹鬼(らせつき)の国に飄堕(ひょうだ)せん。其の中に若(も)し、乃至(ないし)一人(いちにん)有って、観世音菩薩の名を称せば、是(こ) の諸人等、皆羅刹(らせつ)の難を解脱することを得ん。是(こ)の因縁を以って、観世音と名づく。若(も) し復(また)人有って、当(がい)に害せらるべきに臨んで、観世音菩薩の名を称せば、彼(か)の執(と)れる所の  刀杖、尋(つ)いで段段に壊(お)れて、解脱することを得ん。若(も)し三千大千国土に、中に満てる夜叉(やしゃ),  羅刹(らせつ)来って人を悩ませんと欲っせんに、其の観世音菩薩の名を称するを聞かば、是(こ)の諸(もろもろ) の悪鬼、尚悪眼(なおあくげん)を以って之を視(み)ること能(あた)わじ。況(いわん)や復(また)害を加えんをや。
設(たと)い復(また)人有って、若(も)しは罪有り、若(も)しは罪無きに、ちゅう械枷鎖(ちゅうかいかさ)其の身を検繋(けんげ)せん。観世音菩薩の名を称せば、皆悉く断壊(だんね)して、即ち解脱することを得ん。若(も)し三千大千国土  に、中に満てる怨賊(おんぞく)あらんに、一りの商主有って、諸(もろもろ)の商人を将(ひき)いて重宝(じゅうほう)をさい持(さいじ)し て、険路を経過(きょうか)せん。其の中の一人、是(こ)の唱言(しょうごん)を作(な)さん。
諸(もろもろ)の善男子恐怖(くふ)するを得(う)ること勿(なか)れ。汝等(なんだち)応当(まさ)に、一心に観世音菩薩の名号(みょうごう)を称すべし。是(こ)の菩薩は、能(よ)く無畏(むい)を以って衆生に施したもう。汝等(なんだち)若(も)し名を称せば、此の怨賊(おんぞく)に於いて、当(まさ)に解脱を得(う)べし。
衆の商人、聞いて倶(とも)に声を発して、南無観世音菩薩と言わん。其の名を称するが故に、即ち解脱することを得ん。無尽意(むじんに)、観世音菩薩摩訶薩(まかさつ)は威神(いじん)の力、巍巍(ぎぎ)たること是(かく)の如し。

 この普門品第二十五の発起衆(ほっきしゅ)であり、対告衆(たいごうしゅ)でもある無尽意(むじんに)菩薩について、日蓮は次のように説いている。

第一無尽意菩薩(むじんにぼさつ)の事 御義口伝に云く、無尽意とは円融(えんゆう)の三諦(さんたい)なり。無とは空諦、尽と仮諦、意とは中道なり。観世音とは観は空諦、世は仮諦、音は中道なり。妙法蓮華経とは妙とは空諦、法蓮華は仮諦、経とは中道なり。三諦法性(ほっしょう)の妙理を三諦の観世音と三諦の無尽意に対して説き給うなり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は末法の無尽意なり。所詮(しょせん)無とは我等が死の相なり。尽とは我等が生の相なり。意とは我等が命根(みょうこん)なり。然(しか)る間、一切の法門、境智冥合(きょうちみょうごう)等の法門、意の一字に之を摂入(しょうにゅう)す。此の意とは中道法性なり。法性とは南無妙法蓮華経なり。仍(よ)って意の五字なり。我等が胎内(たいない)の五位の中には第五番の形なり。其の故は第五番の姿は五輪なり。五輪即ち妙法等の五字なり。此の五字又意の字なり。仏意(ぶっち)とは妙法の五字なり。此の事別に之無し。仏の意とは法華経なり。是(これ)を寿量品にして是好良薬(ぜこうろうやく)とて、三世の諸仏の好みもの良薬と説かれたり。森羅三千の諸法は意の一字には過ぎざるなり。此の仏の意を信ずるを信心とは申すなり。されば心は有分別(うふんべつ)なり。倶(とも)に妙法の全体なり。(『御義口伝巻下』普門品五箇の大事)

 「観世音」は序分の三諦(他者の発心・実践・体験)、「妙法蓮華経」は正宗分の三諦(理論)、無尽意は流通分の三諦、すなわち自己の発心・実践・体験ととらえることができる。「三諦法性の妙理」を自他不二と開くところに、色心不二・久遠即末法、すなわち妙法の世界が顕現する。自然も文化も人間にとって両義的な存在なのである。日蓮は次のように説いている。

第二阿若?陳如の事 疏の一に云く?陳如は姓なり、此には火器と翻ず。婆羅門種なり。其の先火に事こう。此れに従て族に命く。火に二義有り、照なり焼なり。照は則ち闇生ぜず、焼は則ち物生ぜず。此には不生を以て姓となす。御義口伝に云く、火とは法性の智火なり。火の二義とは、一の照は随縁真如の智なり、一の焼は不変真如の理なり。照焼の二字は本迹二門なり。さて火の能作としては照焼の二徳を具うる南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、生死の闇を照し晴して涅槃の智火明了なり。生死即涅槃と開覚するを、照則闇不生とは云うなり。煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり。煩悩即菩提と開覚するを焼則物不生とは云うなり。爰を以て之を案ずるに、陳如は我等法華経の行者の煩悩即菩提・生死即涅槃を顕したり云云。(『御義口伝上』序品七箇の大事)

  ここには〈善悪不二=肯定即否定〉と〈因果倶時=能動即受動〉の法理が説かれている。過去の阿若?陳如という人物の事は、断片的な記録と憶測でしか知ることはできない。それは生きる場の〈現実〉に即して〈譬喩〉として、読み取る以外にない。〈火器〉という言葉は、火器を〈使う者〉と〈使われる〉火器の一体性を示している。火には照と焼の二義があり、〈生〉という視点でとらえれば、物的視点でとらえれば、「焼は物生ぜず・照るは闇生ぜず」、すなわち〈不生〉を意味する。事的視点でとらえれば、焼は不変真如の理を生じ、照は随縁真如の智を生じる、すなわち〈生〉を意味する。この照焼の二徳とは南無妙法蓮華経、すなわち妙法の曼荼羅にほかならない。従って、〈阿若?陳如〉という〈譬喩〉は、〈妙法の曼荼羅〉に随順する己心が、〈煩悩即菩提・生死即涅槃〉と開かれることを示している。文底の方法的原理に照らすとき、高橋英夫氏の次のテクストは、仏法が説く〈煩悩即菩提・生死即涅槃〉の法理と通底していることが見えてくる。

  プロメテウスがゼウスのもとから火を盗みだしたため、ゼウスが人間界に送りこんだ美女パンドラによってあらゆる災厄が世にみちるにいたった――この有名な火の盗みに神話にしても同様である。プロメテウスの火がもたらしたものが災厄と文明の二つであった以上、火は生と死を同時に招来したのであり、そのことを通じて生と死の極度の親密さが示唆されている。焼き滅ぼすエレメントとしての火、焼亡の灰の中から浄化されて立ちあがる再生のエレメントとしての火、この両者は同じ火にほかならないのだが、この一致が火を見るように明らかでありながら、しばしば見逃されているところに、火の不思議さがある。この場合、火の不思議さは生と死の微妙な関係、さらに進んで両者の一体化と言い換えてもよい。(高橋英夫『神話論集1 神を読む』ちくま学芸文庫)

  「プロメテウス」と「ゼウス=火」、は〈盗む者=能動〉と〈盗まれる者(物)=受動〉の関係を示している。火は〈災厄〉と〈文明〉という両義性をはらんでいる。「焼き滅ぼすエレメントとしての火、焼亡の灰の中から浄化されて立ちあがる再生のエレメントとしての火」という〈譬喩〉は、〈煩悩即菩提・生死即涅槃〉の法理に通じる。さらに高橋氏は、「火の不思議さは生と死の微妙な関係、さらに進んで両者の一体化と言い換えてもよい」というテクストは、随縁不変・一念寂照の法理にと重なっている。森羅万象の文底を幾重にも思索するとき、そこに浮かび上がるのは〈釈尊〉が説き、〈道元〉と〈日蓮〉が〈譬喩〉として受け継いだ色心不二・久遠即末法の法理、すなわち妙法の曼荼羅なのであある。

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仏教とは何か(1)

             仏教とは何か

               ――道元と日蓮に学ぶ――

                          小幡照雄

はじめに(2010.4.20)
第一章 釈尊はどのように修行したのか(2010.4.22)
第二章 釈尊は何を悟ったのか(2010.4.24)
第三章  爾前経から法華経へ(2010.4.26)
第四章 五百塵点劫と三千塵点劫(2010.4.27)
第五章 法華経の譬喩(2010.4.28)
第六章 一念三千とは何か(2010.4.29)

       第七章 九識論と曼荼羅(2010,4,30)

 人間の心を分析して現代心理学の基盤を確立したのは、ジグムント・フロイト(一八五六~一九三九)とカール・ユング(一八七五~一九六一)です。オーストリアの神経病学者・精神分析学者であるフロイトは、精神分析によって失錯行為と夢の意味、エディプス・コンプレクス、攻撃性の問題、空想や創作の心理的意味などを明らかにしています。 無意識を分析する手段として自由連想法を編み出すとともに、神経症の治療理論を確立し、これを「精神分析」と名づけたのです。フロイトの著書には、精神分析の総合的解説書である『精神分析入門』(一九一七年)、『続精神分析入門』(一九三三年)、絶筆となった未完の『精神分析概説』などがあります。
 スイスの精神医学者・分析心理学者であるユングは、精神病者の幻覚や妄想が古来から伝わる神話や伝説、昔話などと共通の基本的パターンを持つことを発見し、〈元型〉という概念を一九一九年に発表しています。ユングには『心理学と錬金術』(一九四四年)、『アイオーン』(一九五一年)、『結合の神秘』(一九五五~五六年)、『個性化とマンダラ』(論文集)などの一連の著作があります。自己のシンボルとして〈マンダラ〉に関心を抱き、研究に打ち込んでいることから、東洋思想や仏教について深く研究していることがうかがえます。東洋思想に啓発されたユングは、無意識の深層に集合的無意識を想定しています。
 ユングとフロイトの考え方には、いくつかの相違点があります。フロイトがリビドーを性的、反理性的なものとしているのに対し、ユングはリビドーをより幅広い心的エネルギーととらえているのです。さらに無意識に対する両者の考え方も違っていました。フロイトは無意識を快感原則に支配された反理性的なものと考えましたが、ユングは無意識を意識を補償する積極的、肯定的な機能をもつものと考えたのです。こうしたフロイトとユングの研究を引き継ぐ形で、現代心理学はより多角的な研究を展開しています。
 仏法が説く唯識哲学は現代心理学が取り上げている多くの問題を先取りし、より深遠な論理を展開しているといっても決して過言ではありません。
 仏法は物事を識別する心の作用を九つに分類し、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識のほかに、第七識(末那(まな)識)、第八識(阿頼耶(あらや)識)、第九識(阿摩羅(あまら)識)の三つを加えています。識とは対境の異同を知る心の作用です。五根(感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身の働き)が対境(色・声・香・味・触)に縁して生ずる識を五識といいます。第六識(意識)は、意根が法境(思考や感情の対象)に縁して物事を判断し、推理する働きです。
 第七識(末那識)は境に縁することなく、思考・感情を思い量る働きなので思量識とも呼ばれます。この第七識は美醜・好悪・全体・部分などを判断する働きです。自我に愛着し、法に執する煩悩の渦巻く段階から、法空を証得する清浄の段階まで含んでいます。
 第八識(阿頼耶識)は無意識の心の領域であり、前七識を支えています。一切法(森羅万象)を含蔵(ごんぞう)しているので含蔵識ともいうのです。藏には能蔵・所蔵・執蔵の三つの働きがあります。能蔵は経験世界を生成し、所蔵は自己の行為の結果を保持します。執蔵とは第七識(末那識)の働きによって阿頼耶識が根源的な我として執着されてしまうことをいうのです。阿頼耶識はまだ染浄の二法を含んでおり、根源的な生命の心王の座とはいえません。阿羅耶識には現代科学が発見した遺伝子情報も含まれています。阿羅耶識はさまざまな種子(しゅうじ)を集め、一瞬もとどまることのなく変化しつづける激流なのです。
 爾前権経を依経とする唯識派は、この第八識を根本にして教義を立てています。しかし、染浄の二法を含む阿羅耶識を根本にしているかぎり、文明社会に構造的に組み込まれた両義性のねじれを振りほどくことはできません。
 第八識の奥底には、清浄無染(むぜん)の第九識(阿摩羅識)が秘められているのです。それは無垢(むく)識、清浄識(しょうじょうしき)とも呼ばれます。天台宗では、一切衆生の生命に九識(心王真如の都)が存在することを把握し、これを顕現する方法として観念観法を用います。天台大師の解釈によれば、釈尊は五百塵点劫成道の時、この第九識(妙法)を悟ったことになります。九識心王真如の都とは久遠即末法の生命、すなわち我本行菩薩道を行ずる民衆一人ひとりの生命に開く始源の時(場)にほかなりません。それは宇宙の生命情報があふれ出てくる場に例えることができるでしょう。九識心王と久遠元初は時空を超えて通底しています。それを色心不二・久遠即末法というのです。
  デカルトの「我思う故に我あり」という意識は第七識(末那識)の一面、プラトンのイデア論やフロイトのイドは第八識(阿頼耶識)の一面、ユングの集合的無意識は第九識(阿摩羅識)の一面をとらえたものと見ることができます。

   妙法の曼荼羅

 日蓮は法華経寿量品の文底に秘められた人間・宇宙・生命の極理を事の一念三千の曼陀羅(本尊)として顕わしました。この曼陀羅と境智冥合する民衆一人ひとりの生命に久遠元初の釈尊がよみがえるのです。日蓮は南無妙法蓮華経という題目について、『御義口伝』の冒頭で次のように述べています。

南無妙法蓮華経 御義口伝に云く南無とは梵語(ぼんご)なり、此(ここ)には帰命(きみょう)と云う。人法(にんぽう)之れ有り、人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり。又帰と云うは迹門不変真如(しゃくもんふへんしんにょ)の理に帰するなり。命とは本門随縁真如(ほんもんずいえんしんにょ)の智に命(もとづ)くなり。帰命とは南無妙法蓮華経是(これ)なり。釈に云く「随縁不変(ずいえんふへん)・一念寂照(いちねんじゃくしょう)」と。又帰とは我等が色法(しきほう)なり、命とは我等が心法(しんぽう)なり、色心不二(しきしんふに)なるを一極(いちごく)と云うなり。釈に云く、「一極に帰せしむ、故に仏乗と云う」と。又云く、南無妙法蓮華経の南無とは梵語、妙法蓮華経は漢語なり。梵漢共時(ぼんかんぐじ)に南無妙法蓮華経と云うなり。又云く、梵語には薩達磨(さだるま)・芬陀梨伽(ふんだりきゃ)・蘇多覧(そたらん)と云う。此(ここ)には妙法蓮華経と云うなり。薩(さ)は妙なり、達磨(だるま)は法なり、芬陀梨伽(ふんだりきゃ)は蓮華なり、蘇多覧(そたらん)は経なり、九字は九尊の仏体なり。九界即仏界の表示なり。妙とは法性(ほっしょう)なり、法とは無明(むみょう)なり、無明法性一体なるを妙法と云うなり。蓮華とは因果(いんが)の二法なり、是又(これまた)因果一体なり。経とは一切衆生の言語音声(ごんごおんじょう)を経と云うなり。釈に云く「声仏事を為す、之を名づけて経と為す」と。或は三世常恒(さんぜじょうごう)なるを経と云うなり。法界は妙法なり、法界は蓮華なり、法界は経なり。蓮華とは八葉(よう)九尊(そん)の仏体なり、能(よ)く能く之(これ)を思う可し已上。

 南無妙法蓮華経の「南無」は梵語の音訳で帰命と訳されます。「人法(にんぽう)之れ有り」の「人」は文底の釈尊で色法、「法」は文底の法華経で心法、「人法」は色心不二なる妙法を表します。「迹(しゃく)門(もん)不変(ふへん)真如(しんにょ)の理に帰する」とは、〈今、ここに〉生命の法(妙法蓮華経)を信じ、我本行菩薩道を実践することです。「本門(ほんもん)随縁ずいえん)真如(しんにょ)の智に命(もとづ)く」とは、我本行菩薩道を実践する生命に久遠元初の釈尊(寿量文底の仏の生命)が、〈今、ここに〉よみがえることを意味します。その生命の境界を「随縁不変(ずいえんふへん)・一念寂照(いちねんしゃくしょう)」というのです。
 不変真如の理に帰する生命の働きは色法を表とした心法であり、随縁真如の智に命く生命の働きは心法を表とした色法です。帰命(南無)は随縁不変・一念寂照、すなわち色心不二を表します。「一極」とは色心不二であり、色心不二なる妙法に帰命することを仏成というのです。
 「妙法」の「妙」は法性、「法」は無明です。法性は悟り、無明は迷いとなります。無明と法性が一体であることを妙法というのです。妙法に違背する思想や行動、制度がはびこれば、台風の目のように矛盾が拡大し、人間社会に禍をもたらします。これを総罰というのです。人間が人間の命を奪うことを正当化したり、権力者が民衆の人生を搾取して自己の利権を拡大するような思想や行動、法律や制度は妙法に違背します。
 法性と無明は別々のものではなく、色心不二・久遠即末法なる森羅万象の働きが妙法への信によって功徳の縁となり、妙法への不信によって罰の縁となるのです。太陽の光と熱は何が縁となるかによって、地球に緑の楽園をもたらす場合もあれば、焦熱地獄をもたらす場合もあります。
 「蓮華」は因果の二法、すなわち因果一体・因果倶時を表しています。仏法は因果の二法を宇宙・森羅万象を貫く法則ととらえているのです。これには因果(いんが)異時(いじ)と因果倶時(いんがぐじ)の二つの見方があります。言葉で分節された過去・未来・現在という時間の流れの中でとらえれば、すべての現象は因果異時となります。例えば春に種をまくと秋に実が成るとか、真剣に勉強すれば試験に合格するといった見方です。法華経の文底に秘められた色心不二・久遠即末法の妙法は、花が開くと同時に実が成る蓮華に譬えられます。花は因、実は果です。花と実が同時の蓮華は因果倶時(一瞬の中に因と果が現成する法理)の妙法を象徴しているのです。
 森羅万象は因果(因縁)の理法によって一つに結ばれています。因果異時は因果が空間的に直線的・並列的に波及する物理的論理の世界観、因果倶時は因果が時間的に双方向に波及するマンダラ的法理の世界観です。森羅万象は色心不二・久遠即末法という生命の場に因果異時即(そく)因果倶時に現成しています。
 「経」とは一切衆生の言語音声です。「声仏事を為す」の「声」とは言葉を理解し、使用する生命の働きをいいます。「之を名づけて経と為す」の「経」とは、価値創造の場で使用される一回性の言語です。妙楽大師の『法華文句記』には「依報(えほう)正報(しょうほう)常に妙経を宣(の)ぶ」とあります。依報は環境、正報は主体を意味し、森羅万象の実相がそのまま経であることを示しているのです。「三世常恒(さんぜじょうごう)なるを経と云う」の「経」とは、言葉を成立させると同時に言葉に支えられているパラダイム、すなわち政治、社会、文化を支える生命の働き、影響力にほかなりません。
 現代言語学を確立したソシュールは、その『一般言語学講義』の中で言語の本質を、ラング、パロール、ランガージュの三つに分類しています。ラングは言語を成り立たせている構造性、パロールは一回性の発話、ランガージュは人間の言語理解能力です。御義口伝の「声仏事を為す」「之を名づけて経と為す」「三世常恒なるを経と云う」の三つは、ソシュールの「ランガージュ」「パロール」「ラング」と対応し、言葉のパラダイムは宇宙のパラダイムと対応しています。そして、宇宙のパラダイムと生命(遺伝子)のパラダイムは互いに照らし合い、響き合っているのです。南無妙法蓮華経とは森羅万象を生・住・異・滅させている根源の一法の名前なのです。
 ソシュールは、人間に備わる普遍的な言語理解・抽象化・カテゴリー化などの能力をランガージュと名づけ、それぞれの言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングと呼んで、この二つを明確に立て分けています。ソシュールによれば、ランガージュは自然と対置される人間文化の源泉であり、ラングは社会的関係によって歴史的、地理的に多様化している個別文化なのだといいます。さらにソシュールは、特定の話し手によって発話される具体的音声の連続をパロールと呼んでラングと区別しています。ラングはパロールを規制すると同時に、パロールによって変革されるのです。ラングは人間の文化や制度、個人の宿業に対応しています。ソシュールが追究した言葉の本質とは、既に存在しているものを名指しする手段ではなく、混沌を分節することによって新しい意味を生み出す存在喚起力にほかなりません。言葉は伝達の手段であると同時に、認識および自己表出、自己改革の手段なのです。
 ソシュールは「いかなる事物も、いかなる対象も即自的には与えられていない」といいます。つまり、一つ一つの言葉はそれ自体では意味を持たず、全体の関係性の中で初めて意味を表すのです。ラングを構成する各要素は、共存することによって相互に価値を決定し合っています。その価値は関係性の網の目に生まれるのです。これは仏法の縁起やマンダラの法理と通底しています。ソシュールは、後にユングが掘り起こすマンダラの原理を先取りしていたのです。

   曼陀羅とは何か

 物理学者によると物質の最小単位である原子は、太陽系によく似た構造をしており、相対的に極大の空間に極微の陽子や電子、中性子などが高速で飛び回っているのだといいます。物質的部分はほんのわずかで、ほとんどが空間なのです。空間は物質を生み出し、変化させる力に満ちあふれています。仏法はこの空間に目を凝らし、その論理と実践を展開したのです。日蓮が曼陀羅として顕わした十界の生命は、この空間にみなぎる力域を象徴しています。古来、マンダラにはさまざまな記号が用いられてきました。文字のマンダラもあれば、絵像や立体像、幾何学模様のマンダラもあります。
 日蓮が弘安二年十月十二日(一二七九年)に建立した事の一念三千の大曼荼羅は、文字によって顕されています。そこに記されているのは、法華経の虚空会(こくうえ)の儀式にほかなりません。中央に南無妙法蓮華経の七字、その下に日蓮と署名して花押が据えられています。左上部に釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、右上部に法華経の真実を証明する多宝如来(たほうにょらい)が記されています。これは釈迦・多宝の二仏並座(にぶつびょうざ)を顕すのです。釈迦は智・心法、多宝は境・色法、二仏並座は境智冥合・色心不二を顕します。その左右に従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)で大地より涌出する四菩薩(右側に上行菩(じようぎよう)薩と無辺行(むへんぎょう)菩薩、左側に淨行(じようぎよう)菩薩と安立行菩(あんりゆうぎよう)薩)等が配されています。さらに中央右側に文殊師利(もんじゅしり)菩薩、舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)、帝釈(たいしゃく)天王、第六天魔王(だいろくてんのまおう)、大日天王(だいにちてんのう)等が並び、中央左側に普賢(ふげん)菩薩、迦葉(かしょう)尊者、大梵天王(だいぼんてんおう)、大(だい)月(がつ)天王(てんのう)、大明星天王(だいみょうじょうてんのう)等が並びます。下部右側に鬼子母神(きしもじん)、提婆達多(だいばだった)、転輪聖王(てんりんじょうおう)、阿修羅王(あしゅらおう)等が配され、左側に十羅刹女(じゅうらせつにょ )、阿闍世王(あじゃせおう)、大竜王(だいりゅうおう)等が配されています。その下右側に天照大神(てんしょうだいじん)と天台大師(てんだいだいし)等が並び、左側に八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)と伝教大師(でんぎょうだいし)等が並びます。そして四隅(東西南北)に大きく大持国天王(だいじこくてんのう)(右上、東)、大広目(だいこうもく)天王(右下、西)、大増長(だいぞうちょう)天王(左下、南)、大毘沙門(だいびしゃもん)天王(左上、北)の四天王とその眷属が記されています。さらに両脇には梵字で不動明王(ふどうみょうおう)等(右脇)と愛染明王(あいぜんみょうおう)等(左脇)が記されているのです。

 このように妙法の曼陀羅には、南無妙法蓮華経の七文字を中心に六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)、四聖(ししょう)(声聞・縁覚・菩薩・仏)、天王・明王の名前が記されています。四聖の名前の上には南無の文字があります。南無は帰命と発心を表すのです。さらに文字曼陀羅の左右の肩には、功徳と罰の文証が記されています。向かって左肩に「有供養者福過十号」(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)、右肩に「若悩乱者頭破七分」(若(も)し悩乱する者は頭(こうべ)七分に破(わ)る)と記されています。この本尊の相貌(そうみょう)について、日蓮は法本尊開顕の書である『観心本尊抄』の中で次のように述べています。

 其の本尊の為体(ていたらく)本師の娑婆(しゃば)の上に宝塔空(くう)に居(こ)し塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩・文殊弥勒(もんじゅみろく)等は四菩薩の眷属(けんぞく)として末座(まつざ)に居(こ)し迹化他方(しゃっけたほう)の大小の諸菩薩は万民の大地に処(しょ)して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処(しょ)し給う。

 ここに記された本尊の相貌(そうみょう)は、宇宙(森羅万象)の色心不二・久遠即末法を象徴する法華経の虚空会(こくうえ)の儀式(虚空での説法の座)をそのまま映し出しています。「本師の娑婆の上に宝塔空に居し」とは、色心不二・久遠即末法の時空にほかなりません。このように、文底独一本門の曼陀羅が文字で顕されているのはなぜなのでしょうか。日蓮は次のように教示しています。

 日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽(は)も、奥州の金(こがね)も、乃至(ないし)国の珍宝・人畜、乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂(おさま)れり。天眼をもっては、日本と申す二字を見て、六十六国、乃至人畜等をみるべし。法眼をもっては、人畜等の此(ここ)に死し、彼(かしこ)に生(うま)るをもみるべし。譬えば人の声をきいて体を知り、跡をみて大小をしる。蓮(はちす)をみて池の大小を計り、雨をみて竜の分斉(ぶんざい)をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。(『報恩抄』)

  日本という二字の中に、日本国内のあらゆる珍宝、人や動物、寺塔神社などすべてが収まっています。それだけではありません。日本という二字の中には人や動物の生き死になど、さまざまな出来事も収まっています。日本国内に存在する物事すべてを絵や模型で表すことはできません。しかし文字にはそれを可能にする不思議な力が秘められています。日蓮はマンダラの原理を金剛界(こんごうかい)曼陀羅や胎蔵界(たいぞうかい)曼陀羅から学びました。しかし色心不二・久遠即末法の生命は、文字マンダラとして顕わす以外にないことを悟ったのです。
 日蓮は、この曼荼羅に唱題し境智冥合することが、そのまま釈尊の心を受け継ぐことになる、と説いています。そこに開く色心不二・久遠即末法なる存在――。自分はなぜ、いま、ここに、このように存在しているのか。私の色心不二なる身体が思い描き出す世界は、そのまま私ではないのか。釈尊も道元も日蓮も、色心不二なる〈自己〉の生きる一瞬一瞬に感謝し、歓喜しながら友情と連帯の世界を開く心を、仏と名づけているのです。

    第六章 一念三千とは何か(2010.4.29)

   十 界

  仏法は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界論を説いています。しかし、そのとらえ方は法華経と爾前権経(にぜんごんきょう)=(法華経以前に説かれた方便を帯した教え)とでは大きく異なるのです。爾前権経は仏界を最高、地獄界を最低とする別々の境界として十界を説いています。爾前権教が説く仏道修業の目的は、六道(地獄界から天界までの境界)輪廻(りんね)を断ちきり、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の境界を開くことにあります。この爾前権教の十界論を根本的に転換したのが法華経なのです。法華経方便品第二で初めて十如実相が説かれ、十界互具の原理が明かされます。十界互具とは、十界のそれぞれに十界の働きが備わっていることをいいます。法華経は十界を位の異なる別々の境界とする爾前権経の仮説(方便)を打ち破り、十界はいずれも生命本有(ほんぬ)の平等な働きであることを開示しているのです。十界論について日蓮は次のように説いています。

 数(しばしば)他面を見るに、或る時は喜び、或る時は瞋(いか)り、或る時は平らかに、或る時は貪(むさぼ)り現じ、或る時は癡(おろか)現じ、或る時は諂曲(てんごく)なり。瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろか)は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於いては六道共に之有(これあ)り。四聖(ししょう)は冥伏(みょうぶく)して現れざれども、委細(いさい)に之を尋ねば之有るべし。…中略…世間の無常は眼前(げんぜん)に有り。豈(あに)人界に二乗界無からんや。無顧(むこ)の悪人も猶(なお)妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり。但(ただ)仏界計(ばか)り現じ難し。九界を具(ぐ)するを以て強(し)いて之を信じ、疑惑せしむることなかれ。(『観心本尊抄』)

  地獄から仏界までの十界は生命の種々相であり、それぞれに働きを持っています。十界を要約すると、①地獄は瞋り②餓鬼は貪り③畜生は愚か④修羅は諂曲(自分の意志を曲げて、こびへつらうこと)⑤人は平らか⑥天は喜び⑦声聞は知識欲⑧縁覚は三昧境⑨菩薩界は慈愛⑩仏界は現じ難し――となります。この十種の生命の働きは、宇宙全体にも個の生命の場にも備わっているのです。仏法の目的は生命の真実を質を説き、真の生きがいを開くことにあります。
 法華経は宿業転換の方法的原理の一つとして、すべての事象に善と悪の両義性を読み取っています。十界もまた、それぞれに両義性を秘めているのです。文上の法華経には、十界を差別する面が残っています。しかし仏だけを特別な境界と錯覚すれば、仏法の生命論はたちまち権威主義化し、破綻してしまうでしょう。十界の衆生は本来、それぞれに色心不二の生命を守り、はぐくみ、成長させる生命本有の働きの譬喩なのです。例えば、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は四悪道(四悪趣(あくしゅ))と呼ばれています。しかし地獄界(苦痛)の本質は善でも悪でもなく、生命が痛みを感ずることによって自らを守ろうとする働きなのです。同じように餓鬼界(貪)は飢えを感ずることによって生命が必要なものを摂取する働き、畜生界(癡)は環境の変化に素早く対応しようとする生命の智慧、修羅界(瞋・慢)は危険と感じたものを排除しようとする生命の働きにほかなりません。その生命本有の働きが調和と連帯を失うとき、両義性のマイナス面が浮上するのです。生命の真実を把握するためには、常に十界の両義性を自覚しなければなりません。三悪道、四悪趣、六道、四聖という一義的な呼び方には、偏った生命観を助長する危険性がひそんでいます。

〈地獄界〉
  地獄界には極めて重要な役割があります。人間が生きるために苦痛はどのような意味を持つのでしょうか。精神的、肉体的に大きな傷を受けたとき、生命は外からの情報や物理的刺激をできるだけ遮断することによって自己の生命空間を縮小し、ひたすら傷の回復に全力を上げるのです。そこに苦痛を感ずることの重要な役割があります。私たちの日常的価値観は、苦痛をマイナス・イメージでとらえがちですが、その本質は生命を維持し、より力強くよみがえるための智慧(内在的活力)にほかなりません。
 痛みの感覚は生命を守り、人間性を形成するための不可欠な情報源なのです。母と子はその出会いの初めから、生命の連帯に支えられた痛みの共感を持つのだといいます。産む母と生まれる子供が共有する痛みの感覚に、人間としての連帯の原点を読み取ることができるでしょう。現代社会の価値観は、その痛みの共感の場を切り裂く方向に偏ってきているのではないでしょうか。
 家庭にも学校にも地域にも、痛みに共感してくれる人を見失った子供たちは、見えない地獄の責め道具(大人が考えた規則や制度)から逃れるために、自己と他者の関係を暴力的に変えようとするに違いありません。現代社会は、表面的にマイナス・イメージでとらえたものを、すべて切り捨てる方向に動いています。それは痛みが社会的に弱い立場の人たちに、一方的に押し付けられることを意味します。家庭や教育の現場にも同じ力が働いているのです。
 痛みの感覚、つまり地獄界は生命を維持するために欠かせない働きなのです。年を取って痛感神経が鈍くなった人は、自分の足が囲炉裏の中で火傷をしていても痛みを感じません。先天的に痛感神経の欠落した子供は、常にけがをしないように周囲の人たちが見守ってやらなければ生きられません。地獄界は人間が人間として生きるための重要な役割を担っているのです。

〈餓鬼界〉
  餓鬼界の本質は、心身が必要なものを外界から取り入れようとする働きにほかなりません。餓鬼界について「この道(どう)は余(よ)道と往還(おうげん)し善悪相通ずる」(『立世阿毘曇論(りゅうせあびどんろん)』)と説かれています。「余道と往還し」は十界互具を示しています。餓鬼界がなければ声聞・縁覚・菩薩の向上心も生まれません。餓鬼道のおかげで人間は身心ともに成長することができるのです。餓鬼界を一義的に悪と見て侮蔑し、排除する価値観は生命の法に違背します。「余道と往還」するのは餓鬼道だけではありません。十界はいずれも「余道と往還」しているのです。日蓮は餓鬼界の働きについて次のように述べています。

 経に云く、「一を藍婆(らんば)と名(なづ)け乃至汝等但能(ないしなんだちただよ)く法華の名を護持する者は福量(はか)るべからず」等云云、是れ餓鬼(がき)界所具の十界なり。(『観心本尊抄』)

  引用されている経文は法華経陀羅尼品第二十六の文で、藍婆をはじめとする十羅刹女(じゅうらせつにょ)とその母である鬼子母神(きしもじん)、その眷属たちが末法に法華経を受持、読誦し、修行する者を擁護することを仏に誓い、仏が十羅刹女たちに成仏得道の印可を与えるところです。十羅刹女、鬼子母神は餓鬼界の働きを象徴しています。妙法に随順するとき、餓鬼界もまた慈悲を働きをよみがえらすのです。

〈畜生界〉
 畜生界の本質は生きている場の変化に素早く対応しようとする生命の働きにほかなりません。野生の動物は危険に遭遇したとき、とっさに状況を判断して戦うか逃げるかを決めます。人間は文明という檻の中で、戦うことも逃げることもできない状況に追い込まれやすいのです。その異常に長引くストレスは、現代病の大きな原因となっています。仏法はストレスの文底に難(なん)(逆境)をとらえます。難もまた両義的なのです。畜生界所具の仏界について、法華経提婆達多品第十二に次のように説かれています。

 皆竜女(りゅうにょ)の、忽然(こつねん)の間(あいだ)に変じて男子(なんし)となって、菩薩の行を具(ぐ)して、即ち南方無垢世界(なんぽうむくせかい)に往いて、宝蓮華(ほうれんげ)に坐して、等正覚(とうしょうがく)を成じ、三十二相、八十種好(しゅごう)あって、普(あまね)く十方の一切衆生の為に妙法を演説(えんぜつ)するを見る。

  この文は女人成仏(にょにんじょうぶつ)の証であると同時に、畜生界所具の仏界、すなわち十界互具を表しています。畜生界の本質もまた、生命を守る重要な働きにほかなりません。妙法に照らされた生命の場に慈悲の働きがよみがえるのです。

〈修羅界〉
  修羅界の本質もまた、危険なものを排除しようとする生命の働きなのです。敵の攻撃から生命を守るのは修羅界の働きにほかなりません。免疫機能も修羅界の働きの一つと見ることができます。免疫機能障害の一つである膠原病は、修羅界の働きが調和を失った姿なのです。日蓮は修羅界の働きについて次のように説いています。

 経に云く「婆稚阿修羅王乃至(ばちあしゅらおうないし)一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし」等云云。修羅界(しゅらかい)所具の十界なり。(『観心本尊抄』)

  日蓮は法華経法師品第十の経文を引用して修羅界所具の十界を明かし、修羅界の生命の働きもまた妙法に随順するとき、本来の慈悲の働きを取り戻すことを教示しているのです。

 四悪道のうち餓鬼、修羅、畜生の三つは貪欲(どんよく)(取)、瞋恚(しんに)(捨)、愚癡(ぐち)(選択)の三毒に対応しています。貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)は、人生に無明をもたらす煩悩として、爾前経ではこれを消し去ることが仏道修行の目的とされました。しかし、法華経はそれを転換して、三毒(どく)(貪・瞋・癡)即三徳(とく)(法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ))の法理を説いています。法身・般若・解脱の三徳は、仏の生命を修行の面からとらえた概念です。法身は根源的な法の覚知(取)、般若は生命本有の智慧(選択)、解脱は煩悩の超克(捨)ととらえることができます。つまり、三毒と三徳は生命が必要なものを取、捨、選択する働きの両義性にほかなりません。
  爾前経(にぜんきょう)には、この三毒を含めて貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)の六つの煩悩が説かれています。修羅界は、日蓮が「諂曲(てんごく)なるは修羅」と指摘するように、勝他(しょうた)の念にかられて他より劣ることに耐えられない心、すなわち慢を象徴しています。煩悩の一つとされる慢は生命の主体性の現れであり、自他隔別の主体性は無慈悲に通じ、自他不二の主体性は慈悲に通じるのです。疑(ぎ)と悪見について爾前経には細かく説かれていますが、これは両義的な癡(ち)の働きをさらに一義的に分析・体系化したものにほかなりません。貪・瞋・癡・慢・疑・悪見などの煩悩を消し去れば、仏の生命の働きである三徳も消滅することになります。煩悩がなければ、仏の生命を開くことはできないのです。

      十如是

  日蓮は、法華経方便品の冒頭にある「仏の成就したまえる所は、第一希有難解(だいいちけうなんげ)の法なり、唯、仏と仏と乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。所謂(いわゆる)諸法の如是相(によぜそう)、如是性(しよう)、如是体(たい)、如是力(りき)、如是作(さ)、如是因(いん)、如是縁(えん)、如是果(か)、如是報(ほう)、如是本末究竟等(ほんまつくきようとう)なり」という一節を取り上げて、次のようにその意義を明らかにしています。

 我が身が三身即一身の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く、如是相(によぜそう)・如是性(しよう)・如是体(たい)・如是力(りき)・如是作(さ)・如是因(いん)・如是縁(えん)・如是果(か)・如是報(ほう)・如是本末究竟等(ほんまつくきようとう)文。始めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり、是(これ)を応身如来(おうじんによらい)とも又は解脱(げだつ)とも又は仮諦(けたい)とも云うなり。次に如是性とは我が心性を(しんしよう)云うなり、是を報身(ほうしん)如来とも又は般若(はんにや)とも又は空諦(くうたい)とも云うなり。三に如是体とは我が此の身体なり、是を法身(ほつしん)如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり。されば此の三如是を三身(さんじん)如来とは云うなり。此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだつるがはや我が身の上にてありけるなり。かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり。此の三如是を本として是よりのこりの如是はいでて十如是とは成りたるなり。『十如是事』)

  経文は仏が究めつくした諸法の実相は、最も希有にして難解な法、すなわち十如実相であることが宣言されています。十如是の内容を要約すると、①如是相=森羅万象の外面の姿②如是性=内面の性質③如是体=実体(当体)④如是力=森羅万象に内在する力⑤如是作=力が他に及ぼす作用⑥如是因=果をもたらす原因⑦如是縁=果を招く外界の助縁⑧如是果=因が外界の助縁と相まって生む結果⑨如是報=果によって受ける報い⑩如是本末(ほんまつ)究竟(くきょう)等(とう)=始めの相を本とし、終わりの報を末として、本末は究竟して等しいこと――となります。
 この十如是のうち、前の三如是(相性体)が本体で、三諦(三身)に対応しています。如是相が仮諦(応身如来)、如是性が空諦(報身如来)、如是体が中諦(法身如来)となるのです。後の七如是は三如是の用(ゆう)(働き)となります。「法華経をさとれる人」とは、法華経文底の妙法を信受する人にほかなりません。妙法の曼陀羅を信受しなければ三身如来が己心に開くことを悟ることはできないからです。さらに日蓮は、十如是の意義を次のように展開しています。

第六如我等無異(にょがとうむい)如我昔所願(にょがしゃくしょがん)の事 御義口伝に云く、我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり。此の本門の釈尊は我等衆生の事なり。如我の我は十如是の末の七如是なり。九界の衆生は始の三如是なり。我等衆生は親なり、仏は子なり。父子一体にして本末究竟等(ほんまつくきょうとう)なり。此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱うる者是(これ)なり。(中略)南無妙法蓮華経を指して、今者已(こんじゃい)満足(まんぞく)と説かれたりと意得(こころう)べきなり。されば此の如我等無異の文肝要なり。如我昔所願は本因妙、如我等無異は本果妙なり。妙覚の釈尊は我等が血肉(けつにく)なり、因果の功徳骨髄(こつずい)に非ずや」(『御義口伝巻上』方便品八箇の大事)

  この文は法華経方便品第二に「舎利弗(しゃりほつ)当(まさ)に知るべし、我本誓願(もとせいがん)を立てて、一切の衆(しゅ)をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲(ほっ)しき、我が昔の所願(しょがん)の如きは、今者(いまは)已(すで)に満足しぬ、一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」とある部分の御義口伝です。「我」とは釈尊という他者性の仏ではなく、妙法に随順する己心に開く釈尊、すなわち自他不二の仏のことなのです。「我が如く等しくして異なること無からしめん」とは色心をもって妙法に帰すること、すなわち発心による唱題です。「我が昔の所願(しょがん)の如きは、今者(いまは)已(すで)に満足しぬ」とは妙法に命(もと)づく心法をもって色法を開くこと、すなわち生の場における慈悲(心法)の振る舞い(色法)の展開にほかなりません。「因果の功徳」は心法の成仏、「妙覚の釈尊」は色法の成仏を示しています。妙法に境智冥合する自己の色心が妙法の当体と開かれるというのです。

   三世間

  三世間(さんせけん)について、日蓮正宗第二十六世の日寛(にちかん)(一六六五~一七二六)は『三重秘伝抄』で、「世間とは即ち差別の義なり、所謂(いわゆる)十種の五陰(ごおん)不同なる故に五陰世間と名づけ、十種の衆生不同なる故に衆生世間と名づけ、十種の所居(しよご)不同なる故に国土世間となづくるなり」と教示しています。
 三世間とは五陰(ごおん)世間、衆生(しゆじよう)世間、国土(こくど)世間の三つで、世間とは差別を意味します。十種とは十界です。三世間とは十界の色心を三つの視点から分類したものにほかなりません。『三重秘伝』の分類を要約すると次のようになります。

〈五陰世間〉
 五陰世間の五陰とは生命の本源である五要素(色(しき)、受(じゆ)、想(そう)、行、(ぎよう)識(しき))のことです。五陰の陰は集積を意味します。この五要素が仮に集まって個々の生命を構成することを、五陰仮和合(けわごう)というのです。五陰を要約すると、①色陰=物質や身体の物質的側面②受陰≡六根を通して外界にあるものを受け入れる心の働き③想陰=受け入れたものを知覚四、心に想い受けベル作用④行陰(ぎよう)=想陰に基づいて起こる意志や行動の善悪にかかわる心の作用⑤識陰=認識、識別、および受・想・行の作用を起こす根本の意識――となります。

〈衆生世間〉
 衆生世間の衆生とは、五陰が仮に和合した状態をいいます。五陰が仮に和合して生命活動をなすのが衆生です。つまり人間の生命は死ねば宇宙に還流し、また因縁生起する故に仮に和合した状態なのです。この五陰仮和合の衆生は地獄界から仏界まで差別があります。衆生世間とは、十戒それぞれに備わる色心の働きの違いということなのです。

〈国土世間〉
 国土世間の国土とは、十界の衆生(正報=(しようほう)主体)が住する依報(えほう)(国土・環境)を意味します。正報とは果報の主体で衆生の身体、依報とは正報の所依(依り所)となる非常の草木、国土です。この正報と依報が二にして、しかも不二(ふに)であることを依正不二(えしようふに)といいます。

 この三世間の文底を開くと、衆生世間は中諦(法身)と対応し、五陰世間は空諦(報身)と対応し、国土世間は仮諦(応身)と対応していることが見えてきます。衆生世間は生命の主体を分類し、五陰世間は生命の智慧を分類し、国土世間は生命の依り所(環境)を分類しているのです。それはさらに色心不二と通底しています。その文底を開くと、五陰世間は心法となり、国土世間は色法となり、衆生世間は不二(中道)となるのです。

   理の一念三千

  一念三千とは、人間・宇宙・生命の如是実相を説き明かした仏教の極理です。釈尊は出世の本懐である法華経でこの極理を説き、中国の天台大師はその真髄を把握して、一念三千の法門を完成したのです。さらに日蓮は、天台の一念三千の法門を次のように展開しています。

 十界の衆生・各互(かくぐ)に十界を具足す。合すれば百界なり。百界に各各(おのおの)十如是(にょぜ)を具すれば千如なり。此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰(おん)世間を具すれば三千なり。百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦(けたい)の一なり。千如は総て空の義なれば空諦(くうたい)の一なり。三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり。法門多しと雖も但(ただ)三諦なり。この三諦を三身如来とも三徳究竟(くきょう)とも申すなり。(『一念三千法門』)

 生命には十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)の働きが備わっています。その十界に十界が互具すれば百界となります。百界各々に十如是(じゅうにょぜ)(相(そう)・性・(しょう)体(たい)・力(りき)・作(さ)・因(いん)・縁(えん)・果(か)・報(ほう)・本末究竟等(ほんまつくきょうとう))が備われば、千如是となります。千如是に三世間が具足して一念三千となるのです。この一念三千は一瞬一瞬の生命に備わる本源的な法、すなわち妙法にほかならなりません。
 十界が互具して百界と現れる色相は、仮和合ですから仮諦となります。百界それぞれに十如が備わって千如となります。千如はすべて空の義ですから空諦(くうたい)となります。三千世間は総じて中諦を表します。法華経はすべて、この三諦を説いているのです。この三諦は三身如来となります。前の三如是(相・性・体)と後の六如是(力・作・因・縁・果・報)が無二無別であり、一貫して等しいことを本末究竟等というのです。本とは仏性、末とは未顕の仏(九界)です。法華経は仏と凡夫、すなわち民衆一人ひとりの生命に差別がないことを明らかにしています。日蓮はで次のように説いています。

 一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・(りゆうじゆ)天親(てんじん)知つてしかもいまだひろ(拾)いいだ(出)さず、但我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり。(『開目抄上』)

 この「一念三千の法門」とは、釈尊が悟った根源の一法、すなわち人間・宇宙・生命のマンダラにほかなりません。「但法華経」は爾前権教ではなく法華経(権実相対)、「本門寿量品」は法華経迹門ではなく法華経本門(本迹相対)、「文の底にしづめたり」は文上脱益ではなく文底下種(種脱相対)を示しています。このように仏法の極理は三重の文底に秘められているのです。これを三重秘伝といいます。
  この人間・宇宙・生命の極理は、竜樹(生没年不詳、一五〇~二五〇頃の南インドの大乗論師)・天親(生没年不詳、四~五世紀頃のインドの学僧)も説き明かしておらず、『摩訶止観』で理の一念三千を説いた天台大師でさえ、自分では悟っていたが明確には説かなかったというのです。『竜樹』や『天親』について、分かりやすく解説するだけでは、〈釈尊=法華経〉の文底を把握した〈竜樹〉や〈天親〉を、幾重にも文上に還元してしまうことになります。それを読んで何か分かったような気がしても、実は何も分かっていないということになります。
 私たち人間がやっていることは、すべて手探りなのですが、それを〈分かった〉つもりになっているのではないでしょうか。〈はだかの王様〉同士が、互いに本音を隠してにらみ合っている――。政治の混乱は、それを浮き彫りにしています。〈法華経=釈尊〉が説く〈妙法≡宇宙・森羅万象・生命の曼荼羅〉は、言語道断・心行所滅の法なのです。それをどう把握するのか。言葉で説かれる限り、〈道元〉や〈日蓮〉をも含め、あらゆる〈思想・哲学・宗教=人間の営み〉について、その文底が問われつづけるのです。

   事の一念三千

 法界かならずしも上下四維(しゆい)の量にかゝはるべからざれども、四大・五大・六大等の行処(ぎょうしょ)によりて、しばらく方隅法界(ほうぐうほうかい)を建立するのみなり。無想天(むそうてん)はかみ、阿鼻獄(あびごく)はしもとせるにあらず。阿鼻も尽法界(じんほうかい)なり、無想も尽法界なり。(『正法眼蔵』「山水経」)。

  これは道元が言語の本質を指摘した言葉です。道元が伝えようとしていることは、次のように言い換えることができるでしょう。「法界を上下や東西南北の方向、距離、内と外に分けることは本来不可能なのである。目に見えない事(コト)を理解させるために、それを目に見える物(モノ)に喩えて、上下・内外と言っているのだ。天界が上で地獄界が下というわけではない。表層意識が上で深層意識が下というわけでもない。対象を外側、認識する心を内側と立てわけるのも方便にすぎない。天界といえばすべてが天界となり、地獄界といえばすべてが地獄界となる」ここには形而上学が陥りやすい言葉の虚構を乗り越えるための方法的原理が示されています。天台大師もまた『摩訶止観』第五で理の一念三千の意義を説いた後、次のように述べているのです。

 また一心は前に在り一切の法は後に在りといわず。また一切の法は前に在り一心は後に在りといわず。たとえば八相(はっそう)が物を遷(うつ)すがごとし、物が八相の前に在らば物は遷されず、相が物の前に在らばまた遷されず。前もまた不可なり、後もまた不可なり。ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。今の心もまたかくのごとし、もし一心より一切の法を生ぜば、これすなわち縦なり、もし心が一時に一切の法を含まば、これすなわち横なり。縦も不可なり、横も不可なり。ただ、心は一切の法、一切の法はこれ心なるなり。故に縦にあらず横にあらず、一にあらず異にあらず、玄妙深絶(げんみょうしんぜつ)にして識(しき)の識(し)るところにあらず、言(げん)の言(い)うところにあらず、故に称して不可思議の境となす。意ここに在るなり。

  天台大師は一念三千という法界の在り方を、空間になぞらえて前後とか縦横、あるいは一つであるとか別々であるといった形で分析・統合の論理でとらえることはできないといいます。天台大師は理の一念三千がはらむ言語的な限界を自覚していたことが分かります。天台大師も道元も、法華経の諸法実相・色心不二の心を自分の譬喩で語っているのです。仏法が説く三諦論にも同じことが当てはまります。三諦円融(円融三諦)といっても空諦と仮諦、中諦の三つが前後、左右、縦横に並んだり重なっているのでもなく、三つのものが一つに融合しているわけでもありません。空諦と言えば空諦、中諦と言えば中諦、仮諦と言えば仮諦がすべてなのです。
  しかし混沌を分節して意味を生み出す言語の機能を用いなければ、一念三千の法理を人々に伝えることはできません。従って天台大師が分析・統合化した一念三千の法門もまた、譬喩の限界を超えることはできず、さらなる文底への思索が問われているのです。それは言語で表現されたものは常に、それを正しく位置づける根源的な法理が求められている、ということにほかなりません。
 鎌倉時代の天台宗は既に世俗の利権に汚染され、その一念三千の法門は実証を伴わない単なる理論に還元されていました。それを厳しく批判した道元は、法華経の文底、すなわち森羅万象の奥底に「古仏の道」、すなわち妙法を見いだしたのです。日蓮もまた天台宗の実態を厳しく破折しています。そして法華経寿量品の文底、すなわち森羅万象の奥底に妙法をとらえ、さらに妙法を事の一念三千の曼陀羅として顕現したのです。日蓮は天台大師の〈理=理論)を〈事=実践)に展開したといえるでしょう。

   第五章 法華経の譬喩(2010.4.28)

 法華経には譬喩が多いだけでなく、法華経全体が一つの譬喩になっています。なぜなのでしょうか。それは目に見えない人間の心=事(こと)について説いているからです。人間が生きる世界は物事(ものごと)から成り立っています。法華経は事物不二(じぶつふに)・時空不二(じくうふに)を説いていますが、一応、物事の物(もの)とは色・形・音(声)など空間軸の変化、事(こと)とは位置・関係性・心理など時間軸の変化といえるでしょう。人間は五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)の働きによって、物の色・形・動き・音(声)・匂い・味・手触りなどを認識しています。
 言葉は自己が認識した物(もの)的・空間的な変化を表にして、他者に情報を伝える手段(道具)となっています。しかし法華経が伝えようとしている妙法は、森羅万象の生住異滅を支える根源的な法なのです。法華経の文底、すなわち事(こと)=事象の奥底に存在する妙法。妙法は能生の根源であり、言葉(言語)はその所生なのです。言い換えれば、言葉(言語)は妙法の働きの一環にほかなりません。言葉は混沌を分節して新たな意味を生み出す機能を持っています。しかし言葉をいくら積み重ねても妙法の全体をとらえることはできません。混沌を分節する言葉の狭間に、新たな混沌が増えつづけるからです。
 釈尊が法華経で私たちに伝えようとしているのは、事(こと)的視点でとらえた人間・宇宙・生命の真実にほかなりません。なぜ譬喩なのか。釈尊は譬喩品第三で次のように説いています。

爾(そ)の時に仏、舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、
我(われ)先に諸仏世尊の種種(しゅじゅ)の因縁、譬喩言辞(ひゆごんじ)を以って、方便して法を説きたもうは、皆、阿耨多羅三藐(あのくたらさんみゃく)三菩提(さんぼだい)の為なりと言わずや。是の諸(もろもろ)の所説は、皆、菩薩を化(け)せんが為の故なり。然(しか)も舎利弗(しゃりほつ)、今当(まさ)に復(また)譬喩を以って、更に此の義を明かすべし。諸(もろもろ)の智有(ちあ)らん 者、譬喩を以って解(げ)すことを得ん。

 「諸仏世尊」とは釈尊の己心、すなわち妙法を信受する一人ひとりの己心に開く仏なのです。釈尊は舎利弗に次のように告げます。諸仏世尊が法華経以前に、因縁や譬喩をもって説いたさまざまな法は、すべて衆生の仏性を呼び覚ますための方便であった。真実の義は譬喩で説く以外にない。譬喩を譬喩のまま受け止め、それを自分の譬喩で語るところに仏性が目覚める。仏法はすべて、衆生に生命の真実を悟らせるために説かれた。それは、譬喩を用いなければ伝えることのできない法なのである。
 この経文の後に、よく知られている三車火宅の譬喩が続いています。法説周(ほっせつしゅう)の舎利弗だけが法華経方便品第二で説かれた開三顕一の理論を聞いて悟ったが、ほかの弟子たちは理論だけでは納得できず、釈尊が説く譬喩を聞いて初めて生命の真実を悟ったのだというのです。そして譬喩を聞いて悟った弟子たちは、それぞれに悟った法を自分の譬喩で語っています。自分の譬喩を語れなければ、その法を真に把握したとは言えないのです。生命の真実を悟ったとき、自ずから生命の奥底からわき上がる歓喜。それが自ずから譬喩となるのです。この譬喩品の「今当(まさ)に復(また)譬喩を以って、更に此の義を明かすべし。諸(もろもろ)の智有らん者、譬喩を以って解(げ)すことを得ん」の文について、日蓮は次のように文底の意義を説いています。

第七以譬喩得解(いひゆとくげ)の事 止観の五に云く「智とは譬(ひ)に因(よ)るに斯(こ)の意徴(こころしる)し有り」と。御義口伝に云く、此の文を以て鏡像円融(きょうぞうえんゆう)の三諦(さんたい)の事を伝うるなり。惣(そう)じて鏡像の譬(たとえ)とは自浮(じふ)自影(じよう)の鏡(かがみ)の事なり。此の鏡とは一心の鏡なり。惣(そう)じて鏡に付(つい)て重重の相伝之(これ)有り。所詮(しょせん)鏡の能得(のうとく)とは万象を浮(うか)ぶるを本(もと)とせり。妙法蓮華経の五字は万象を浮べて一法も残る物之(これ)無し。又云く、鏡に於て五鏡之れ有り。妙の鏡には法界の不思議を浮べ、法の鏡には法界の体を浮べ、蓮の鏡には法界の果を浮べ、華の鏡には法界の因を浮べ、経の鏡には万法の言語(ごんご)を浮べたり。又云く、妙の鏡には華厳(けごん)を浮べ、法の鏡には阿含(あごん)を浮べ、蓮の鏡には方等(ほうどう)を浮べ、華の鏡には般若(はんにゃ)を浮べ、経の鏡には法華(ほっけ)を浮ぶるなり。順逆次第(じゅんぎゃくしだい)して心得(こころう)べきなり。我等衆生の五体五輪、妙法蓮華経と浮び出(い)でたる間、宝塔品(ほうとうぼん)を以て鏡と習(なら)うなり。信謗(しんぼう)の浮び様能(よ)く能く之(これ)を案ずべし。自浮自影(じふじよう)の鏡(かがみ)とは南無妙法蓮華経是(これ)なり。(『御義口伝巻上』譬喩品九箇の大事)

 冒頭に引用されている摩訶止観の文は、「譬喩によって仏法の真随を象徴するのが仏の智慧である」と読むことができます。譬喩品の「譬喩を以って解(げ)すことを得ん」という文は、「鏡像円融(きょうぞうえんゆう)の三諦(さんたい)」を表しているのです。鏡には万象を映し出す働きがあります。「自浮自影(じふじよう)の鏡(かがみ)」は生命の真実を照らし出し、妙法蓮華経の五字は森羅万象を一法も残さず映し出しています。妙の鏡は生命の不思議(華厳(けごん))を映し、法の鏡は生命の姿形(阿含(あごん))を映し、蓮の鏡は生命の果(方等(ほうどう))を映し、華の鏡は生命の因(般若(はんにゃ))を映し、経の鏡は生命の言語(法華)を映しているのです。
 ここで「三諦」とは空諦・仮諦・中諦のことで、真理を三つの側面からとらえる概念です。諦は真実を明らかにすることをいいいます。空諦とは森羅万象の内面の性質、仮諦とは諸法が因縁によって仮に和合している外面の姿、中諦とは色心を統一する本質を意味します。理論物理学でいう〈場〉は、位地、方向、運動、相関性をはらんでいます。これを仏法は空諦ととらえているのです。〈場〉は物質的エネルギーを発動し、モノの形態を変化させます。これを仏法では仮諦というのです。空諦は心法に対応し、仮諦は色法に対応します。これを色心不二ととらえるとき、そこに浮かび上がる統一性を中諦というのです。三諦論は存在をトータルに把握するための方法的原理にほかなりません。三諦は色心不二、依正不二、久遠即末法と通底しているのです。

   法華経の七譬

  法華経には大きく分けると、七つの譬喩が説かれています。それは①三舎火宅(さんしやかたく)の譬え(譬喩品(ひゆぼん)第三)②長者窮子(ちようじやぐうじ)の譬え(信解品(しんげぼん)第四)③三草二木(さんそうにもく)の譬え(薬草喩品(やくそうゆほん)第五)④化城(けじよう)宝処(ほうしよ)の譬え(化城喩品(けじようゆほん)第七)⑤衣裏珠(えりじゆ)の譬え(五百弟子受記品(じゆきぼん)第八)髻中明珠の(けいちゆうみようしゆ)譬え(安楽行品(あんらくぎようぼん)第十四)⑦良医病子(ろういびようし)の譬え(寿量品第十六)――の七つです。
 このうち、三舎火宅の譬え、三草二木の譬え、化城宝処の譬え、髷中明珠の譬え、良医病子の譬えは釈尊が説いた譬喩、そして長者窮子の譬え、衣裏珠の譬えは釈尊が説いた譬喩を弟子たちがとらえ返した譬喩になっています。既に考察したように、釈尊が説いた譬喩と、その文底を把握した弟子たちの譬喩をやさしく解説しようとすると、文上がさらに浅い文上に還元されるという矛盾が生じるのです。その矛盾を犯すことになりますが、それぞれの譬喩の内容を要約してみましょう。

〈三舎火宅の譬え〉
 家の中で遊びに夢中になり、家が火事になっているのに気づかない子供たちを救うために、父の長者は「家の外にお前たちの大好きな羊車(ようしや)、鹿車(ろくしや)、牛車(ごしや)があるから出ておいで」と呼びかけます。そのおかげで子供たちは家を飛び出し、危険を免れるのです。子供たちの無事を確かめた長者は、約束した車よりもはるかに素晴らしい大白牛車(だいびやくごしや)を子供たちに与えます。
 ここでは羊車、鹿車、牛車が三乗(声聞・縁覚・菩薩の感性・能力(気根)に対応する教え)に、大白牛車が一仏乗(仏の悟りに導く教え)に譬えられています。

〈長者窮子の譬え〉
  幼いときに家出した窮子は他国を流浪し、生活に困り心も下劣になっていました。窮子は偶然、父が成功して大長者になっていた街にたどり着つくのです。父は一目で、窮子が
自分の子であることに気づきますが、窮子は父であることに気づかず逃げ出します。父が家来に命じて連れ戻そうとしても、窮子は恐れおののいて気絶する始末でした。下劣な窮子の心を見抜いた父は、親子の名のりを先に延ばすことにします。その代わりに、良い条件で窮子を雇い、くみ取りの仕事をさせるのです。
 父は自分の家で働く窮子に優しい心配りをしながら、わが子の人間的成長を見守ります。窮子は次第に重要な仕事を与えられ、人間的に立派に成長していきます。長者は臨終の床に窮子を呼び、初めて親子の名のりをあげ、そこに集まった親戚、友人、国王、大臣、婆羅門たちに窮子が自分の後継者であることを告げるのです。ここでは他国を流浪し、生活に困り、心も下劣になった窮子が三乗に、初めて親子の名のりをあげて、長者の後継者となった窮子が一仏乗に譬えられています。

〈三草二木の譬え〉
  三千大千世界の大地には草や木が生い茂っていますが、その種類はさまざまで形や性質も異なっています。その三千大千世界を密雲が覆い、慈雨となって降り注ぐのです。その潤いを受けて草や木は、それぞれの種類や性質に従って成長し、花を開き実を結びます。その生ずる大地も降り注ぐ雨も同じですが、上中下の薬草や大中小の樹木に分かれて成長するのです。ここでは降り注ぐ雨と大地が一仏乗に、上中下の薬草や大中小の樹木が三乗に譬えられています。

〈化城宝処の譬え〉
  一人の導師に導かれが宝を求めて旅をしています。しかし道は険しく、さまざまな危険が待ち受けているのです。道は五百由旬(ゆじゆん)(一由旬は八キロ、あるいは十五キロ)もありますが、導師はどの道が険しく,危険なのかよく知っています。しかし旅人たちは前途の多難であることを恐れ、もう引き返したいと導師に訴えます。すると導師は三百由旬を過ぎたところに素晴らしい化城(宮殿)を出現させて、ここでしばらく休んでから旅を続けるよう、旅人たちを説得するのです。旅人たちは宮殿の素晴らしさに感動して、これで旅の目的を果たしたような満足感にひたっていました。そのとき導師は宮殿を消滅させて(即滅化城)、求めている宝はこの宮殿ではなく、すぐ近くにあることを教えるのです。ここでは化城は三乗に、宝処は一仏乗に譬えられています。

〈衣裏珠の譬え〉
  親友から無価(むげ)(最も価値の高い)の宝珠をもらった人がいます。その人は酒に酔っていたために、そのことに気づかず、長い間放浪して苦労した後に、その親友に再会するのです。親友から「君の衣の裏にかけてあげた無価の宝珠はどうしたのだ」と言われて、初めて自分がその無価の宝珠を持っていたことに気づきます。ここでは酒に酔うことが三乗に、無価の宝珠が一仏乗に譬えられています。

〈髻中明珠の譬え〉
  転輪聖王は戦功のあった武将にさまざまな恩賞を与えますが、通常は転輪聖王の髻の(もとどり)中にある明珠だけは与えることがありません。しかし特別の功労者にはこの明珠を与えるのです。ここでは通常の功労者に与えられる恩賞は三乗に、転輪聖王の髻の中の明珠は一仏乗に譬えられています。

〈良医病子の譬え〉
  名医の子どもたちは、父が留守の間に誤って毒を飲んでしまいます。正気を失わない子どももいましたが、正気を失った子どももいました。父は良薬を調合して子どもたちに与えます。すると、正気を失っていない子どもはその薬を飲んで病がすぐ治りましたが、正気を失った子どもはその薬を飲もうともせず苦しむばかりでした。そこで父は方便を使って、「私は老いていつ死ぬかもしれない。ここに良薬を残しておくから飲みなさい」と言って、他国に旅立ってしまいます。そして旅先から父が死んだことを子どもたちに知らせるのです。父の死を悲しんだ子どもたちはみな、父が残してくれた薬を飲んで病が全快します。子どもたちの病が全快したことを聞いた父はすぐ,帰宅して、元気な姿を子どもたちに見せたのです。ここでは子どもたちが誤って飲んだ毒が三乗に、父の調合した良薬が一仏乗に譬えられています。

    日蓮は法華経の譬喩をどうとらえたのか

 法華経の七譬の内容を要約してみましたが、どの譬喩も誰でも応用できそうな教育的、道徳的な説話の域を出ません。そんなことが法華経の真意なのでしょうか。そんなはずはありません。法華経の中で釈尊自身が、声聞や縁覚の智慧では把握できないと宣言しているのですから。それでは日蓮は、法華経の七譬の文底をどうとらえているのでしょうか。衣裏珠の譬えを取り上げて、法華経の経文と『御義口伝』の文を対照させながら考察してみましょう。

世尊、譬(たと)えば人有り、親友(しんぬ)の家に至りて、酒に酔うて臥(ふ)せり。是(こ)の時に親友、官事の当(まさ)に行くべきあって、無価(むげ)の宝珠を以て、其の衣の裏に繋(か)け、之を与えて去りぬ。其の人酔い臥して、都(すべ)て覚知せず。起き已(おわ)って、遊行し他国に到りぬ。衣食の為の故に勤力求索(ごんりきぐしやく)すること、甚だ大いに艱難(かんなん)なり。若(も)し少し得(う)る所有れば、便ち(すなわ)以て足りぬと為す。後に親友に会い遇(あ)うて、之を見て是(こ)の言を作(な)さく、
 拙い哉(かな)丈夫、何ぞ衣食の為に、乃ち(すなわ)是(かく)のごとくなるに至る、我昔、汝をして安楽なるこ とを得、五欲に自ら恣な(ほしいまま)らしめんと欲して、某の(そればし)年日月(としひつき)に於て、無価の宝珠を以て、汝 が衣裏の裏に繋けぬ。今故現(いまなおげん)に在り。而(しか)るを汝知らずして艱苦(かんく)し憂悩(うのう)して、以て自活を 求むること甚だ為(こ)れ癡(ち)なり。汝今此の宝を以て所須(しよしゆ)に貿易(むやく)すべし。常に意の(こころ)ごとく乏短(ぼうたん) なる所無かるべし。といわんが如く、仏も亦是(またかく)の如し。(五百弟子受記品第八)

 日蓮はまず、経文の「無価の宝珠を以て衣の裏に繋け」について、次のように文底の意義を説いています。

第一衣裏の事 御義口伝に云く、此の品には無価の宝珠を衣裏に繋くる事を説くなり。所詮日蓮等の類、(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、一乗妙法の智宝を信受するなり。信心を以て衣裏にかくと云うなり。(『御義口伝巻上』受記品三個の大事)

  文底よりとらえると、「無価の宝珠」は生命本有(ほんぬ)の妙法、すなわち妙法の曼陀羅となります。「衣裏に繋くる」とは法華経の心、すなわち菩提樹の木陰で瞑想した釈尊の心と冥合(同調)することなのです。それは法華経の文底に秘められた「一乗妙法の智宝」、すなわち妙法の曼陀羅を信受することにほかなりません。妙法の曼陀羅を信受し、南無妙法蓮華経と唱えることを「衣裏にかく」というのです。次に日蓮は「酒に酔い臥して」について、その文底意義を明らかにしています。

第二酔酒而臥(すいしゆにが)の事 御義口伝に云(いわ)く、酒とは無明(むみよう)なり、無明は謗法(ほうぼう)なり。臥(が)とは謗法の家に生(うま)るる事なり。三千塵点(じんてん)の当初に悪縁の酒を呑みて、五道六道に酔い廻(めぐ)りて、今謗法の家に臥(ふ)したり。酔とは不信なり、覚とは信なり。今日蓮等の類、(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る時、無明の酒醒めたり。又云く、酒に重重之れ有り。権教は酒、法華経は醒めたり。本迹相対する時、迹門は酒なり始覚(しかく)の故なり、本門は醒めたり本覚(ほんがく)の故なり。又本迹二門は酒なり,南無妙法蓮華経は醒めたり。酒と醒むるとは相離れざるなり。酒は無明なり、醒むるは法性な(ほつしよう)り。法は酒なり、妙は醒めたり。妙法と唱うれば、無明法性体一(たいいち)なり。止(し)の一に云く「無明塵労即是菩提(むみようじんろうそくぜぼだい)」と。(同前)

 「謗法の家に生るる」も「謗法の家に臥したり」も、森羅万象の色心不二・久遠即末法なることに目覚めない心、すなわち妙法に違背する色心の振る舞いにほかなりません。ここには権教から法華経迹門、法華経本門、法華経文底へと、経文の文底を幾重にも開くことによって森羅万象の奥底に迫る方法的原理が示されています。妙法の曼陀羅に唱題する色心に、天台大師が説いた『摩訶止観(まかしかん)』の一にある「無明塵労即是菩提」、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)・生死即涅槃(しようじそくねはん)の境界が開かれるのです。この煩悩と生死は末法の色心、菩提と涅槃は久遠の色心を顕しています。この言葉もまた、色心不二・久遠即末法の法理を説いているのです。さらに日蓮は、この経文の末尾にある「我今仏に従って授記荘厳(じゆきしようごん)の事、及び転次(てんじ)に受決(じゆけつ)せんことを聞き奉って身心遍く歓喜す」という一節を取り上げて、次のように文底の意義を説いています。

第三身心遍歓喜(しんしんへんかんぎ)の事  御義口伝に云く、身とは生死即涅槃(しようじそくねはん)なり。心とは煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なり。遍とは十界(じつかい)同時なり。歓喜とは法界(ほつかい)同時の歓喜なり。此の歓喜の内には三世諸仏の歓喜納(おさ)まるなり。今日蓮等(ら)の類、南無妙法蓮華経と唱え奉れば「我則ち(われすなわ)歓喜す」とて、釈尊歓喜し給うなり。歓喜とは善悪共(とも)に歓喜なり。十界同時なり.深く之を思うべし云云。(同前)

 これは釈尊が次々と成仏の記別を与え、それぞれの使命を明らかにするのを見た声聞の弟子たちの言葉です。「遍とは十界同時・法界同時の歓喜」の「十界」は地獄界から仏界に至る生命の色心、法界は森羅万象です。この文は森羅万象の個々の色心はそのまま宇宙の色心であり、それが同時に歓喜することを示しています。「我則ち歓喜す」は、宝塔品第十一の「此の経は持(たも)ち難し、若(も)し暫くも持つ者は、則ち我歓喜す諸仏も亦然(またしか)なり」という一節にある言葉です。妙法の曼陀羅に南無妙法蓮華経と唱えるとき歓喜するのは、色心不二・久遠即末法なる己心に成道する釈尊、すなわち三世十方の諸仏にほかなりません。「善悪共(とも)に歓喜なり。十界同時なり」とは、〈今、ここに〉生きる一瞬一瞬に感謝し、歓喜する心なのです。

   第四章 五百塵点劫と三千塵点劫

  法華経は釈尊が仏道を成就したのは、今世ではなく五百塵点劫(ごひやくじんてんごう)という久遠の過去であったことを宣言しています。これを五百塵点劫成道、あるいは久遠実成といいます。それは寿量品第十六で次のように説かれているのです。

一切世間の天人及び阿修羅は皆今(みないま)の釈迦牟尼仏、釈氏(しやくし)の宮を出でて、伽耶城(がやじよう)を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)を得たまえりと謂(おも)えり。然(しか)るに善男子(ぜんなんし)、我実(われじつ)に成仏して已来(このかた)、無量無辺百千万億那由陀劫(なゆたこう)なり。

 世間の人々はみな、釈尊が生まれ育った宮殿を出て、伽耶城に近い道場で修行して悟り阿耨多羅三藐三菩提)を得たと思っていました。ところが、釈尊は自分が成仏してから、既に無量無辺百千万億那由陀劫という長遠の時間が過ぎているというのです。これは五百塵点劫(じんてんごう)成道といい、この久遠の過去に釈尊は初めて成道したことになるので、本果(ほんが)第一番の成道とも呼ばれています。
 法華経には、本果第一番の成道から釈迦在世に至るまで、釈尊がさまざまな修行を積み重ねてきたことが明かされているのです。その修行の一つが化城喩品(けじようゆほん)第七に説かれています。釈尊は三千塵点劫(じんてんごう)という遠い過去に、大通智勝仏の第十六王子として生まれ、法華経を説いたというのです。
 天台大師は、この第十六王子とその弟子たちの因縁を迹門の種熟脱としてその意義を説き、本果第一番の釈尊とその弟子たちの因縁を本門の種熟脱としてその意義を説いています。この場合、本門の五百塵点劫の五百というのは、五百千万億那由咜(なゆた)阿僧祇(あそうぎ)の略ですから、迹門の三千塵点劫とは桁違いの数です。しかし、どんな過去もすべて唯心であって色心不二なる存在ではありません。従って三千塵点劫も五百塵点劫も文上の譬喩なのです。その文底を開くとき、どちらも色心不二・久遠即末法、すなわち〈今、ここに〉を意味していることが分かります。五百塵点劫成道の釈尊も三千塵点劫の第十六王子も、〈今、ここに〉法華経を信ずる色心不二なる己心に開く存在にほかなりません。
  日蓮は天台大師が体系化した種熟脱の法理に秘められた文底の種熟脱を明らかにしたのです。すなわち下種は久遠元初(今、ここに)であり、種子の本体は法華経文底の南無妙法蓮華経(妙法)となり、それを信受する一人ひとりの己心に種熟脱が具(そな)わるのです。

   五百塵点劫とは何か

 釈尊は寿量品の冒頭で五百塵点劫成道を明かしたあと、さらに五百塵点劫という過去世がいかに長遠なのか、次のように説いています。

  譬(たと)えば五百千万億那由多阿僧祇(なゆたあそうぎ)の三千大千世界を、仮使(たとい)人有って、抹(まつ)して微塵(みじん)と為して、東方(とうぼう)五百千万億那由多阿僧祇(なゆたあそうぎ)の国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵(じん)を下し、是(かく) の如く東に行きて是の微塵(みじん)を尽くさんが如き、諸(もろもろ)の善男子(ぜんなんし)、意(こころ)に於いて云何(いかん)。是(こ)の諸(もろもろ) の世界は、思惟(しゆい)し、校計(きょうけい)して、其の数を知ることを得べしや否や。
(中略)
爾(そ)の時(とき)に仏(ほとけ)、大菩薩衆(だいぼさつしゅ)に告(つ)げたまわく、
 諸(もろもろ)の善男子(ぜんなんし)、今当(まさ)に分明(ふんみょう)に、汝等(なんだち)に宣語(せんご)すべし。是の諸(もろもろ)の世界の、若(も)しは微塵(みじん)を著(お)  き、及び著(お)かざる者を尽(ことごと)く以って塵(ちり)と為して、一塵(いちじん)を一劫(いっこう)とせん。我(われ)成仏してより已来(このかた)、 復此(またこれ)に過ぎたること百千万億那由多阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)なり。是(こ)れより来(このかた)、我(われ)常に此の娑婆(しゃば)世界 に在って説法教化(せっぽうきょうけ)す。

 ここで釈尊は無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)という時間の長さについて説明しています。一説によると、那由多(なゆた)は一千億、阿僧祇(あそうぎ)は十の十五乗に相当します。最初に五百千万億那由多阿僧祇(なゆたあそうぎ)の三千大千世界を粉々にして塵と成し、東方に向かって五百千万億那由多阿僧祇の世界を過ぎるごとに一塵を落とし、その塵を落とし尽くしたとする。次に、その塵を落とした世界も落とさなかった世界もすべて粉々にして、その一塵を一劫(八百万年あるいは千六百万年)とする……。
 まさに、想像を絶する宇宙的な時間が説かれているのです。この長大な時間は五百塵点劫(じんてんごう)と呼ばれ、五百塵点劫の昔に悟りを得た釈尊は久遠実成の仏とも本果第一番成道の釈尊とも呼ばれます。四十六億年にわたる地球の大変動と生物の進化の歴史を学んでいる私たちの常識からすれば、この寿量品の文は荒唐無稽なお伽話としか思えません。五百塵点劫に比べれば四十六億年など、まさに一瞬にすぎないからです。しかも釈尊は五百塵点劫という遠い過去に成仏して以来、常に娑婆世界に在って衆生を説法教化しつづけているというのです。
 物本事迹の視点(文上)を事本物迹の視点(文底)に転換すると、この経文のイメージは大きく転換します。日蓮は時間の本質について次のように述べているのです。

第二十三久遠(くおん)の事 御義口伝に云く、此の品の所詮は久遠実成(くおんじつじょう)なり。久遠とははたらかさず、つくろわず、もとの儘(まま)と云う義なり。無作(むさ)の三身(さんじん)なれば初めて成ぜず、是(こ)れ働かざるなり。三十二相八十種好(しゅごう)を具足(ぐそく)せず、是れ繕(つくろ)わざるなり。本有常住(ほんぬじょうじゅう)の仏なれば本(もと)の儘なり。是(これ)を久遠と云うなり。久遠とは南無妙法蓮華経なり。 実 成 (まことにひらけたり)、無作と開けたるなり云云。(『御義口伝巻下』寿量品廿七箇の大事)

 寿量品の極理は久遠実成にあります。久遠とは宇宙・生命の本来の姿であり、振る舞いなのです。始まりもなければ終わりもない。無常であると同時に常住である存在。それを久遠実成の仏と名づけるのです。「はたらかさず」は報身、「つくろわず」は応身、「もとの儘(まま)」は法身を意味します。この報身、応身、法身の三つが一体不二であることを、無作(むさ)の三身(さんじん)というのです。
 無作とは宇宙・生命本有(ほんぬ)(元々備わっていること)を表します。報身は仏の智慧、応身は仏の振る舞い、法身は仏の本体です。真実の仏はこの三身を備えています。それを一身即三身・三身即一身というのです。この無作の三身如来は宇宙にみなぎると同時に、私たち一人ひとりの生命の場に秘められています。久遠実成とは、その無作の三身如来を自己の生命の場に開き現すことにほかなりません。その久遠の生命を南無妙法蓮華経と名づけるのです。
 日蓮は「色心不二なるを一極(いちごく)と云うなり」(『御義口伝巻上』南無妙法蓮華経)と教示しています。そこから久遠即末法の哲理を読み取ることができます。「一極」とは釈尊が久遠(久遠元初)に悟った根源の一法(妙法蓮華経)にほかなりません。つまり、妙法蓮華経と名づける久遠元初の一法は色心不二だというのです。
 色心不二とは色法(物質・力動=外側の世界)と心法(意味・情報=内側の世界)が相即していることをいいいます。色心不二は多義的な概念ですから、西欧的な発想で定義すれば誤解を生じます。関係性が変われば別の意味が見えてくるからです。一応の説明をすると次のようになします。
  色心不二とは、色(法)と心(法)が而二不二(ににふに)(二にして不二)であることをいいます。色(法)は物質・肉体・色彩・形態など外形的なものを表し、心(法)は精神・心の働き・関係性・情報など内的なものを表すのです。色法を物的世界像、心法を事的世界像ととらえることもできます。物的世界と事的世界は而二不二であり、切り離すことはできないのです。
 世界は物事から成り立ち、西欧哲学の視点は物本事迹(ぶつほんじしゃく)、すなわち物を本体(本)、事を影(迹)と見ます。これに対し、仏法の視点は事本物迹(じほんぶつしゃく)、すなわち事を本体(本)、物を影(迹)ととらえるのです。さらに生は色法、死は心法となります。仏法の眼でとらえた森羅万象(すべての存在)は、生と死が而二不二なのです。生と死は存在の両義性であって、切り離すことはできません。今の一瞬一瞬に死(心法)は生(色法)を支え、生もまた死を支えているのです。

   三千塵点劫とは何か

化城喩品(けじょうゆほん)第七の舞台は次のように開幕しています。

仏、諸(もろもろ)の比丘に告げたまわく、
乃往(ないおう)過去、無量無辺不可思議阿僧祇劫(あそうぎこう)、爾(そ)の時に仏有(いま)しき。大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)、応供(おうぐ)、正?知(しょうへんち)、明行足(みょうぎょうそく)、善逝(ぜんぜい)、世間解(せけんげ)、無上士(むじょうじ)、調御丈夫(じょうごじょうぶ)、天人師(てんにんし)、仏(ぶつ)、世尊(せそん)と名(な)づく。其の国を好成(こうじょう)と名づけ、劫(こう)を大相(だいそう)と名づく。諸(もろもろ)の比丘、彼の仏の滅度(めつど)より已来(このかた)、甚だ大いに久遠なり。譬えば三千大千世界の所有(しょう)の地種(じしゅ)を、仮使(たとい)人有りて、磨(す)り以って墨と為し、東方千の国土を過ぎて、乃(すなわ)ち一点を下さん。大きさ微塵の如し。又千の国土を過ぎて、復(また)一点を下さん。是(かく)の如く展転(てんでん)して地種(じしゅ)の墨を尽くさんが如き、汝等(なんだち)が意(こころ)に於いて云何(いかん)。是の諸(もろもろ)の国土を、若(も)しは算師(さんじ)、若しは算師(さんじ)の弟子、能く辺際(へんざい)を得て、其の数を知らん や否や。不(いな)なり、世尊。
諸(もろもろ)の比丘、是の人の経(ふ)る所の国土の、若(も)しは点せると点せざるとを、尽(ことごと)く抹(まっ)して塵と為して、一塵(じん)を一劫(こう)とせん。彼の仏の滅度より已来(このかた)、復(また)是の数に過ぎたること、無量無辺百千万億阿僧祇劫(あそうぎこう)なり。我(われ)如来の知見力を以っての故に、彼の久遠を観(み)ること猶今日(なおこんにち)の如し。
(中略)
其(そ)の仏(ほとけ)、未(いま)だ出家したまわざりし時に、十六の子(みこ)有り、其の第一の名を智積(ちしゃく)と曰(い)う。諸子(しょし)、各(おのおの)種種(しゅじゅ)の珍異(ちんい)玩好(がんこう)の具(ぐ)有り。父(ちち)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得(え)たもうと聞いて、皆所珍(しょちん)を捨てて仏所(ぶっしょ)に往詣(おうげい)す。諸母(しょも)、涕泣(たいきゅう)して、随いて之(これ)を送る。其(そ)の祖(そ)転輪聖王(てんりんじょうおう)、一百(いっぴゃく)の大臣、及び余の百千万億の人民(にんみん)と、皆共(とも)に囲繞(いにょう)して、随いて道場に至り、咸(ことごと)く大通智勝如来に親近(しんごん)して、供養(くよう)、恭敬(くぎょう)、尊重(そんじゅう)、讃歎(さんたん)したてまつらんと欲す。

 化城喩品には大通智勝仏の由来が説かれています。三千塵点劫(じんてんごう)という昔に大通智勝如来という仏がおり、その仏は出家する以前は国王で十六人の王子がいた。その十六人の王子はみな、父親である大通智勝仏から法華経の説法を受け、後に八方の国土に生じて成仏したという。この経文は最初に三千塵点劫について説明しています。まず三千大千世界の国土をすべて磨りつぶして墨にする。次に東方に向かって千の国土を過ぎるごとに墨の一点を落とす。このようにして墨をすべて落とし尽くしたとする。墨を落とした国も落とさなかった国もすべて砕いて塵にして、一つの塵を一劫(八百万年、あるいは千六百万年)とする。大通智勝仏が滅度してから、すでにこのような想像を絶する長い年月がたっている、というのです。
 最初にすりつぶす国土の数が、本門寿量品の五百塵点劫(ごう)の場合は五百千万億那由佗(なゆた)阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)の三千大千世界であるのに対して、迹門化城喩品の三千塵点劫(ごう)の場合は一つの三千大千世界に過ぎません。五百塵点劫も三千塵点劫も久遠即末法の生命の真実を告げるための譬喩なのです。それを実体化して、どちらがより遠い過去なのかと論じても意味がありません。「我(われ)如来の知見力を以っての故に、彼の久遠を観(み)ること猶今日(なおこんにち)の如し」とあるように、迹門の化城喩品はすでに、本門の寿量品に秘められた久遠即末法の哲理を示唆しているのです。成仏の場は民衆一人ひとりの、〈今、ここに〉開かれています。五百塵点劫も三千塵点劫も久遠即末法の譬喩なのです。それを色心で覚知することを成道というのです。生も死も宇宙を離れて存在するものではありません。この世とは別のところに、あの世が存在するわけではないのです。
 さらに日蓮は、大通智勝仏の十六人の王子について、次のように説いています。

第五十六王子(じゅうろくおうじ)の事 御義口伝に云く、十とは十界なり、六とは六根(こん)なり、王とは心王(しんのう)なり、子とは心数(しんじゅ)なり。此れ即ち実相の一理の大通(だいつう)の子なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は十六王子なり。八方作仏(はっぽうさぶつ)とは、我等が八苦の煩悩即(ぼんのうそく)菩提(ぼだい)と開くなり云云。(『御義口伝巻上』化城喩品七箇の大事)

 「十六王子」の一つ一つの文字が十界、六根、心王、心数に配されることによって、「十六王子」という言葉が実相の一理、すなわち妙法の働きの譬喩であることが明確になっています。「心王」とは心の主体、「心数」とは心の働きです。「八方作仏」とは十六王子が二人ずつ、東、東南、南、西南、西、西北、北、東北の八方で作仏したことをいいます。それは八苦の煩悩即菩提を表しているのです。
 小乗教では八苦を分析して、①生苦(しょうく)②老苦③病苦④死苦⑤愛別離苦(あいべつりく)⑥怨憎会苦(おんぞうえく)⑦求不得苦(ぐふとっく)⑧五盛陰苦(ごじょうおんく)に分類しています。ここにも形而上学的な分析(分類)・統合(体系化)の論理がのぞいているのです。日蓮は一義的な文上の視点を文底の視点に転換しています。「十六王子」とは妙法を信じて南無妙法蓮華経と唱える一人ひとりの色心にほかなりません。十六王子の父である「大通智勝」の「大通」は人生の諸相、「智勝」は自己の宿業を転換する一念を意味します。
 三世(過去・現在・未来)の生命は、今、ここに、開かれているのです。この一瞬一瞬に動き、変化し、未来を開き、過去を創出しつづける生命。仏法は宇宙のリズムと生命の波動を如実に把握し、選択し、生きることをめざす実践といえるでしょう。
 人間と宇宙と生命の不思議な往還について、日蓮は次のように説いています。

第四其祖天輪聖王(ごそてんりんじょうおう)の事 御義口伝に云く、本地身(ほんじしん)の仏とは此の文(もん)を習うなり。祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体の三如是(さんにょぜ)を祖と云うなり。此の三如是より外に天輪聖王之れ無きなり。天輪とは生住異滅なり。聖王とは心法なり。此の三如是は三世の諸仏の父母なり。今日蓮等(ら)の類、(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、三世の諸仏の父母にして、其祖天輪聖王なり。金銀(こんごん)銅鉄とは、金は生、銀は白骨にして死なり、銅は老の相、鉄は病なり。此れ即ち開示悟入の四仏知見なり。三世常恒(さんぜじょうごう)に生死生死とめぐるを天輪聖王と云うなり。此の天輪聖王出現の時の輪宝(りんぽう)とは、我等が吐く所の言語音声(ごんごおんじょう)なり。此の音声の輪宝とは南無妙法蓮華経なり。爰(ここ)を以て平等大慧(びょうどうたいえ)とは云うなり。(同前)

 これは化城喩品に「諸母(しょも)、涕泣(たいきゅう)して、之を送る。其の祖天輪(てんりん)聖王(じょうおう)……」とある部分の「其の祖天輪聖王」についての御義口伝です。この文には仏の本地が示されています。「方便品の相性体の三如是(さんにょぜ)を祖と云うなり」の三如是は、空諦(如是性)・仮諦(如是相)・中諦(如是体)の三諦、すなわち妙法の曼陀羅となるのです。「其祖天輪聖王」とは森羅万象を三諦・三身と見る一念であり、「其粗」の二字は仏の本因(妙法)を示しています。「天輪」とは本因(妙法)に命(もと)づく生命の振る舞い、人生の姿にほかなりません。「聖王」とは妙法に染められた生命をいいます。「三世の諸仏」とは妙法に目覚めた慈悲の一念です。天輪王の輪宝(りんぽう)には金銀銅鉄の四種類があります。この四種の輪宝は人間・宇宙・生命の生住異滅・生老病死を象徴しているのです。それは仏の説法となり、妙法を開示悟入する仏知見となります。森羅万象の起滅する姿は、そのまま仏の説法なのです。「三世常恒(さんぜじょうごう)に生死生死とめぐるを天輪聖王と云うなり」とあるように、天輪聖王とは永遠に往還を繰り返す人間・宇宙・生命、すなわち妙法の異名にほかなりません。

    第三章  爾前経から法華経へ

  法華経文底の妙法を悟った釈尊は、最初からその〈妙法の曼荼羅〉を人々に説いたのではありません。仏教の極理である妙法を説く前に、まず仏教を志す人々の感性と能力を鍛えなければならなかったからです。例えば初めて数学を学ぶ人に、最初から高等数学を教えても理解できるはずがありません。まず小学校クラスの基本を教え、それから中学校クラス、高等学校クラス、大学クラスへと段階を経て、より複雑な高等数学の理論を教えることになります。釈尊もまた、仏教の初歩である小乗経から権大乗経へ、権大乗経から実大乗経(法華経)へと段階を経て、人々をより深い教えに導いていったのです。釈尊が晩年に説いた法華経の方便品第二には、次のような一節があります。

仏眼(ぶつげん)を以て一切の諸法を観ずるに、宣説(せんぜつ)すべからず。所以(ゆえん)は云何(いかん)、諸(もろもろ)の衆生の性欲不同(しようよくふどう)なることを知れり。性欲不同なれば種種(しゆじゆ)の法を説きき。種種の法を説くこと方便力(ほうべんりき)を以ってす。四十余年には未だ真実を顕さず。是(こ)の故に衆生の得道差別(とくどうしやべつ)して、疾(と)く無上菩提(むじようぼだい)を成ずることを得ず。

 「仏眼を以って」とは、妙法を悟った仏の視点です。「一切の諸法を観ずるに」という言葉は森羅万象を包み込む妙法を示しています。その妙法は「宣説すべからず」、すなわち直ちに説くことは不可能だったというのです。その理由として、釈尊は人々の欲望や性格がそれぞれ異なっていたので、真実の成仏の法へ導くための方便として、種々の法を説いてきたことを明らかにしています。.釈尊が法華経を説く以前に四十余年にわたって説いてきたのは、いずれも真実の成仏の法ではなかったというのです。従って、種々の法によって得道したといっても、せいぜい声聞(しようもん)・縁覚(えんがく)の境界に留まっていたことになります。声聞・縁覚とは他者に成仏の保証(仏教では記別(きべつ)という)を期待する心にほかなりません。釈尊は自分が悟った法を、どのように説いたのでしょうか。日蓮は『開目抄』の中で、五重の相対という宗教批判の原理を展開しています。
 五重の相対は、①内外(ないげ)相対(そうたい)②大小相対③権実(ごんじつ)相対④本迹(ほんじやく)相対⑤種脱(しゆだつ)相対――の五つから成っています。これは釈尊一代の説法を浅いものからより深いものへと段階的に分類したものです。それは一人の人間の五回にわたる価値観の転換、人格形成・成長の過程ととらえることもできます。
 ①内外相対とは、外道を捨てて内道(仏教)を選ぶことをいいます。外道とは自己の身体の外にあるもの(道具・組織・法律・制度・肩書)を使って、他者に対する支配・影響力を拡大しようとする価値観です。これに対して仏教の価値観は、〈自己〉の生命の内に等身大の人間として生きる道を開こうとします。釈尊は外道の価値観の中に、人間同士の友情と連帯を引き裂く悪を見抜き、外道を捨てて内道を選ぶことを説いたのです。
 ②大小相対とは、小乗経を捨てて大乗経を選ぶことをいいます。小乗経はあらゆる欲望を否定することによって、自己の解脱をめざす価値観です。これに対して大乗経の価値観は、自己を犠牲にすることによって仏道の成就をめざそうとします。釈尊は小乗経を修行する人々の心に自分だけの解脱(げだつ)を求める利己心が膨らむのを見抜き、小乗経を捨てて大乗経を選ぶことを説いたのです。
 ③権実相対とは、生命の部分観を説いた権大乗経を捨てて、生命の全体観に立つ法華経を選ぶことをいいます。権大乗経は仏界を自分の外(他者)に見て、幻想の未来に成仏を求める価値観です。これに対して法華経は、一人ひとりの民衆の生命の内に仏界が厳然として存在することを初めて明らかにしています。釈尊は権大乗経を修行する人々の心に、成仏の幻想(他者に成仏の記別を求める)が芽生えるのを見抜き、権大乗経を捨てて法華経を選ぶことを説いたのです。
  ④本迹相対とは、法華経迹門を捨てて法華経本門を選ぶことをいいます。法華経迹門は一切衆生に成仏の可能性があることを説いた理の法門です。これに対して法華経本門は釈尊自身の色心不二なる体験を通して、九界即仏界、仏界即九界、すなわち一切の衆生(生命)に仏界が備わっていることを明らかにしています。
 ⑤種脱相対とは、釈尊(天台大師・伝教大師)の文上脱益(だつちやく)・理の法門を捨てて、日蓮の文底下種(げしゆ)の法門(文底独一本門)を選ぶことをいいます。これは天台大師(中国天台宗の事実上の開祖、五三八~五九七)が『法華文句』の中で説いている種熟脱(しゆじゆくだつ)の三益(さんやく)を、日蓮が独自の視点で展開したものです。法華経を文上で理解するだけでは、釈尊が成道するために修行した根源の一法、すなわち妙法を悟ることはできません。
 日蓮は『百六箇抄』の中で、「仏は本因妙と本と為(な)し、所化は本果妙を本と思えり」と説いています。本因妙とは生命の根源の法、すなわち法華経文底に秘められた妙法であり、本果妙とは文上色相荘厳(しきそうそうごん)の釈尊を意味します。つまり釈尊は妙法のみが成仏の本因であることを悟っていたが、釈尊の弟子たちは釈尊の立派な姿や言動を成仏の本因と錯覚していたというのです。日蓮は釈尊の真意を洞察して、法華経寿量品の文底から妙法を掘り起こし、それを人間・宇宙・生命の曼陀羅として顕したのです
 釈尊はどのように自分が悟った法を展開していったのか。日蓮が確立した.「五重の相対」という宗教批判の原理は、その理由と過程を示しているのです。日蓮はこのほかに、「宗教の五義(ごぎ)」「四重(しじゆう)の興廃(こうはい)」「随自意(ずいじい)と随他意(ずいたい)」「三証」(さんしよう)「総別の二義」など多くの宗教批判の原理を確立しています。これらの宗教批判の原理に照らすとき、日蓮が顕現した妙法の曼荼羅こそ、あらゆる思想・哲学・宗教の根源、さらには森羅万象の根源であることが明らかになります。 

   第二章 釈尊は何を悟ったのか(2010.4.24)

  菩提樹の木陰で足を組み、瞑想を続けることによって、悉達多は何を思索し何を悟ったのでしょうか。悉達多は瞑想の最中に輝く明けの明星を見て、究極の法理を悟ったといわれています。この〈明けの明星〉も悟りを象徴する一つの〈譬喩〉といえるでしょう。このとき、悉達多は三十歳になっていました。悉達多は何を悟ったのでしょうか。悉達多は八万法蔵といわれる一代聖教の極説(ごくせつ)、すなわち法華経の真髄を悟ったのです。悉達多、すなわち釈尊が悟った法華経の真髄とは何なのでしょうか。それは森羅万象が織りなす人間・宇宙・生命のマンダラにほかなりません。心理学者のユング(一八七五~一九六一)は、マンダラとは記号と記号、図と図、絵と絵、映像と映像が互いに照らし合い、響き合うことによって無限の意味と力を生み出す生命空間である、と語っています。この〈記号・図・絵・映像〉という言葉を、森羅万象と読み替えれば仏教の視点が開かれます。
 言葉の意味を一つずつ分かりやすく解釈(文上(もんじよう)の解読)しながら法華経を読んでいくと、その真髄について具体的に説明している個所はどこにも見当たりません。ただ、その真髄、すなわち妙法蓮華経と名づける法(妙法)は、仏道を極めるための最も優れた唯一の法であると讃歎しているだけなのです。
  その法華経の文底を開いて、そこに秘められた極理(ごくり)を把握し、仏教への新しい視点を確立したのは道元と日蓮でした。日蓮が確立した視点は、文底独一(もんていどくいち)法門と呼ばれています。文底とは文の底に秘められていることを意味します。それはさらに、森羅万象の奥底につながります。日蓮が晩年に著した『百六箇抄(ひやくろつかしよう)』の末尾には、「又、立つ浪、吹く風、万物に就いて本迹(ほんじやく)を分け、勝劣を弁ず可(べ)きなり」という文が記されています。波が立つのは風が吹くからである。では風が吹くのはなぜか。このように物(もの)から事(こと)へと森羅万象の連関を幾重にも探っていくと、そこに窮極の法(妙法)が浮かび上がってくるというのです。それは森羅万象の連関が描き出す人間・宇宙・生命のマンダラにほかなりません。 法華経はこの窮極の法を、方便品第二の核となる諸法実相(しよほうじつそう)の法理と寿量品第十六の核となる久遠実成(くおんじつじよう)の法理に凝縮しています。
 第一に諸法実相とは、諸法がそのまま実相となり、実相がそのまま諸法となるという法理です。その文底を開くと、「諸法」は森羅万象の色法(しきほう)、「実相」は森羅万象の心法(しんぽう)となります。色法とは物(もの)的視点でとらえた変化、心法とは事(こと)的視点でとらえた変化といえるでしょう。諸法実相という言葉は、森羅万象は常に色心不二(しきしんふに)であることを示しています。色心不二とは、色法と心法は常に一体であって切り離すことはできないということです。色心不二はさらに時空不二、すなわち時間と空間が一体であることを示しています。
 日本の文化の中で育った私たちは、時間とは〈過去〉から〈現在〉、〈未来〉へと進むもの、あるいは〈未来〉から〈現在〉に近づき、〈過去〉へ過ぎ去るものと思い込んでいます。しかし〈未来〉も〈現在〉も〈過去〉も情報(心法)だけで、その実態(色法)はどこにもありません。〈過去・現在・未来〉は、前後に並んで存在しているでしょうか。個人の過去、地球の過去、宇宙の過去は直列的に〈並んで〉存在しているのでしょうか。
 存在するものはすべて、〈未来〉や〈現在〉や〈過去〉ではなく〈今、ここに〉開かれているのです。〈諸法実相=色心不二〉という言葉は、〈空間軸〉からとらえた人間・宇宙・生命の真実を告げています。道元は次のように〈譬喩〉を説いています。

《釈迦牟尼仏言(のたまはく)、唯(た)だ仏と仏と、乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽したまえり。所謂(いわゆる)諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。》
 いはゆる如是道の本末究竟等は、諸法実相の自道取なり、闍梨自道取なり。一等の参学なり、参学は一等なるがゆゑに。
 唯仏与仏は諸法実相なり、諸法実相は唯仏与仏なり。唯仏は実相なり、与仏は諸法なり。諸法の道を聞取して、一と参じ、多と参ずべからず。実相の道を聞取して、虚にあらずと学し、性にあらずと学すべからず。実は唯仏なり、相は与仏なり。乃能は唯仏なり、究尽は与仏なり。諸法は唯仏なり、実相は与仏なり。諸法のまさに諸法なるを唯仏と称す、諸法のいまし実相なるを与仏と称す。(『正法眼蔵』「諸法実相」)

  道元は妙法蓮華経方便品の一節を取り上げて、その文底の意義を説いているのです。ここには〈諸法実相〉を説く〈仏〉がそのまま〈諸法実相〉であり、説かれる〈諸法実相〉がそのまま〈仏〉であるという法理が説かれています。〈説く者=能動〉と〈説かれるもの=受動〉が一体不二であるという法理。これは〈因果倶時=能動即受動〉という仏法の基盤となる法理の一つとなっています。〈言葉〉で物事を語るとき、私たちは主体と客体、主体と属性を分離して説明します。〈言葉〉は混沌を分節して、そこに意味を生み出す機能を果たしているのです。そこに万華鏡のように千変万化する多彩な世界が現出します。
 しかし〈言葉=思考〉の機能は、〈両義的=多義的〉なのです。〈人間〉は自分に都合のよいものを〈善〉、自分に都合のよくないものと〈悪〉と見なします。それが現実なのです。それは〈人間〉の生きる場に歪みももたらします。道元の「諸仏の道を一と参じ、多と参ずべからず。実相の道を、虚にあらずと学し、性にあらずと学すべからず」という〈言葉〉は、そのような歪みに対する警告、戒めなのです。「実相は与仏なり。諸法のまさに諸法なるを唯仏と称す」と言う〈言葉〉は、〈善悪不二=肯定即否定〉の法理を示しています。道元は、一切の価値判断を放棄して森羅万象を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことを説いているのです。
 次に久遠実成とは、釈尊が〈五百塵点劫〉という久遠の過去に法華経の極理を悟っていたということです。久遠実成の文底を開けば、久遠即末法となります。久遠即末法とは、久遠(過去)がそのまま〈末法〉すなわち、〈今、ここに〉であることを意味します。〈過去〉の久遠は心法だけ、つまり唯心であり、色心不二ではありません。〈未来〉もまた唯心の情報としてしか〈存在〉しないのです。色心不二なる存在はすべて〈今、ここに〉開かれています。〈久遠実成〉という言葉は、釈尊の色心は常に、〈今、ここに〉成道していることを告げているのです。この〈今、ここに〉とは、釈尊と同じ瞑想の中で妙法のマンダラと一体化する私たち一人ひとりの色心にほかなりません。方便品の諸法実相と寿量品の久遠実成は、その文底に同じ窮極の法理、すなわち〈妙法の曼荼羅〉を秘めているのです。日蓮は次のように〈譬喩〉を説いています。

第二十三久遠の事 御義口伝に云く、此の品の所詮は久遠実成なり。久遠とははたらかさず、つくろわず、もとの儘と云う義なり。無作(むさ)の三身(さんじん)なれば初めて成ぜず、是れ働かざるなり。三十二相八十種好を具足せず、是れ繕わざるなり。本有常住の仏なれば本(もと)の儘なり。是を久遠と云うなり。久遠とは南無妙法蓮華経なり。実(まことに)成(ひらけたり)、無作と開けたるなり云云。(『御義口伝下』寿量品二十七箇の大事)

  妙法蓮華経寿量品の肝心は、〈久遠実成〉の文底に秘められています。それは久遠即末法なる〈時空〉、すなわち〈いま、ここに〉に成道する〈釈尊〉とは何か、ということにほかなりません。〈無作の三身〉とは、宇宙本有、すなわち始まりも終わりもない、〈いま、ここに〉一瞬一瞬、現成している〈存在〉を意味します。〈久遠〉と言えば〈久遠〉がすべてであり、〈実成〉と言えば〈実成〉がすべてであり、〈無作〉と言えば、〈無作〉がすべてであり、いずれも同じ〈実存〉の別名にほかなりません。ここにも、〈いま、ここに〉一切の存在(森羅万象)を〈在りのまま〉に〈見つめる〉釈尊の心が説かれているのです。それは、一切の価値観を超克して〈在りのまま〉に〈妙法の曼荼羅〉を〈見つめる〉心にほかなりません。
 

  第一章 釈尊はどのように修行したのか(2010.4.19)

 釈尊は西暦前五世紀ごろ、迦毘羅衛国(かぴらえこく)の浄飯王(じようぼんんのう)とその妃(きさき)・摩耶夫人(まやぶにん)の嫡男として生まれ、悉達多(しつだるた)と名付けられました。悉達多がどのように育てられたかについてはいくつかの異説がありますが、具体的な資料は残されておらず、すべて神話化され一般概念化された伝説が含まれています。一説によると、悉達多の生母・摩耶夫人は悉達多の生後七日にして亡くなり、悉達多は叔母の摩訶波闍波提(まかはじやはだい)に育てられたといわれています。悉達多を育てた摩訶波闍波提(はだい)は浄飯王の第二妃だったという説もあります。
  悉達多は隣国の王女・耶輸陀羅女(やしゆたらによ)を妃に迎え、嫡男・羅睺羅(らごら)が生まれます。悉達多は眉目秀麗で文武両道に優れていました。浄飯王は自分の王位を継ぐ者として、その将来を期待していたのです。しかし、その期待は裏切られることになります。悉達多は多くの優れた素質を備えていましたが、それは決して超能力と呼ばれるようなものではありません。太子、すなわち王位の継承者という恵まれた境遇でしたが、あくまでも一人の人間として、私たちと同じように日常生活の中で、さまざまな喜怒哀楽を体験していたのです。
 悉達多が出家する動機として、四門遊観(しもんゆうかん)という故事が伝えられています。それは悉達多が宮殿の東西南北にある四つの門から街に遊びに出たとき、四苦(生・老・病・死)に苦しむ人々の姿を目の辺りにして出家を決意したという故事です。そのような悉達多の行動をすべて見ていた人物がいたのでしょうか。そんなことは考えられません。いずれにせよ悉達多が出家を決意したのは、人間が必ず直面する生老病死という問題の答えを得るためだったのです。この故事はそのことを人々に分かりやすく伝えるための〈譬喩〉、すなわち例え話(仮説=方便〉にほかなりません。
  悉達多は十九歳のとき、出家したといわれています。太子という身分も妻子も捨てた悉達多は、九十五派に分かれていたバラモン教(外道)の修行僧たちを次々と訪れ、その教義を学び厳しい修行(難行や苦行)を続けます。釈尊の出家と修行の年代については、いくつかの異説がありますが、さまざまな教義を学び尽くし、厳しい修行を重ねても、生老病死という生命・人生の根源的な謎は深まるばかりでした。
  難行・苦行を積み重ねて心身ともに衰え、やせ細った悉達多は、このような修行を続けても、生命・人生に秘められた根源的な謎を解くことはできないと思いました。悉達多は森の泉の辺りで、乳搾りの女が差し出す牛乳を飲んで飢えを癒します。そして、それまでの身心を痛めつける修行をやめ、菩提樹の木陰で足を組み(結跏趺坐(けつかふざ)・半跏趺坐(はんかふざ))、瞑想を始めたのです。この瞑想の中で悉達多は、森の香り、大地の感触、風の音、太陽の光を感じ、自分の身心に備わる感覚と森羅万象が一体となるのを感じていました。

 はじめに(2010.4.20)

 日本の仏教は平安時代(七九四~一一九一)の末期から鎌倉時代(一一九二~一三三四)にかけて、大きな転換期を迎えています。比叡山延暦寺で学んだ法然(一一三三~一二一二)は、権力欲と世俗欲に犯され惰性化した天台宗の教義に民衆の苦しみを救う力がないことを実感し、ひたすら南無阿弥陀仏と唱える浄土宗を広めました。法然の弟子・親鸞(一一七三~一二六二)は師が広めた専修念仏の教義を引き継いでいます。親鸞は聖徳太子を尊崇していました。聖徳太子は日本に導入された仏教を独自の視点から解釈し、「三経義疏」すなわち『法華経義疏(ぎしよ)』『勝鬘経(しようまんきよう)義疏』『唯摩経(ゆいまきよう)義疏』という三つの仏教注釈書を著しています。その仏教の教義を根本に、聖徳太子は十七条の憲法を定め、日本の国是の基本を固めたのです。親鸞は聖徳太子を慕い、法華経の視点から念仏の教義をとらえ直しています。親鸞は浄土真宗の開祖です。
 その時代に、法華経を根本にして森羅万象の根源に迫る新しい仏教の視点を開いたのは道元(一二〇〇~一二五三)と日蓮(一二二二~一二八二)でした。道元と日蓮も当時の天台宗の教義に民衆の力を救う力がないことを実感しています。道元は天台宗からの執拗な迫害の中で『正法眼蔵』を著し、法華経に秘められた人間・宇宙・生命の如是実相(によぜじつそう)(在りのままの真実)を説いています。日蓮もまた、鎌倉幕府と宗教的権力者との結託による数々の迫害、二度にわたる流罪(伊豆と佐渡)という厳しい状況を乗り越えて、その晩年には『御義口伝(おんぎくでん)』『百六箇抄(かしよう)』『御(お)講聞書(こうききがき)』『本因妙抄(ほんいんみようしよう)』を著して法華経に秘められた文底(もんてい)の意義を明らかにしたのです。さらに日蓮は、法華経文底秘沈(ひちん)の妙法、すなわち法華経の二処三会(にしよさんえ)(前霊山会(ぜんりようぜんえ)・虚空会(こくうえ)・後霊山会(ごりようぜんえ))で展開される物(もの)的視点と事(こと)的視点の転換と葛藤が自在に描き出す人間・宇宙・生命のマンダラを、事(じ)の一念三千の曼陀羅として顕しています。この曼陀羅の相貌(そうみよう)について、日蓮は次のように述べています。

 凡(およ)そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王(ぼんのう)・帝釈等(たいしやく)の仏性と舎利弗(しやりほつ)・目連(もくれん)等の仏性と文(もん)殊(じゆ)・弥勒(みろく)等の仏性と三世の諸仏の解の(さとり )妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり。故に一度妙法蓮華経と唱うれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔(えんま)・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経と喚びよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり。譬えば籠の中の鳥なけば空飛ぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我らを守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。されば「若し暫くも持(たも)つ者は我則ち(すなわ)歓喜す。諸仏も亦然(またしか)なり」と説き給ふは此の心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐(ほんかい)・一切衆生・皆成仏道(かいじようぶつどう)の妙法と云うは是(これ)なり。是等の趣きを能(よ)く能く心得て、仏になる道には我慢偏執(がまんへんしゆう)の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。(『法華初心成仏抄』)

  ここには事の一念三千の曼陀羅の相貌と法理、功徳が明確に示されています。一切衆生の仏性と三世の諸仏が悟った妙法は一体不二であり、その法理を南無妙法蓮華経と名づけたのです。従って妙法蓮華経の曼陀羅を本尊として尊崇することは、そのまま己心の妙法(妙法蓮華経)を尊崇することにほかなりません。その功徳は、籠の中の鳥(己心中の仏性)が鳴くと空を飛ぶ鳥が集まり、空を飛ぶ鳥が集まると籠の中の鳥も飛び立つのに譬えることができます。口に妙法を唱えれば己心の仏性が顕れ、諸天の仏性も守護してくれます。そして仏菩薩の仏性は歓喜するのです。法華経宝塔品第十一の「もし少しでも持つ心があれば、釈尊も諸仏も歓喜する」という文は、この功徳を証明しています。この曼陀羅こそ三世の諸仏の本懐であり、すべての衆生に成仏の道を開く妙法にほかなりません。このことをよく心得て、我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱えることが大切なのです。
 また道元が説いた『正法眼蔵』の「正法」とは法華経であり、「眼」は真髄、「蔵」は隠す・秘めるを意味します。つまり『正法眼蔵』とは法華経に秘蔵された教えであり、日蓮が曼陀羅として顕した法華経文底秘沈の妙法と通底しているのです。『正法眼蔵』の中の次の文を見れば、道元が正法眼蔵、すなわち妙法(法華経の真髄)を仏教の根本に位置づけていたことが分かります。

 法華経は諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり、大師なり。餘経(よきよう)・餘法(よほう)は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属なり。法華経中の所説はこれまことなり、餘経中の所説みな方便を帯せり、ほとけの本意にあらず。餘経中の説をきたして法華に比校(ひこう)したてまつらん、これ逆なるべし。法華の功徳力をかうぶらざれば餘経あるべからず、餘経はみな法華に帰投したてまつらんことをまつなり。(「帰依仏法僧」)

 諸仏がこの世に出現する目的は法華経を説くことにあります。法華経は釈尊一代の説法の中で最も優れているのです。従って法華経以外の諸経は法華経の臣民、眷属となります。法華経以外の諸経はすべて方便を帯しており、仏の真意を説いていないのです。そのような諸経を基準にして法華経を論ずるのは本末転倒にほかなりません。諸経はすべて法華経という大地から生まれたのです。法華経を根本にしなければ、諸経の心を知ることはできません。この文を『正法眼蔵』という表題と照らし合わせるとき、道元の心が浮かび上がってきます。道元は法華経の真髄である妙法を根本としていたのです。
 鎌倉時代に法華経を根本として新しい仏教の視点を開いた道元と日蓮。この二人が開いた仏道の跡をたどって、インドの釈尊が説いた仏教の真実に迫ってみたいと思います。

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変容への供犠

仏教

         変容への供犠

                         小幡照雄

さむ空にふるえる梢
大地と虚空が一つになって
〈私〉に何かを語りかけてくる

輝く海の水平線
億劫の時の彼方から
ふるさとがよみがえる

遙かに遠く身近な存在
〈私〉は大地に身をほどこし
大地は〈私〉をはぐくむ

    宇宙の願い

  宇宙は常に壮大なドラマを展開している。大地は植物に身を施し、植物は動物に身を施し、植物も動物も大地に身を施している。トポロジー的な発想をすれば、植物は動物の胃袋の延長が裏返しになって大地に突き刺さり、そこから栄養分を吸い上げていることになろう。その植物の根は大地から虚空へ、さらに太陽系から全宇宙へと広がっている。宇宙内の存在はすべて、互いにわが身を施しあっているのだ。まさに、宇宙を舞台に壮大な供犠の儀式が展開されているのである。仏法はそれを縁起ととらえる。この供犠の儀式によって、森羅万象は変容する。これを言葉で表現すれば、色心不二・依正不二・自他不二・生死不二・久遠即末法ということになろう。宇宙が開示する生命の謎を解こうとして、人間は科学や物理を研究し、言語学やマンダラの原理、カオスや複雑系の理論を追究している。このような宇宙・生命の姿を、法華経はどのようにとらえているのだろうか。法華経如来神力品(じんりきぼん)第二十一の舞台は次のように開幕する。

爾(そ)の時に、千世界微塵等(みじんとう)の菩薩摩訶薩(まかさつ)、地より涌出せる者、皆仏前(ぶつぜん)に於いて一心に合掌し、尊顔(そんげん)を瞻仰(せんごう)して仏に白(もう)して言(もう)さく。
 世尊、我等仏の滅後、世尊分身所在(ふんじんしょざい)の国土、滅度の処(ところ)に於いて、当(まさ)に広く此の経を説くべし。所以(ゆえん)は何(いか)ん。我等も亦(また)自ら是の真浄の大法を得て、受持読誦(じゅじどくじゅ)し、して、之を供 養せんと欲す。
爾の時に世尊、文殊師利(もんじゅしり)等の、無量百千万億の旧住(くじゅう)娑婆(しゃば)世界の菩薩摩訶薩、及び諸(もろもろ)の比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩?羅(まごら)迦(が)、人(にん)非人(ぴにん)等の、一切の衆(しゅ)の前に於いて、大神力を現じたもう。広長舌を出(いだ)して、上梵世(かみぼんせ)に至らしめ、一切の毛孔(もうく)より、無量無数色(むしゅしき)の光を放って皆悉くあまね(あまね)く十方世界を照らしたもう。衆(もろもろ)の宝樹下(ほうじゅげ)の、師子座上の諸仏も、亦是(またかく)の如く、広長舌を出(いだ)し無量の光を放ちたもう。釈迦牟尼仏、及び宝樹下の諸仏、神力を現じたもう時、百千歳(ざい)を満たす。然(しか)して後に還って舌相(ぜっそう)を摂(おさ)めて一時に謦がい(きょうがい)し、倶共(とも)に弾指(だんし)したもう。是(こ)の二つの音声(おんじょう)、あまね(あまね)く十方の諸仏世界に至って、六種に震動す。其の中の衆生、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩?羅(まごら)迦(が)、人(にん)非人(ぴにん)等、仏の神力を以っての故に、皆此の娑婆世界、無量無辺百千万億の衆(しゅ)の宝樹下の、師子座上の諸仏を見、及び釈迦牟尼仏、多宝如来と共に宝塔の中に在(ましま)して、師子の座に坐したまえるを見たてまつり、又、無量無辺百千万億の菩薩摩訶薩、及び諸(もろもろ)の四衆の、釈迦牟尼仏を恭敬(きょうけい)し囲繞(いにょう
)したてまつるを見る。

  この経文から、日蓮は次のように文底の法門を展開している。

第二出広長舌(すいこうちょうぜつ)の事 御義口伝に云く、広とは迹門、長とは本門、舌とは中道法性なり。十法界妙法の功徳なれば広と云うなり。竪に高ければ長と云うなり。広とは三千塵点より已来の妙法、長とは五百塵点已来の妙法、おなじく広長舌なり云云。(『御義口伝巻下』神力品八箇の大事)

  これは、経文に「広長舌を出(いだ)して、上梵世(かみぼんせ)に至らしめ、一切の毛孔(もうく)より、無量無数色(むしゅしき)の光を放って皆悉く?(あまね)く十方世界を照らしたもう」とある部分の御義口伝である。「広」とは法華経迹門の化城喩品に説かれている三千塵点劫(仮諦)であり、五識、六識に対応する。「長」とは法華経本門の寿量品に説かれている五百塵点劫(空諦)であり、七識、八識に対応する。「舌」とは中道法性(中諦)である。「広長舌」とは空・仮・中の三諦、すなわち妙法(九識)を表している。日蓮は「広長舌」の文底に、妙法と境智冥合して友情と連帯の世界を拡大する主体的な民衆の生命・人生を見ているのである。

第三十方世界(じっぽうせかい) 師子座上の(ししざじょう)事 御義義口伝に云く、十方とは十界なり。此の下に於て草木成仏分明(ふんみょう)なり。師子とは師は師匠、子は弟子なり。座上とは寂光土(じゃっこうど)なり。十界即本有(ほんぬ)の寂光たる国土なり云云。(『御義口伝巻下』神力品八箇の大事)

  神力品には「衆(もろもろ)の宝樹下(ほうじゅげ)の、師子座上の諸仏も、亦是(またかく)の如く、広長舌を出(いだ)し無量の光を放ちたもう」とある。「十方」は色法・依報、「十界」は心法・正報である。正報は主体、依報は環境を意味する。「十方とは十界なり」とは色心不二・依正不二を表す。久遠の師と末法の弟子を一体ととらえるとき、師も弟子も己心に収まり、久遠即末法の始源の時(生命の場)が見えてくる。「座上」とは妙法と境智冥合する自己の生きる場である。

第五地皆六種震動(じかいろくしゅしんどう)其中衆生(ごちゅうしゅじょう)◯衆宝樹下(しゅほうじゅげ)の事  御義口伝に云く、地とは国土世間なり。其中衆生は衆生世間なり。衆宝樹下とは五陰世間なり。一念三千分明(ふんみょう)なり云云。(『御義口伝巻下』神力品八箇の大事)

  これは、「是(こ)の二つの音声(おんじょう)、?(あまね)く十方の諸仏世界に至って、六種に震動す。其の中の衆生、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩?羅迦(まごらが)、人(にん)非人(ぴにん)等、仏の神力を以っての故に、皆此の娑婆世界、無量無辺百千万億の衆(しゅ)の宝樹下の、師子座上の諸仏を見、及び釈迦牟尼仏、多宝如来と共に宝塔の中に在(ましま)して、師子の座に坐したまえるを見たてまつり」というところの御義口伝である。日蓮は「地皆六種震動(じかいろくしゅしんどう)其中衆生(ごちゅうしゅじょう)◯衆宝(しゅほう)樹下(じゅげ)」の文底に、十界互具・千如是・三千世間、すなわち妙法を読み取っているのだ。「是の二つの音声(おんじょう)、あまね(あまね)く十方の諸仏世界に至って、六種に震動す」の「二つの音声」は色心の二法。「あまね(あまね)く十方の諸仏世界に至って、六種に震動す」とは、この色心の二法が妙法に照らされて、宇宙・森羅万象・地球・国・組織・地域・身体に変化をもたらすことをいう。さらに神力品は次のように続いている。

既に是(こ)れを見已(おわ)って、皆大いに歓喜して未曾有(みぞう)なることを得(う)。即時(そくじ)に諸天、虚空の中に於いて、高声(こうしょう)に唱えて言(い)わく、此の無量無辺百千万億阿僧祇(あそうぎ)の世界を過ぎて国有り、娑婆(しゃば)と名づく。是(こ)の中に仏有(いま)す。釈迦牟尼と名づけたてまつる。今諸(もろもろ)の菩薩摩訶薩の為に、大乗経の妙法蓮華、教菩薩 法、仏所護念(ぶっしょごねん)と名づくるを説きたもう。汝等(なんだち)当(まさ)に、深心(じんしん)に随喜すべし、亦当(またまさ)に、釈迦牟 尼仏を礼拝し供養すべし。彼の諸(もろもろ)の衆生、虚空の中の声を聞き已(おわ)って、合掌して娑婆世界に向かって、是(かく)の如き言(ことば)を作(な)さく、南無釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、南無釈迦牟尼仏と。種種(しゅじゅ)の華香(けこう)、瓔珞(ようらく)、旛蓋(ばんがい)、及び諸(もろもろ)の厳身(ごんしん)の具、珍宝、妙物(みょうもつ)を以って、皆供(とも)に遙かに娑婆世界に散ず。所散の諸物(しょもつ)、十方より来ること、譬えば雲の集るが如し。変じて宝帳と成って、あまね(あまね)く此の間の諸仏の上に覆う。時に十方世界通達無礙(つうだつむげ)にして一仏土の如し。

第六娑婆是中有仏名釈迦牟尼仏(しゃばぜちゅううぶつみょうしゃかむにぶつ)の事  御義口伝に云く、本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱(だいにんにく)の力を以て弘通するを娑婆と云うなり。忍辱は寂光土なり。此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり。娑婆とは堪忍(かんにん)世界と云うなり云云。(『御義口伝巻下』神力品八箇の大事)

 「此の無量無辺百千万億阿僧祇(あそうぎ)の世界を過ぎて国有り、娑婆(しゃば)と名づく。是の中に仏有(いま)す。釈迦牟尼と名づけたてまつる」とある部分の御義口伝である。「本化」とは自己の内なる菩薩の働きである。「弘通」とは妙法蓮華経の生命の波動をいう。「大忍辱」とは、あらゆる出会いに感謝し、歓喜する心である。「堪忍世界」とは、自己の生命・人生に感謝と喜びを見いだすことにほかならない。「種種(しゅじゅ)の華香(けこう)、瓔珞(ようらく)、旛蓋(ばんがい)、及び諸(もろもろ)の厳身(ごんしん)の具、珍宝、妙物(みょうもつ)を以って、皆供(とも)に遙かに娑婆世界に散ず。所散の諸物(しょもつ)、十方より来ること、譬えば雲の集るが如し。変じて宝帳(ほうちょう)と成って、?(あまね)く此の間の諸仏の上に覆う。時に十方世界通達無礙(つうだつむげ)にして一仏土の如し」という経文から、宇宙の森羅万象が互いに色心を施し合い、支え合うイメージが浮かんでくる。
 文明社会は本来、人間同士が過酷な自然の桎梏から逃れるために、互いに施し合い支え合うことを基本に発展してきたはずである。しかし、人間がつくる集団や社会は常に両義性をはらんでいた。文明を支えているのは、個人の論理と集団の論理の調和である。仏法が説く中道はそこに目を向ける。中道とは出来合いの道の真ん中を選ぶことではない。人間が最も人間らしく友情と連帯をもって豊かに生きる道に中(それ)ることを中道という。それは文明の進歩の中ではびこった茨の中に見失われた生命の道を取り戻すための方法的原理にほかならない。
 文明の進歩の中で物質的富の追求に目覚めた人間は、集団から種族へ種族から国家へと発展する過程で、事(こと)的な生命の連帯を見失ってしまった。そして、自己の物質的富を拡大するために他者の富を奪う暴力の世界が出現したのである。アフリカ、アラブ、ヨーロッパ、中国、南米、日本をはじめ世界の歴史は戦争と暴力に彩られている。人間が今なお繰り返している戦争と侵略は、文明の両義性を照らし出す。企業リーダーたちの価値観も戦争と侵略の論理につながっている。官庁や企業リーダーたちの不祥事が次々と暴露され、国会でも不正を追及している議員本人が、より大きな不正を犯していたことが追及されている。
 私たちは、このような状況を根本的に打開する方途を見失い、自分勝手な正義を振りかざし、互いに裁き合っているのだ。建前の正義の権威主義化と裁きの論理が、人間の世界を覆いつくすのを放置してはならない。仏法という古代の叡智は今から二千数百年も前に、その根本的な解決法を説いていた。しかも、仏教の最高峰と言われる法華経は、私たち一人ひとりの価値観の転換と生命の文化革命を求めているのだ。私たちは、そこに秘められた生命のメッセージを読み取り、現代に展開しなければならない。それが釈尊の志を継ぎ、仏法を実践することなのである。

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個人と社会

仏教

         個人と社会

            小幡照雄

   色心不二論・依正不二論

  人間は社会的動物といわれている。人間は集団の中でしか生きられない動物なのだろうか。人間は言語を用いて情報を交換する。言語の発生と発達は集団生活を前提としている。人間以外にも群をつくる動物の種類は数多い。昆虫や鳥、野生動物や家畜の中には、鳴き声や吠え声で情報を伝え合うものもいる。しかし、その伝達機能は極めて限定されている。ソシュールが考察したように、集団生活の中でランガージュ(言語使用機能)を進化させ、ラング(個別の国語体)やパロール(一回性の音声言語)を発展させた生物は、地球上には人間以外に存在しないのである。
  人間は言葉を使いながら、どのようにして個人と社会との関係を発展させてきたのだろうか。個人と社会のかかわり様は、各時代、各社会(民族や部族の文化)における複雑な関係性が生み出す事(こと)的世界にほかならない。文化人類学の研究でも、物(もの)的世界像は理解しやすいが、事的世界像を洞察するのは難しい。外部の人間が一つの社会の制度やしきたりを、その形態だけで把握できるだろうか。まず、不可能かもしれない。少し長い引用になるが、文化人類学者の岩田慶治氏は次のように語っている。

 私がパ・タン村にいたとき、日常生活のための用語はすぐ覚えた。
「今日は、いい天気ですね。すこし風がありますか」。「今日はどういう仕事をしますか」。「行商ですか。何を運んでいくんです」。「え、塩。何族の村へ行くんですか」。「これから、あなたの家を訪問したいのですが、家にいますか」。「あなた、歳はいくつです」。「家族は何人です」。
 といった具合に、相手と対面関係を保ちながら、日常生活、つまり衣・食・住のそれぞれの側面を尋ねる。その程度の会話は、それほど困難ではなかった。辞書などなかったが、何とか文章をつくることができた。
 しかし、社会と文化のなかに隠れていて、普段は眼に見えない領域、人間関係を支える網目状の組織や価値感にかかわるもの、自分で立会ったことのない祭りや宗教儀礼について尋ねるのは容易ではなかった。本家・分家に代表されるような家の系譜関係をしらべるにしても、そういう関係が組織化されているかどうかわからない場合には、どういう語彙をさがし出して尋ねたらよいのか困った。そのとき、一番薬だったのは、木の枝を折ってきて、そのれとのアナロジーにこと寄せて尋ねることであった。宗教儀礼などの場合は、刈入れの終った田を歩きまわって、収穫儀礼のときに使ったワラ人形の遺物や、竹造りの呪標などを拾ってきて、それらの部品をくみたてて、略図で補いながら尋ねるのがよかった。(『道元の見た宇宙』第二章 道元の言葉)

  岩田慶治氏は自分の体験を通して、事的世界像を把握したり、伝えるためには譬喩を用いなければならないことを実感しているのだ。しかし、仏教寺院で仏像の前に坐っている僧が一体何を考えているのか、村と村人の生活と仏教がどのようにかかわったらよいと思っているのか、まったく見当がつかず、僧から話を聞くことを断念してしまったのだという。ここには、言葉によって事的世界像をどこまで把握し、伝えることができるのか、という問題が提起されている。
  人間にとって、個人と社会の問題は永遠の課題のように思える。人間の歴史は個人と社会の葛藤の記録と言ってもいいだろう。今日においても、社会問題や経済問題は常に、個人と社会との関係をどうするかという問題に直面している。挫折した社会主義イデオロギーも、その原点は個人と社会との調和という人道的な問題提起にあった。一部の人間が富を増やすために行う選択が多くの人々を悲惨な生活に追い込む。この社会的矛盾をどうやって解決するのか。マルクスが提起した問題は、いまだに解決されていないのである。仏法は、この問題をどのようにとらえているのだろうか。法華経随喜功徳品第十八には、次のように五十展転(てんでん)の功徳が説かれている。

仏、弥勒(みろく)に告げたまわく、
我今分明(ふんみょう)に汝に語る。是(こ)の人、一切の楽具(らくぐ)を以って、四百万億阿僧祇(あそうぎ)の世界の、六趣(ろくしゅ)の衆生に施し、又、阿羅漢果(あらかんが)を得せしめん。所得の功徳は、是(こ)の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如(し)かじ。百分、千分、百千万億分にして、其の一にも及ばじ。乃至算数(さんじゅ)譬喩も知ること能(あた)わざる所なり。阿逸多(あいった)、是(かく)の如く第五十の人の展転(てんでん)して、法華経を聞いて随喜(ずいき)せん功徳、尚(なお)無量無辺阿僧祇(あそうぎ)なり。何(いか)に況(いわん)や、最初会中(えちゅう)に於いて、聞いて随喜せん者をや。其の福復勝(またすぐ)れたること、無量無辺阿僧祇(あそうぎ)にして、比ぶること得(う)べからず。
又阿逸多(あいった)、若(も)し人、是の経の為の故に、僧坊に往詣(おうけい)して、若(も)しは坐し、若(も)しは立ち、須臾(しゅゆ)も聴受(ちょうじゅ)せん。是(こ)の功徳に縁(よ)って、身を転じて生れん所には、好(よ)き上妙(じょうみょう)の象馬(ぞうめ)、車乗(しゃじょう)、珍宝の輦輿(れんよ)を得(え)、及び天宮(てんぐ)に乗ぜん。若(も)し復(また)人有って講法(こうぼう)の処に於いて坐せん。更に人の来る事有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分(わか)って坐せしめん。是(こ)の人の功徳は、身を転じて帝釈(たいしゃく)の坐処(ざしょ)、若しは梵天(ぼんてん)王の坐処(ざしょ)、若しは天輪聖王(てんりんじょうおう)の所坐(しょざ)の処(ところ)を得ん。

  これは「五十の人の展転(てんでん)して、法華経を聞いて随喜(ずいき)せん功徳」の素晴らしさが説かれているところで、「五十展転の功徳」と呼ばれる。この随喜功徳品の題号について、日蓮は次のように文底の法門を展開している。

第一妙法蓮華経随喜功徳(みょうほうれんげきょうずいきくどく)の事 御義口伝に云く、随(ずい)とは事理(じり)に随順するを云うなり。喜(き)とは自他共に喜ぶ事なり。事とは五百塵点の事顕本(じけんぽん)に随順するなり。理とは理顕本に随うなり。所詮(しょせん)寿量品の内証に随順するを随とは云うなり。然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり。所詮今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり。然(しか)る間、随とは法に約し、喜とは人に約するなり。人とは五百塵点の古仏たる釈尊、法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり。是(これ)に随い喜ぶを随喜とは云うなり。惣(そう)じて随とは信の異名(いみょう)なり云云。唯(ただ)信心の事を随と云うなり。されば二巻には「此の経に随順す、己(おの)が智分(ちぶん)に非ず」と説かれたり云云。(『御義口伝巻下』随喜品二箇の大事)

  「寿量品の内証」とは、妙法に境智冥合(きょうちみょうごう)する当体蓮華としての主体的な民衆一人ひとりの生命である。「自他共に智慧と慈悲と有る」とは、妙法に命(もと)づく対話の波動にほかならない。「随」は不変真如の理に帰する一面、「順」は随縁(ずいえん)真如の智に命(もと)づく一面である。「功徳」とは自他不二の世界に開く随縁不変・一念寂照の生命の場である。この随喜品には、人に法華を勧めて聴かしむる功徳を「口の気(いき)臭穢(しゅえ)無くして、優鉢華(うばっけ)の香(か)、常に其の口より出(い)でん」と説かれている。この文について、日蓮は次のように文底の意味を開示する。

第二口気(くけ)無臭穢(むしゅえ) 優鉢華之香(うばっけしこう) 常従其口出(じょうじゅうごくしゅつ)の事  御義口伝に云く、口気(くけ)とは題目なり、無臭穢(むしゅえ)とは弥陀(みだ)等の権教方便無得道(ごんきょうほうべんむとくどう)の教を交(まじ)えざるなり。優鉢華之香(うばっけしこう)とは法華経なり。末法の今は題目なり。方便品に如優曇鉢華(にょうどんばっけ)の事を一念三千と云えり。之を案ずべし。常とは三世常住なり。其口(ごく)とは法華の行者の口なり。出とは南無妙法蓮華経なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉るは常従其口出なり云云。(『御義口伝巻下』随喜品二箇の大事)

  「無得道の教を交えざる」とは、相対的な価値観を権威にして自他を裁かないことである。正義の権威主義化・制度化こそ、人間の世界を破壊する元凶にほかならない。「法華経」は生命の本地、題目は生命の波動である。「三世常住」とは久遠即末法、「口」は不変真如の理に帰する一面(色法)、「出」は随縁真如の智に命づく一面(心法)、「常従其口出」は随縁不変・一念寂照(色心不二)の妙法、すなわち我本行菩薩道の実践である。
  自己と他者、個人と社会の理想的な関係は、人々が生命の真実(妙法)について語り合い、伝え合うところに開かれる。法華経随喜功徳品の「五十展転の功徳」とは、そこに開く友情と連帯の世界にほかならない。法華経は時代と文化の違いを超えて、私たちに生命のメッセージを伝えているのである。法華経の功徳はすべて、友愛の波動であり、「五十展転の功徳」なのである。それを読み解く方法的原理は、日蓮の『御義口伝』『百六箇抄』『本因妙抄』から学び取ることができる。文底の方法的原理に照らすとき、道元の次の文はどのように読み取れるだろうか。

 釈迦牟尼仏、大衆(だいしゅ)に告げて言(いわ)く、若(も)し諸相と非相とを見るは、即ち如来を見るなり。いまの見(けん)諸相と見非相と、透脱(とうだつ)せる体達(たいだつ)なり。ゆえに見如来なり。(『正法眼蔵』第五十六「見仏」)

  ここで道元が引用しているのは金剛般若(こんごうはんにゃ)経の文である。この文は法華経方便品の諸法実相の文と通底している。「諸相」とは森羅万象の変化相、つまり色法(生=モノ的世界)である。「非相」とはその変化相と相即する心法(死=コト的世界)である。「諸相と非相」は諸法実相、すなわち色心不二を表している。「透脱せる体達」の「透脱」は久遠、「体達」は末法である。「透脱せる体達」とは久遠即末法にほかならない。道元もまた、法華経の哲理を自分の譬喩で語っていることが見えてくる。過去も未来も唯心であり、言葉が映す幻に過ぎない。森羅万象は色心不二の存在として、いま、ここに、如々として現成しているのだ。それを仏とも、妙法とも名づける。森羅万象は千変万化する個々の現象に見えるが、コト的視点でとらえれば、宇宙全体を貫いて一つとなる。仏法は法華経を中心に、人間の友情と連帯の世界を拡大する論理と実践を説いているのだ。道元の次の言葉も同じ哲理を示す譬喩にほかならない。

 諸仏の道現成(どうげんじょう)、これ仏教なり。これ仏祖の仏祖のためにするゆゑえに、教の教のために正伝するなり。これ転法輪なり。この法輪の眼晴裏(がんぜいり)に、諸仏祖を現成せしめ、諸仏祖を般涅槃せしむ。その諸仏祖、かならず一塵の出現あり、尽界の涅槃あり。一須臾(しゅゆ)の出現あり、多劫海(たこうかい)の出現あり。(『正法眼蔵』第三十四「仏教」)
                                                                           
 「これ仏祖の仏祖のためにするゆゑに、教の教のために正伝するなり。これ転法輪なり」という言葉は、法華経随喜功徳品の五十展転の功徳につながっている。「法輪」は森羅万象の色法、「眼晴裏」は心法である。また「一塵の出現」「尽界の出現」は森羅万象の個々および全体の色法、「一塵の涅槃」「尽界の涅槃」はその心法を表す。「一須臾」は末法、「多劫海」は久遠に通じる。この道元の言葉も、色心不二・久遠即末法の仏、すなわち妙法を示している。

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時間とは何か

仏教
       時間とは何か

          小幡照雄

   色心不二と久遠即末法

  人間にとって時間とは何なのだろうか。時間について論じた文献はたくさんある。人それぞれに時間について違ったイメージを抱いているようだ。時間の概念は民族や種族の生活文化と密接に結びついている。私たち日本人は時間を、前方の未来から近づき、後方の過去へ遠ざかる空間のようにイメージしたり、人間という存在を時間という川の流れに漂う笹舟のように見る傾向が強い。それとは反対に、過去は見える前方から近づき、未来は見えない後法へ遠のくと考えている種族もあるという。
 日蓮は法華経の諸法実相(方便品第二)と久遠実成(寿量品第十六)の文底から色心不二・久遠即末法の哲理を読み取った。諸法実相の諸法は森羅万象、実相はモノとコトが相即していることを表す。モノ的視点(文上)でとらえれば、森羅万象は個々ばらばらに見えるが、コトとしての森羅万象は全体で一つなのである。これを色心不二という。過去と未来は唯心であり、色法と心法が相即している色心不二なる存在は、いま、ここに開かれている。これを久遠即末法という。成仏とは他者性の仏から記別を受けることではなく、主体的な民衆一人ひとりの色心不二なる生命の場に仏を開くことにほかならない。主体的な民衆一人ひとりが、いま、ここで、我本行菩薩道を決意し、実践する以外に仏道修行はあり得ないのである。我本行菩薩道とは、生命の真実を悟って歓喜する心から発露する慈悲の振る舞いをいう。
  日蓮が説く仏道修行は、まず最初に色心不二・久遠即末法という生命の真実に目覚めることが原点となる。その上で、仏法は時間を多角的に考察しているのである。仏法には正像末(正法・像法・末法)の三時が説かれている。法華経文上では、弟子たちに対する成仏の記別に当たって、必ず、正像末という説法の時が明かされる。この正像末について日蓮は次のように述べている。

 仏出世したもうて必ず法華経を説かんと欲するに、縦(たと)い機有れども時無きが故に四十余年には此の経を説きたまわず。故に教に云く「説時未だ至らざるが故なり」等と云云。仏の滅後の次の日より正法一千年は、持戒の者は多く破戒の者は少なし。正法一千年の次の日より像法一千年は、破戒の者は多く、無戒の者は少なし。像法一千年の次の日より末法一万年は、破戒の者は少なく、無戒の者は多し。正法には破戒・無戒の者を捨てて持戒の者を供養すべし。像法には無戒を捨てて破戒の者を供養すべし。末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし。但し法華経を謗ぜん者をば、正像末の三時にわたりて持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず。供養せば必ず国に三災七難起こり、供養せし者も必ず無間大城(むげんだいじょう)に堕すべきなり。(『教機時国抄』)

 「正法一千年は、持戒の者は多く、破戒の者は少なし」とは、小乗教を修行することを縁にして、やがて妙法に目覚める者が多いという意味である。小乗教には根源の一法は説かれていない。釈尊自身もまた、外道の修行を縁にして妙法に目覚めたのである。「像法一千年は、破戒の者は多く、無戒の者は少なし」とは、小乗教を捨てて大乗教を修行することを縁にして、妙法を悟る者は多いという意味である。大乗教にはまだ、根源の一法は説かれていない。「末法一万年は、破戒の者は少なく、無戒の者は多し」とは、末法の民衆は文上の法門を捨てて、直達正観(じきたつしょうかん)の文底独一本門(色心不二・久遠即末法の妙法)を修行することによって、生命の法に目覚めることを示している。法華経文上には根源の一法は明かされていない。法華経には過去・現在・未来の無量の諸仏に、それぞれ正像末という三つの説時があることが説かれている。この正像末という原理にも、文上と文底があることが分かる。森羅万象は色心不二・久遠即末法の妙法に納まっている。この正像末という原理もまた、色心不二・久遠即末法の、いま、ここに、開かれているととらえなければならない。
  法華経で説く三時とは、民衆の現実の生活の場からとら直すと、T(時機)P(場所)O(状況)を意味することが見えてくる。どのような教法を活用すべきかは、TPOに応じて変えなければならないのである。三世の諸仏には必ず、正像末という説時が備わっているという。妙法を根底にしながら、時機と場所、状況に応じて何を話すかは変えなければならない。実際に、私たちはそのようにして生活しているのである。我本行菩薩道の実践といっても、それを日常生活の表面に現すことはできない。それはあくまでも他者からは見えない、また自分がこれだと意識することもできない内証の決意と実践なのである。妙法は譬喩でしか示唆することはできない。その譬喩を語る一つ一つの言葉を分析すれば、譬喩が示唆する真実から遠ざかることになる。例えば、法華経寿量品文上には、次のように久遠五百塵点劫成道の時が明かされている。

我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫(なゆたこう)なり。譬えば、五百千万億那由佗(なゆた)阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)の三千大千世界を、仮使(たとい)人有って、抹(まっ)して微塵と為して、東方五百千万億那由佗(なゆた)阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)の国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下し、是(かく)の如く東に行きて是(こ)の微塵を尽くさんが如き、(中略)是の諸(もろもろ)の世界の、若(も)しは微塵を著(お)き、及び著(お)かざる者を尽(ことご)く以って塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来(このかた)、復此(またこれ)に過ぎたること百千万億那由佗(なゆた)阿僧祇(あそうぎ)劫(こう)なり。是れより来(このかた)、我常に此の娑婆(しゃば)世界に在って説法教化す。

  この経文の「是(かく)の如く東に行きて」という葉にとらわれて分析すると、おかしなことになる。東という方角は地球上で決められた方位であり、緯度が異なるごとに東という方向は違ってくる。さらに厳密にいえば、地球は球形で自転しているのだから東という方角は一人ひとり違うことになるのだ。しかも、太陽系を離れれば、東西南北の方位は全く無意味になる。つまり法華経の譬喩は譬喩のまま、それが示唆するイメージ(事≡こと)を読み取る以外にない。日蓮はこの法華経の文底に、色心不二・久遠即末法という、いま、ここに、脈動する生命の真実を読み取り、それを妙法ととらえ、曼陀羅として顕わしたのである。道元もまた、『正法眼蔵』の中で、日蓮と同じ哲理をさまざまな譬喩で語っている。例えば、道元は次のように言う。

 諸仏の大道、その究尽(くじん)するところ透脱(とうだつ)なり、現成(げんじょう)なり。その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。(『正法眼蔵』第二十二「全機」)

 「諸仏の大道」とは法華経寿量品第十六の久遠実成・我本行菩薩道にほかならない。「現成」の「現」は末法、「成」は久遠を表す。「現成」とは、釈尊が久遠五百塵点劫の昔に悟った仏の法を末法に開くことを意味する。これは久遠即末法の哲理と重なっている。「透脱」の「透」は心法、「脱」は色法であり、「透脱」は色心不二を表している。「生も生を透脱し、死も死を透脱する」は生死不二・色心不二につながる。このようにとらえるとき、「諸仏の大道」とは、日蓮が寿量品の文底に読み取った妙法であることが見えてくる。法華経で成仏の記別を受けた声聞の弟子たちと同様に、道元は法華経の哲理を自分の譬喩で語っているのだ。道元の次の言葉も同じように読み取れる。

 「いはゆる有時(ゆうじ)は、時すでに有(ゆう)なり、有はみな時なり。丈六金身(じょうろくこんじん)これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明(しょうごんこうみょう)あり」(『正法眼蔵』第二十「有時」)

 「有時(ゆうじ)」の「有」は色法を表し、「時」は心法を表す。「丈六金身(じょうろくこんじん)これ時なり」の「丈六金身」は色法、「これ時なり」は心法である。「荘厳光明(しょうごんこうみょう)」の「荘厳」は色法、「光明」は心法である。「有時」の二字は、法華経寿量品の文底に秘められた色心不二・久遠即末法の哲理(妙法)を示している。
 私たちが譬喩を語る場合、譬喩の一つ一つの言葉を吟味し、分析するわけではない。直観的にイメージの重なる部分を選び取り、それを譬喩として使っているのだ。仏法の譬喩は譬喩ですら伝え切れないものを示唆している。つまり譬喩を手がかりにして、譬え切れないものを観照する姿勢が問われているのである。譬喩自体を実体化して分析すれば、歴劫修行の陥穽に陥る。『正法眼蔵』を読み説くには、文底の方法的原理を用いなければならない。そうすれば、道元が法華経に秘められた哲理を自分の譬喩で語っていることが見えてくる。

   十八界が開く時空     

  仏法が説く時とは、十八界が開く時空(場)と読むことができる。十八界とは森羅万象が六根・六境・六識から成り立つことをいう。六根(眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い))は六境(色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう))に縁して六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)を生ずる。これは仏法が説く唯識的・縁起的な世界観である。妙法に目覚めるとき六根清浄(ろっこんしょうじょう)の時(世界)が開かれ、妙法に違背するとき魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界に閉ざされる。無慈悲な心で呼びかけるとき阿鼻叫喚の世界(時)に閉ざされ、慈悲の心で呼びかけるとき友情と連帯の世界(時)が開かれるのである。法華経寿量品の自我偈には次のように説かれている。

衆生既(すで)に信伏(しんぶく)し 質直(しちじき)にして意(こころ)柔軟(にゅうなん)に
一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず
時に我(われ)及び衆僧(しゅそう)  倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出(い)ず
(中略)
是(こ)の諸(もろもろ)の罪の衆生は 悪業の因縁を以って
阿僧祇劫(あそうぎこう)を過ぐれども 三宝(さんぽう)の名(みな)を聞かず
諸(もろもろ)の有(あら)ゆる功徳を修し 柔和質直(にゅうわしちじき)なる者は
即(すなわ)ち皆我が身 此(ここ)に在って法と説くと見る

 「衆生既(すで)に信伏(しんぶく)し 質直(しちじき)にして意(こころ)柔軟(にゅうなん)に」とは、妙法に目覚めた六根清浄の生命である。「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」とは、我本行菩薩道の決意と実践にほかならない。「時に我(われ)及び衆僧(しゅぞう)  倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出(い)ず」とは、色心不二・久遠即末法の始源の時(場)が開かれることをいう。法華経に説かれる時はすべて、それぞれの生きる場で〈時=心法)を見つめる民衆の心を表している。久遠即末法の時空(場)が開かれるとき、どのような功徳が現れるのだろうか。法華経分別功徳品第十七には、次のように説かれている。

爾(そ)の時に仏、弥勒菩薩摩訶薩(みろくぼさつまかさつ)に告げたまわく、
阿逸多(あいった)、其れ衆生有って、仏の寿命の長遠(ちょうおん)是(かく)の如くなるを聞いて、乃至(ないし)能(よ)く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量(げんりょう)有ること無けん。若(も)し善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)有って、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の為の故に、八十万億那由佗劫(なゆたこう)に於いて、五波羅蜜(はらみつ)を行ぜん。檀(だん)波羅蜜、尸羅(しら)波羅蜜、孱提(せんだい)波羅蜜、毘梨耶(びりや)波羅蜜、禅(ぜん)波羅蜜なり。般若(はんにゃ)波羅蜜をば除く。是(こ)の功徳を以って、前(さき)の功徳に比ぶるに、百分、千分、百千万億分にして其の一にも及ばず、乃至(ないし)算数(さんじゅ)譬喩(ひゆ)も知ること能(あた)わざる所なり。若(も)し善男子(ぜんなんし)是(かく)の如き功徳有って、阿耨多羅三藐三菩提に於いて退すといわば、是(こ)の処(ことわり)有ること無けん。

  この経文の「阿逸多(あいった)、其れ衆生有って、仏の寿命の長遠(ちょうおん)是(かく)の如くなるを聞いて、乃至(ないし)能(よ)く一念の信解(しんげ)を生ぜば、所得の功徳限量(げんりょう)有ること無けん」という部分について、日蓮は次のように文底の法門を教示している。

第一其有衆生(ごうしゅじょう) 聞仏寿命(もんぶつじゅみょう) 長遠如是(ちょうおんにょぜ) 乃至能生(ないしのうしょう) 一念信解(いちねんしんげ) 所得功徳(しょとっくどく) 無有限量(むうげんりょう)の事 御義口伝に云く、一念信解の信の一字は一切智慧を受得(じゅとく)する所の因種(いんしゅ)なり。信の一字は名字即(みょうじそく)の位なり。仍(よ)って信の一字は最後品の無明を切る利剣なり。信の一字は寿量品の理(り)顕本(けんぽん)を信ずるなり。解(げ)とは事顕本(じけんぽん)を解するなり。此の事理の顕本を一念に信解するなり。一念とは無作本有(むさほんぬ)の一念なり。信の処に解あり、解の処に信あり。然(しか)りと雖も信を以て成仏を決定(けつじょう)するなり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者是(これ)なり。(『御義口伝巻下』分別功徳品三箇の大事)

 「寿量品の理(り)顕本(けんぽん)」とは、他者の成仏に対する認識である。「事顕本(じけんぽん)」とは自己の成仏である。「一念信解」とは妙法との境智冥合にほかならない。〈一念信解〉とは何か。その文底が常に問われているのだ。「信解する人の功徳」とは、全宇宙の宝を収めた妙法の世界への出入である。生きること自体に無量の希望(理顕本)と体験(事顕本)があふれ出る。分別功徳品にはさらに、次のような偈が説かれている。

其れ諸(もろもろ)の菩薩の 無量劫(こう)に道(どう)を行ずる有って
我が寿命を説くを聞いて 是(こ)れ則(すなわ)ち能(よ)く信受せん
是(かく)の如き諸人等 此の経典(きょうでん)を頂受して
我未来に於いて 長寿にして衆生を度せんこと
今日の世尊の  諸釈(しょしゃく)の中の王として
道場にして師子吼(ししく)し 法を説きたもうに畏(おそ)るる所無きが如く
我等も未来世に 一切に尊敬(そんぎょう)せられて
道場に坐せん時 寿(じゅ)を説くこと亦是(またかく)の如くならんと願わん

 この分別功徳品の偈について、日蓮は次のように文底の法門を開示している。

第二是則能信受(ぜそくのうしんじゅ) 如是諸人等(にょぜしょにんとう) 頂受此経典(ちょうじゅしきょうでん)の事 御義口伝に云く、法華経を頭(こうべ)に頂くと云う明文なり。「是の如き諸人等」の文は広く一切衆生に亘(わた)るなり。然(しか)らば三世十方の諸仏は妙法蓮華経を頂き受けて成仏し給う。仍(よ)って上の寿量品の題目を妙法蓮華経と題して、次に如来と題したり。秘すべし云云。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉るは此の故なり。(『御義口伝巻下』分別功徳品三箇の大事)

 「頂き受けて」の「頂き」は虚空会(こくうえ)にして心法、「受けて」は地上会(ちじょうえ)にして色法である。わが色心を妙法と頂き受ける時、わが色心即妙法の世界に生きる如来と開かれる。日蓮は法華経の各品が、いずれも森羅万象の根源の一法(妙法)を説いていることを読み取ったのである。

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学ぶ心とは何か

仏教
         学ぶ心とは何か

                         小幡照雄

   思索の歴史

  地球上に生息する動物の中で、思想や哲学、宗教に没頭できるのは人間だけだと言っていいだろう。唯物的な視点から見れば、思想や哲学は脳神経系統の相互作用にほかならない。どんな生物にも、神経系統の萌芽と思われる器官が備わっている。単細胞生物のゾウリムシも光に反応する。しかし、犬や猫などの動物が思索したり哲学したりする現象は、夏目漱石の小説『我が輩は猫である』や、宮沢賢治やミヒャエル・エンデの童話など、架空の世界でしか起こらない。そこに語られているのは、人間の論理や行動を象徴する巧みな譬喩である。やはり、思想や哲学は人間の一手販売のように思われる。
  哲学がいつ始まったのか。その起源は分からない。しかし、人間が哲学的な思索を始めたのは、集団生活の中で独自のラングによる言語共同体が形成されるようになってからであることは推測できる。なぜなら、いつの時代にも哲学は言葉で語られ、記録されてきたからだ。もちろん、哲学史に記録されることなく消え去っていった哲学的思索も、無限にあると言っていいだろう。
 哲学史はたいてい、時代の古い思想・哲学・宗教から年代順に編纂されている。しかし哲学を学ぶ人は必ずしも、年代順に学んでいるわけではない。同時代人の場合は、先に発表された哲学的命題の影響を受けて、新しい哲学的命題が生まれるということはあり得る。しかし、膨大な哲学的遺産を引き継いだ現代人が哲学を学ぶ場合は、恣意的に選んだ本や、たまたま手にした本を読んで啓発されるという場合が多い。つまり年代順とは関係なく記録されたものの一部分との出合いをきっかけにして新しい独自の思索を展開しているのだ。しかも、どんな偉大な哲学者も、西欧哲学か東洋哲学の一部、あるいはその両方の一部しか読んでいないのである。
 もちろん、自分の死後にほかの人たちが発表するものを知ることはできない。時代が進めば進むほど、哲学の相互影響力は、その哲学が生まれた年代順とは無関係になる。いま、ここで、何を選んで学ぶかによって、その哲学者の方向性が決まるのだ。哲学との出合いもまた、マンダラの原理に貫かれている。人生の探求も同じと言っていいだろう。最初から哲学の起源にさかのぼって年代順に研究し、人生の意味を探求する人などどこにもいないのである。

     十大弟子

 法華経には、釈尊の十大弟子に対する未来成仏の記別が説かれている。十大弟子とは、釈尊の声聞の弟子のうち上首十人をいう。それぞれに次のような特長を持っている。
 ①舎利弗(しゃりほつ)=智慧第一。マカダ国の王舎城(おうしゃじょう)の北に生まれる。初めは六師外道の一派に属していたが、後に釈尊の弟子となる。法華経方便品第二の諸法実相の文によって三乗即一乗の理論を理解し、譬喩品第三で華光(けこう)如来の記別を受ける。上根の声聞である。
 ②摩訶迦葉(まかかしょう)=頭陀(ずだ)第一。大迦葉、迦葉とも呼ばれる。マカダ国の王舎城に住んでいた尼倶廬陀(にくりだ)長者の息子。苦行の末、釈尊の弟子となる。乞食(こつじき)行に励んだので頭陀第一という。頭陀行とは身心を修練して、衣食住などに関する貪欲などを振り払う修行のこと。付法蔵(ふほうぞう)二十四人のうちの第一で、小乗経の布教に努めて法を阿難に付属している。法華経授記品第六で光明(こうみょう)如来の記別を受ける。中根の四大声聞の一人である。
 ③阿難陀(あなんだ)=多聞第一。阿難ともいい、歓喜(かんぎ)・無染(むぜん)と訳される。斛飯王(こくぼんんのう)の子で釈尊の従弟にあたる。釈迦に給仕して常に説法を聞いたので、多聞第一と言われる。付法蔵の第二として小乗経の弘教に努めた。法華経授学無学人記品第九で山海慧自在通王(せんがいえじざいつうおう)如来の記別を受ける。
 ④須菩提(しゆぼだい)=解空(げくう)第一。空生(くうしょう)とも呼ばれる。舎衛城のバラモン・鳩留長者の子として生まれた。釈尊の弟子となり、よく空を悟ったので解空第一と呼ばれる。中根の四大声聞の一人。法華経授記品第六で名相(みょうそう)如来の記別を受けている
 ⑤富楼那(ふるな)=説法第一。富楼那(ふるな)弥多羅尼子ともいう。バラモンの子として生まれる。初めは解脱を求めて山に入り、苦行に励んだが、釈尊の成道を聞いて弟子となった。証果(しょうか)から涅槃(ねはん)に至る九万九千人を済度し、説法第一と称されている。法華経五百弟子受記品第八で法(ほう)明(みょう)如来の記別を受けた。
 ⑥目連、摩訶目?連(まかもっけんれん)=神通第一。大目?連(だいもっけんれん)、目?連(もっけんれん)とも呼ばれる。初めは六師外道に属したが、舎利弗が釈尊の下で解脱したことを聞いて釈尊の弟子となった。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香(たまらばつせんだんこう)如来の記別を受ける。中根の四大声聞の一人。
 ⑦迦旃延(かせんねん)=論議第一。摩訶迦旃延(かせんねん)ともいう。外道をよく論破したので論議第一と称せられた。法華経授記品第六で閻浮那提金光(えんぶなだいこんこう)如来の記別を受けている。中根の四大声聞の一人
 ⑧阿那律=天眼(てんげん)第一。斛飯王(こくぼんんのう)の子で釈尊の従弟にあたる。釈迦の前で居眠りしたことを責められ、不眠の誓いを立てた。このため盲目になるが、深察禅定(じんさつぜんじょう)の修行によって天眼を得る。天眼とは五眼の一つで、衆生の未来の生死の姿を知る能力があるという。法華経五百弟子受記品第八で普明(ふみょう)如来の記別を受けている。      
 ⑨優波離(うばり)=持律第一。優婆利、憂波利とも書く。釈迦族に仕えるスードラの出身。第一回仏典結集の時、律を誦出(じゅしゅつ)している。法華経文上には優波離への成仏の授記は記されていない。          ⑩羅ご羅(らごら)=密行(みつぎょう)第一。釈尊の子。十五歳で出家し、舎利弗について修行して阿羅漢果あらかんか)を得る。よく戒を守り、修行を積み、密行第一と称された。法華経授学無学人記品第九で蹈七宝華(とうしっぽうけ)如来の記別を受ける。
 十大弟子の最後の羅ご羅(らごら)に対する成仏の記別は、次のように説かれている。羅ご羅(らごら)は出家する前の悉達太子(しったたいし)(釈尊)とその妃・耶輸陀羅女(やしょたらにょ)の間に生まれた子供である。

爾(そ)の時に仏、羅ご羅(らごら)に告げたまわく、                           
汝来世(なんじらいせ)に於いて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし。蹈七宝華)如来、応供(おうぐ)、正へん知(しょうへんち)、明行足(みょうぎょうそく)、善逝(ぜんぜい)、世間解(せけんげ)、無上士(むじょうし)、調御丈夫(じょうごじょうぶ)、天人師(てんにんし)、仏(ぶつ)、世尊(せそん)と号(な)づけん。当(まさ)に十(じっ)世界、微塵等数(みじんとうしゅ)の諸仏如来を供養すべし。常に諸仏の為に、而(しか)も長子と作(な)ること、猶(なお)今の如くならん。是の蹈七宝華、仏の国土の荘厳(しょうごん)、寿命の劫数(こうしゅ)、所化の弟子、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、亦(また)山海慧自在通王如来の如くにして、異なること無けん。亦(また)此の仏の為に、而(しか)も長子と作(な)らん。是れを過ぎて已後(いご)、当(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし。
爾(そ)の時に世尊、重ねて此の義を宣(の)べんと欲して、偈(げ)を説いて言(のたま)わく、
我(われ)太子為(た)りし時 羅ご(らご)長子と為(な)り
我今(われいま)仏道を成ずれば 法を受けて法子(ほっし)と為(な)れり
未来世の中に於いて 無量億の仏を見たてまつるに
皆其の長子と為(な)って 一心に仏道を求めん
羅ご羅(らごら)の密行は 唯我(われ)のみ能(よ)く之を知れり
現に我が長子と為(な)って 以って諸(もろもろ)の衆生に示す
無量億千万の 功徳数(かぞ)うべからず
仏法に安住して 以って無上道を求む
 
 ここには、密行第一の羅?羅(らごら)に対する記別が説かれている。密行とは誰にも知られず菩薩道を行ずることであり、民衆同士が互いに助け合う無償の行為の譬喩にほかならない。現代社会においても、組織の論理は民衆に、さまざまな報償を与えることによって、組織に仕えることを期待する。そこには現代社会の大きな陥穽が口を開いている。現代社会で最も大切なのは羅ご羅(らごら)の密行なのである。授学無学人記品の題号の「学無学」について、日蓮は次のように文底の法門を教示している。

 第一学無学(がくむがく)の事 御義口伝に云く、学とは無智(むち)なり、無学とは有智(うち)なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、学無学の人に「我が如くにして異ること無からしめん」の記を授くるに非ずや。色法は無学なり、心法は学なり。又心法は無学なり、色法は学なり。学無学の人とは日本国の一切衆生なり。智者愚者をしなべて、南無妙法蓮華経の記を説きて而強毒之(にごうどくし)するなり。(『御義口伝巻上』人記品二箇の大事)

 「学無学」は色心不二・久遠即末法を表し、「学無学の人」とは自己が出会うすべての他者を意味する。「我が如くにして異ること無からしめん」とは、他者との出会いを大切にする心である。他者性の仏を渇仰して成仏の記別を期待する錯誤を振り払い、自己の内なる仏界を開き、森羅万象に授記する心を仏と名づける。「而強毒之(にごうどくし)」とは貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒を法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳に転換する決意、すなわち我本行菩薩道の実践である。この授学無学人記品では羅?羅(らごら)の前に多聞第一の阿難(あなん)が記別を受け、山海慧自在通王如来という名号(みょうごう)を告げられている。この山海慧自在通王如来について、日蓮は次のように文底の法門を展開する。

 第二山海慧自在通王仏の事  御義口伝に云く、山(せん)とは煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なり。海(かい)とは生死即涅槃(しょうじそくねはん)なり。慧(え)とは我等が吐く所の言語(ごんご)なり。自在とは無障碍(むしょうげ)なり。通王(つうおう)とは十界互具・百界千如・一念三千なり。又云く、山とは迹門の意なり。海とは本門の意なり。慧とは妙法の五字なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、山海慧自在通王仏なり。全く外に非ざるなり。我等行者の外に之れ無きなり。阿難とは歓喜(かんぎ)なり、一念三千の開覚(かいがく)なり云云。(『御義口伝巻上』人記品二箇の大事)

 「山海慧自在通王仏」とは、森羅万象に生命のメッセージを読み取る心である。人間が最も人間らしく豊かに連帯感をもって生きていくためのメッセージを読み取るとき、生命は歓喜に満たされる。山海慧自在通王仏とは、我本行菩薩道を行ずる時、いま、ここに、開く色心不二・久遠即末法の生命の場にほかならない。経文と日蓮の文底の解釈を照らし合わせて読んでいると、「山海慧自在通王仏」とは、色心不二・久遠即末法の生命を悟って歓喜する民衆の心の譬喩であることが見えてくる。阿難とは生命の真実を覚知して、歓喜する心にほかならない。この成仏の授記について、日蓮は次のように教示している。

 第一授記(じゅき)の事  文句(もんぐ)の七に云く、「授とは是(こ)れ与(よ)の義なり」と。御義口伝に云く、記とは南無妙法蓮華経なり。授とは日本国の一切衆生なり。不信の者には授けざるなり、又之(これ)を受けざるなり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経の記を受くるなり。又云く、授記とは法界の授記なり。地獄の授記は悪因なれば悪業の授記を罪人に授くるなり。余は之(これ)に准(じゅん)じて知るべきなり。生(しょう)の記有れば必ず死す、死の記有れば又生ず、三世常恒(さんぜじょうごう)の授記なり。所詮(しょせん)中根の四大声聞とは我等が生老病死(しょうろうびょうし)の四相なり。迦葉(かしょう)は生の相、迦旃延(かせんねん)は老の相、目(もく)連(れん)は病の相、須菩提(しゅぼだい)は死の相なり。法華に来って生老病死を四大声聞と顕したり。是(こ)れ即ち八相作仏なり。諸法実相の振舞(ふるまい)なりと記を授くるなり。妙法の授記なるが故に法界の授記なり。蓮華の授記なるが故に法界清浄(しょうじょう)なり。経の授記なるが故に衆生の音声(おんじょう)は三世常(さんぜじょう)恒(ごう)の授記なり。唯(ただ)一言に授記すべき南無妙法蓮華経なり。(『御義口伝巻上』授記品四箇の大事)。

 授記とは文底の意味の解読によって織り直されるラング(文化・宿業のパラダイム)である。「生の記」は心法によって起動される色法(起=出力)であり、「死の起」は色法によって生み出される心法(滅=入力)である。常住にして永遠の起滅であり、一瞬一瞬の生死に始源の時が開く。四大声聞とは森羅万象の生住異滅の象徴にほかならない。日蓮は四大声聞に、妙法に命(もと)づく森羅万象の変化相を読み取ったのである。十大弟子のそれぞれの特長には、生きる場で選択される価値観が象徴されている。十大弟子も四大声聞もすべて、民衆一人ひとりの己心に納まる。授学無学人記品第九で弟子たちに対する記別を終えた釈尊は、法)師品(ほっしぼん)第十の冒頭で次のように宣言する。

爾(そ)の時に世尊、薬王菩薩に因(よ)せて、八万の大士(だいじ)に告げたまわく、             薬王、汝是(こ)の大衆(だいしゅ)の中の、無量の諸天、龍王、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、緊那羅(きんなら)、摩?羅伽(まどらが)、人(にん)と非人(ひにん)と、及び比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)の声聞を求める者を見るや。是(かく)の如きの等類(たぐい)、咸(ことごと)く仏前に於いて、妙法華経の一偈(げ)一句を聞いて、乃至(ないし)一念も随喜せん者には、我(われ)皆記を与え授く。当(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)べし。
仏(ほとけ)薬王に告げたまわく、
又(また)如来の滅度の後に、若(も)し人有って、妙法蓮華経の、乃至(ないし)一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には、我阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の記を与え授く。
若(も)し復(また)人有って、妙法華経の、乃至(ないし)一偈を受持(じゅじ)、読誦(どくじゅ)し、解説、書写し、此の経巻(きょうがん)に於いて、敬い見ること仏の如くして、種種(しゅじゅ)に華香(けこう)、瓔珞(ようらく)、抹香(まっこう)、塗香(ずこう)、焼香、繪蓋(ぞうがい)、幢旛(どうばん)、衣服(えぶく)、伎樂(ぎがく)を供養し、合掌恭敬(くぎょう)せん。薬王当(まさ)に知るべし。是(こ)の諸人等(しょにんら)は、已(すで)に曾(かつ)て、十万億の仏を供養し、諸仏の所(みもと)に於いて、大願(だいがん)を成就して、衆生を愍(あわれ)むが故に、此の人間に生ずるなり。
(中略)
当(まさ)に知るべし。此の人は是れ大菩薩の、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就して、衆生を哀愍(あいみん)し、願って此の間に生まれ、広く妙法華経を演(の)べ、分別するなり。何(いか)に況(いわん)や、尽くして能(よ)く受持し、種種に供養せん者をや。薬王当(まさ)に知るべし。是(こ)の人は、自ら清浄(しょうじょう)の業報(ごうほう)を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍(あわれ)むが故に悪世に生まれて、広く此の経を演(の)ぶるなり。若(も)し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能(よ)く竊(ひそ)かに一人の為にも、法華経の、乃至(ないし)一句をも説かん。当(まさ)に知るべし。是の人は則(すなわ)ち如来の使いなり。如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずるなり。何(いか)に況(いわん)や、大衆(だいしゅ)の中に於いて広く人の為に説かんをや。

  この法師品第十には、末法に法華経を説く者の願いと因縁、功徳が説かれている。法華経を説くとは、生命の真実を伝えること、すなわち我本行菩薩道の実践にほかならない。日蓮は次のように文底の法門を展開する。

 第一法師(ほっし)の事 御義口伝に云く、法とは諸法なり。師とは諸法が直ちに師と成るなり。森羅三千の諸法が直ちに師と成り弟子となるべきなり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、法師の中の大法師なり。諸法実相の開覚(かいがく)顕れて見れば、地獄の燈燃(とうねん)猛火(みょうか)乃至(ないし)仏果に至る迄(まで)、悉く具足して一念三千の法師なり。又云く、法とは題目、師とは日蓮等(ら)の類(たぐい)なり。(『御義口伝巻上』法師品十六箇の大事)

  法師品の題号についての御義口伝である。師も弟子もともに久遠の妙法を覚知する民衆(自他不二の自己)の己心に納まる。生命のメッセージを伝える働きは師、受け取る働きは弟子である。「諸法実相の開覚(かいがく)顕れて」とは諸法実相・色心不二、「悉く具足して一念三千の法師」とは久遠実成・久遠即末法である。久遠の妙法と境智冥合する生命の場に師と弟子が共鳴する。

   生きる意味

 第二成就大願(じょうじゅだいがん) 愍衆生故(みんしゅじょうこ) 生於悪世(しょうおあくせ) 広演此経(こうえんしきょう)の事 御義口伝に云く、大願とは法華弘通(ぐつう)なり。愍衆生故(みんしゅじょうこ)とは日本国の一切衆生なり。生於悪世(しょうおあくせ)の人とは日蓮等(ら)の類(たぐい)なり。広とは南閻浮提なり。此経(しきょう)とは題目なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり。(『御義口伝巻上』法師品十六箇の大事)

 「諸仏の所(みもと)に於いて、大願を成就して~衆生を愍(あわれ)むが故に悪世に生まれて、広く此の経を演(の)ぶるなり」という部分の御義口伝である。「大願」とは人間連帯の世界の実現を願う祈り、実践である。「衆生を愍(あわれ)むが故に」とは、民衆の苦しみを除き、楽しみを与える慈悲の心にほかならない。「悪世に生まれて」の「悪世」とは浄土を悪土と見る心のひずみである。「広く妙法華経を演(の)べ」の「広く」とは、主体が生きる世界の全体を表している。「題目」とは妙法に命(もと)づく生命連帯の波動である。

 第三如来所遣行如来事(にょらいしょけんぎょうにょらいじ)の事 御義口伝に云く、法華の行者は如来の使いに来れり。如来とは釈迦、如来事とは南無妙法蓮華経なり。如来とは十界三千の衆生の事なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、南無妙法連華経と唱え奉るは真実の御使なり。(『御義口伝巻上』法師品十六箇の大事)

 経文には「若(も)し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能(よ)く竊(ひそ)かに一人の為にも、法華経の、乃至(ないし)一句をも説かん。当(まさ)に知るべし。是の人は則(すなわ)ち如来の使いなり。如来の所遣(しょけん)として如来の事(じ)を行ずるなり」とある。「如来とは釈迦」とは、妙法に命(もと)づく慈悲の発露である。「如来事」とは抜苦与楽の実践にほかならない。「如来とは十界三千の衆生なり」とは自他不二の世界の全体を表す。「如来の使い」とは妙法のリズムに同調する生命の働きである。さらに、「種種(しゅじゅ)に華香(けこう)、瓔珞(ようらく)、抹香(まっこう)、塗香(ずこう)、焼香、繪蓋(ぞうがい)、幢旛(どうばん)、衣服(えぶく)、伎樂(ぎがく)を供養し、合掌恭敬(くぎょう)せん」とある部分を、文底の方法的原理に照らしてみると、次のような意味が浮かび上がってくる。それは、妙法に「種々の宝」を供養することにほかならない。「種々の宝」の「種々」とは色法である。「宝」とは心法である。わが色心を妙法に施すとき、久遠即末法の始源の時が開かれる。
 法華経法師品には、成仏の記別を受けた弟子たちの使命が説かれている。法華経迹門に展開される弟子たちへの記別と法師品に説かれる「如来の使い」として実践すべき「如来の事」に、私たちが人間として生きる意味が示唆されている。法華経はまさに、友情と連帯、自然との融和の世界を開く道を模索し、努力する人々への応援歌なのである。成仏とは無師智であり、言語道断・心行所滅の妙法を自得することだという。悟ったと思うのは凡夫の心であり、仏とは無縁なのだ。すべての仏は、いま、ここに、誰も気づかないところで成道しているのだ。いまとは、主体的な民衆一人ひとりが生きる一瞬一瞬に開く色心不二・久遠即末法の時空(場)である。民衆が他者に仏を幻想するとき、仏とは無縁の世界が現出する。

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三諦論の系譜

仏教   

                三諦論の系譜

           小幡照雄

少女の濡れた瞳の中で
ドルフィンは                        仮諦(空間の変化)
波の衣装を脱ぎ捨てる

少年の胸に抱かれ
時の鏡の中に                       空諦(時間の変化)
傾斜する海

始源の時を超えて
女神の瞳にきらめく                 中諦(時空の不変性)
紺碧の泉

   仏教の心髄

  古来、人々は心に浮かぶさまざまな思いを詩に託してきた。言葉で伝えられる思いもあれば、言葉では伝えきれない思いもある。言葉の原点は叫び声にあるという。驚きや歓喜、悲痛の思いは、意味の限定されない叫びとなって胸の奥からほとばしる。人間は目の前に展開する存在、すなわち動物、植物、大地、天空に驚異の念を抱いた。そこから人間の心は、さまざまな神を生み出した。叫ぶ思いはやがて、神に捧げる呪文となった。人間の心が生み出す神の本質は人間を支配する他者ではなく、人が体験する事(コト)にほかならない。神は事的存在の譬喩なのである。人間の備わる言葉使用能力には、混沌を分節して新しい意味を創出する存在喚起力が秘められている。六根・六境・六識の因縁生起が生み出す存在喚起力としての言葉は、やがて叙事詩や抒情詩を生み出し、さらに象徴詩へと発展する。
 釈尊の教えをまとめた仏教典は宗教書としてだけではなく、文学書としても高く評価され、時代と国境を超えて人々の心に受け継がれてきた。仏教の最高峰といわれる法華経には、人間が最も人間らしく友情と連帯の心を以て生きるための根源的な一法(妙法)が、多義的な譬喩で説かれている。釈尊自身は何も書き残していない。現代の私たちが読んでいる阿含部など上座部の教典はすべて、釈尊滅後に弟子たちが何回かにわたって結集したものである。
 八万法蔵といわれる膨大な経文の中には、釈尊滅後に学僧が書いた偽経も紛れ込んでいる。偽経であることが確認されたものもある。釈尊が自分の言葉で説いたのは阿含経などの小乗教典だけで、権大乗経や法華経は釈尊が説いたものではないと主張する学者もいる。しかし、仏教は森羅万象の心性を説いており、言い換えれば森羅万象がそのまま仏教なのである。法華経や権大乗教は、釈尊の教えを受け継いだ人々の慈悲の心から生まれた生命の象徴詩にほかならない。
 いずれにせよ、仏教典に記された言葉の一つ一つが釈尊の心の結晶であり、仏教なのである。仏教の心髄はインドの竜樹菩薩や天神菩薩、中国の天台大師や妙楽大師、日本の伝教大師や日蓮によって今日に伝えられてきた。これらの仏教僧たちは、仏教典の言葉を鸚鵡返しに唱えているわけではない。いずれも教典の文上からは見えない新しい意味を、教典の文底から掘り起こしているのである。日蓮は釈尊の一代聖教を法華経と爾前経に分けて、次のように位置づけている。

 阿難尊者の結集(けつじゅう)する経にては一処(しょ)は純別・一処は純円に書き、別円を一字に含する義をば法華にて書けり。法華にして爾前の経の意(こころ)を知らしむるなり。若し爾(しか)らば一代聖教は反覆すと雖も法華経無くんば一字も諸経の意を知るべからざるなり。又法華経を読誦する行者も此の意を知らずんば法華経を読むにては有る可からず。爾前の経は深経なればと云つて浅経の意をば顕さず、又浅経なればと云つて又深意を含まざるにも非ず。法華経の意は一一の文字は皆爾前の意を顕し、法華経の意をも顕す。故に一字を読めば一切経を読むなり。一字を読まざるは一切経を読まざるなり。若(も)し爾(しか)らば法華経無き国には諸経有りと雖も得道は難かる可し。滅後に一切経を読む可き様は華厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕し、観経にも必ず法華経を列ねて其の意を顕すべし。諸経も又以て此(かく)の如し。而るに月支の末の論師及び震旦(しんたん)の人師此の意を弁えず、一経を講して各我得たりと謂(おも)い、又超過諸経の謂いを成せるは、曾(かえっ)て一経の意を得ざるのみに非ず、謗法の罪に堕するか。(『二乗作仏事』)

 仏教はさまざまな角度から、宇宙・生命の根源の一法を説いている。その根源の一法が法華経に説かれていることを把握し、その法を理の一念三千として理論的に体系化したのは中国の天台大師である。日蓮はさらに深く法華経の文底を読み取り、天台の理の一念三千の法門を事の一念三千の法門へと展開し、妙法の曼陀羅として具現化している。天台大師は生命の真実を把握する視点として三諦論を展開している。阿難尊者が結集した経とは、法華経以前に説かれた爾前権経である。爾前の諸経には別教と円教の理が別々に説かれ、法華経には別教と円教の理を支える根本的な哲理が説かれている。ここでいう別教とは爾前権経全体を意味する。爾前の諸経では三諦が別々に説かれ(これを隔歴不融の三諦という)、円経では三諦が総体的に説かれている(これを円融の三諦という)。真実の円融三諦を説いたのは、一代聖教の中で法華経のみである。その三諦の本源は法華経の文底に秘められた妙法である。従って法華経の真髄、すなわち妙法を悟らなければ、一代聖教をいくら読み返しても、その心を把握することはできない。日蓮は法華経の文底から、宇宙・生命の根源の一法をくみ上げ、それを南無妙法蓮華経(妙法)と位置づけたのである。

  「若(も)し爾(しか)らば法華経無き国には諸経有りと雖も得道は難かる可し」とは、妙法を見失うとき、その国の平和と民衆の幸せは根底から崩れ去ってしまうという厳しい戒めの言葉である。法華経は依正不二(えしょうふに)の法理を説く。依正(えしょう)の依は依報(えほう)、正は正報(しょうほう)を意味する。依報は環境、正報は主体である。主体と環境が一体不二であることを依正不二という。華厳経(華厳宗の依経)も観経(念仏宗の依経)も法華経を根本としなければ、その真実の意義を把握することはできない。政治、経済、学問、技術をはじめ、あらゆる人間の営みを支えているのは、妙法という生命の大地なのである。妙法を見失うとき、権力者や指導者の心は謗法に染められる。依正不二の法理からすれば、得道、すなわち仏法の心髄を悟ることは、友情と連帯の世界につながるはずである。
 釈尊が悟った妙法は言語道断・心行所滅の法といわれている。言語道断とは言葉の道を断つ、つまり言葉で表現したり、伝えることができないことをいう。心行所滅とは心の行の滅するところ、つまり思索によって把握することも、体系化することもできないことを意味する。言葉や思索は、妙法という宇宙・生命の〈根源〉の力用(りきゆう)(力と働き)に外ならない。妙法は能生(のうしょう)(根源)であり、言葉や思索は所生(しょしょう)(現象)である。能生である妙法を所生である言葉や思索でつなぎ止めることはできない。頭脳という働きを生み出す根源を、根源から生まれる現象の一つである頭脳で把握することは不可能なのである。では宇宙・生命の根源の一法を把握する方法的原理はあるのか。それは曼陀羅以外にない。東洋思想を研究したユングによれば、マンダラとは言葉や文字、記号、絵、立像が互いに響き合い照らし合うことによって、無限の意味と力を生み出す生命空間なのだという。
 中国の天台大師は、法華経迹門方便品第二の十如実相の文を論拠として理の一念三千の法門を確立し、さらに三諦論を展開している。あらゆる事象に空諦、仮諦、中諦の三つの側面をとらえ、それを分析と統合の両面から理論化したのが三諦論である。古来、人々はさまざまな文化の中で生命の真実を模索してきた。仏法が説く三諦論はその方法的原理の一つにほかならない。
  法華経序品の冒頭で、教主釈尊は無量義、教菩薩法、仏所護念と名づける大乗経を説き、それを聞いた九界の衆生が歓喜する場面が展開される。それに続いて、経文には「爾(そ)の時に仏、眉間(みけん)白毫相(びゃくごうそう)の光を放ちて、東方(とうぼう)万八千の世界を照らしたもうに、周徧(しゅへん)せざること靡(な)し。下(しも)、阿(あ)鼻(び)地獄(じごく)に至り、上(かみ)、阿迦尼咜天(かみあかにだてん)に至る」とある。この文について、日蓮は天台の三諦論をさらに掘り下げ、次のように文底の意義を明らかにしている。

  第五下至阿鼻地獄(げしあびじごく)の事 御義口伝に云く、十界皆成(じっかいかいじょう)の文なり。提婆(だいば)が成仏此の文にて分明(ふんみょう)なり。宝塔品の次に提婆が成仏を説く事は二箇(にか)の諫暁(かんぎょう)の分なり。提婆は此の文の時成仏せり。此の至の字は白毫(びゃくごう)の行く事なり。白毫の光明は南無妙法蓮華経なり。上至(じょうし)阿迦(あか)尼咜(にだ)天(てん)は空諦、下至(げし)阿鼻(あび)地獄(じごく)は仮諦(けたい)、白毫の光は中道なり。之に依って十界同時の成仏なり。天王仏(てんのうぶつ)とは宝号を送るまでなり。去(さ)て依正(えしょう)二報(にほう)の成仏の時は、此の品の下至阿鼻地獄の文は依報の成仏を説き、提婆達多(だった)の天王如来は正報の成仏を説く。依報正報共に妙法の成仏なり。今日蓮等(ら)の類(たぐい)、聖霊(しょうりょう)を訪(とぶら)う時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、題目の光無間(むげん)に至りて即身成仏せしむ。廻向(えこう)の文此れより事起るなり。法華不信の人は堕在(だざい)無間なれども、題目の光を以て孝子法華の行者として訪(とぶら)わんに豈(あに)此の義に替わるべしや。されば下至阿鼻地獄の文は、仏、光を放ちて提婆を成仏せしめんが為なりと日蓮推知し奉るなり。(『御義口伝巻上』序品七箇の大事)

  「下阿鼻地獄(しもあびじごく)に至り、上、阿迦尼咜天(かみあかにだてん)に至る」とは、「十界皆成」すなわち十界の衆生すべてが成仏することを表している。天台大師はこれを「理の一念三千」として体系化したのである。生命には地獄、餓鬼、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という十界の働きが備わっている。十界に十界が互具して百界となり、百界に十如是が備わって千如是となる。千如是に三世間が備わって三千世間へと開かれる。天台仏教では、この一念三千を悟るために修行することを観念観法という。これは象法時代の観心であり、末法に修行しても効果はない。日蓮は「事の一念三千」の曼陀羅を本尊として顕し、この本尊を受持することが末法の観心となることを明らかにした。これが受持即観心である。
  「二箇の諫暁」とは、法華経提婆品における二大法門のことで、一つは釈尊の弘経と提婆の成仏、もう一つは文殊の流通と竜女の作仏をいう。提婆の成仏は煩悩即菩提の現証となり、竜女の成仏は女人成仏の現証となる。さらに、日蓮は法華経序品の「上至(じょうし)阿迦(あか)尼咜(にだ)天(てん)」「下至(げし)阿鼻(あび)地獄(じごく)」「白毫の光」という三つの語句を空仮中の三諦に配し、さらに「白毫の光明」を円融三諦の南無妙法蓮華経としている。前の三つは生命の部分観、「白毫の光明」は生命の全体観となる。

    三諦論と西欧哲学

 プラトンは次のようにイデア論を展開している。イデアは時空を超えた非物質的な永遠の存在であり、真実在(オン・トースオン)とも呼ばれる。プラトンによれば、イデアは感覚的知覚(ドクサ)の対象ではなく、理性的認識(エピステメ)の対象であり、感覚的世界の個物はイデアを原形とするその模像であって、イデアを分有しているという。このイデア論は仏法の三諦論と共通する部分がある。イデアは中諦に、感覚的世界は仮諦に、理性的認識は空諦に対応する。プラトンの弟子・アリストテレスはプラトンの〈イデアとしての存在〉に対抗するものとして〈エネルゲイアとしての存在〉という概念を提起した。〈イデアとしての存在〉は心法、〈エネルゲイアとしての存在〉は色法に対応しており、心法と色法は二而不二であって、そこに仏法の三諦論と共通する視点がある。
  ハイデガーはプラトンのイデア論を批判的に読み替えている。ハイデガーの「本質存在」と「事実存在」という概念は、仏法が説く心法と色法を分析的にとらえたものと見ることができよう。ハイデガーの『存在と時間』は、そのテーマ自体が三諦論を示唆している。ハイデガーのいう「存在」「現存在」「世界内存在」は、仏法の三諦論に通底する論理構造を持つ。ハイデガーのいう「存在」は中諦に、「存在者」は仮諦に、「世界内存在」は空諦に対応する。ハイデガーの『存在と時間』は未完に終わっているが、釈尊が悟った宇宙・生命の極裡、すなわち妙法を模索していたことが読み取れよう。しかし、仏法が円融三諦の当体、色心不二・久遠即末法の哲理を把握しているのに対して、ハンデガーの場合は「存在」「現存在」「世界内存在」の三つを分析的・対立的にとらえるにとどまっている。ハイデガーは次のように論じている。

 作品は芸術家の根源であるが、それとは別の仕方で芸術家が作品の根源であるのは必然的である。それと同様に芸術が、さらに別の仕方で、芸術家と作品とにとって同時に根源であるのは確かである。(ハイデッガー著『芸術作品の根源』、関口浩=訳、平凡社、八-九ページ)。

 このハイデッガーの提言を仏法の三諦論に対応させると、「芸術家の根源」は空諦、「作品の根源」は仮諦、「芸術」は中諦と通底していることが見えてくる。仏法の三諦論は、西欧哲学を読み説く方法的原理としても有効なのである。次の文章にも同じ視点がのぞいている。

 命題の構造が物の構造を構想するための尺度を与えるのでもなく、また物の構造が命題の構造において単純に鏡像化されるのでもない。両者、すなわち命題の構造と物の構造とは、それらの特質と、それらの可能な相互関係とにおいて、共通の、いっそう根源的な源泉に由来するのである。(同前、二一ページ)」

 この文章の「命題の構造」を空諦、「物の構造」を仮諦、「共通の、いっそう根源的な源泉」を中諦ととらえれば、存在の構造性が浮き彫りになる。ハイデッガーは存在の根源に三諦を模索していたのである。仏法の視点は、「命題の構造」「物の構造」「共通の、一層の根源的な構造」の、それぞれに三諦をとらえる。                  (七・一)
 ハイデガーの発想には、神と人間を対立的にとらえるキリスト教的論理がのぞいている。神と人、精神と物質を分離するハイデガーの二元論的な視点は、色心不二・久遠即末法という哲理、すなわち存在の根源への接近を阻む壁となっている。ハイデガーの視点は爾前権教の二乗の視点、つまり隔歴不融の三諦にとどまっているのである。ハイデガーは爾前権経の二乗と同様に、歴劫修行の壁を乗り越えることができなかった。歴劫修行とは言葉で理想を体系化しようとする形而上学的な願望の譬喩にほかならない。仏法は森羅万象を色心不二ととらえ、ハイデガーは森羅万象を本質存在(心法)と事実存在(色法)に分離している。仏法の視点は従果向因、ハイデガーの視点は従因至果となる。ハイデガーは結果として曼陀羅に象徴される超越的実在(妙法)の前に、言葉の壁を積み重ねるしかなかったのである。日蓮の文底の方法的原理に照らすとき、西欧哲学の系譜はプラトンのイデア論からハイデッガーの存在論に至るまで三諦論に通底する思想の展開を読み取ることができる。
 キリスト教もまた、仏法の三諦論と通底する思想を展開している。三諦を仏法僧の三宝に配すれば、仏は空諦、法は中諦、僧は仮諦となる。キリスト教には三位一体論がある。それはアウグスチヌスが提唱した神・聖霊・子の三位一体論である。三諦論の視点から見ると、キリスト教の神は中諦(仏)、聖霊は空諦(法)に、子は仮諦(僧)に対応していることが分かる。三位一体論は仏法の三宝の原理と通底しているのである。ハイデガーの次の命題にも、三諦論に通底する視点が除いている。
 
 注がれたものを注ぎ贈るという贈与は、それが大地と天空、神的なものたちと死すべきものたちを滞留させる限りにおいて、注ぎ贈るという贈与である。[…]注がれたものを注ぎ贈るという贈与は、[大地と天空、神的なものたちと死すべきものたちという]四者の四方域の一様性[=一葉性]を滞留させる。かくして、注ぎ贈るという贈与において、壺は壺として本質現成する[本質的に存在する]。注ぎ贈るという贈与は、注ぎ贈ることに必要不可欠なこと――[液体を取り入れ、保持するという]二重に液体を容れること、液体を容れるもの[=器の底と器壁]、空洞、捧げることとしての注ぎ出すこと――を集める。[…]このように多様にして一様に[多葉にして一葉に]集めることこそ、壺が本質現成する[本質的に存在する]あり方である。(Heidegger, VA, S. 166)〉(斧谷彌守一著『言葉の二十世紀』、ちくま学芸文庫)

 この命題の「大地」を色法、「天空」を心法と読み替え、「神的なものたちと死すべきものたち」の「心的なものたち」を空諦、「死すべきものたち」を仮諦と読み替えると、法華経文底の色心不二論、円融三諦論と通底するものが見えてくる。「二重に液体を容れること」とは空諦、「液体を容れるもの」とは仮諦、「多様にして一様にあつめること」とは中諦である。「四者の四方域の一様性[=一葉性]」を滞留させる」とき、存在は円融三諦へと開かれる。これを存在の本質現成という。「四者の四方域の一様性」とは、森羅万象を色心不二・円融三諦と把握することである。ハイデガーは壺という存在の原理をこのようにとらえているのだ。
 但し、法華経文底とハイデッガーの視点には根本的な違いがある。ハイデッガーは爾前権経の従因至果の視点にとらわれ、法華経文底は従果向因へと視点を転換する。従因至果の視点には歴劫修行の陥穽がひそんでいる。歴劫修行とは生命の真実を秘めた扉の前で永遠に足踏みを続けることの譬喩にほかならない。世界を分析・抽象しながら、その断片の中に自己を閉じこめようとしているのである。

 作品は芸術家の根源であるが、それとは別の仕方で芸術家が作品の根源であるのは必然的である。それと同様に芸術が、さらに別の仕方で、芸術家と作品とにとって同時に根源であるのは確かである。(ハイデッガー著『芸術作品の根源』、関口浩=訳、平凡社、八-九ページ)。

  このハイデガーの提言を仏法の三諦論と対応させると、「芸術家の根源」は空諦、「作品の根源」は仮諦、「芸術」は中諦と通底していることが見えてくる。仏法の三諦論は、西欧哲学を読み説く方法的原理としても有効なのである。次の文章にも同じ視点がのぞいている。

  命題の構造が物の構造を構想するための尺度を与えるのでもなく、また物の構造が命題の構造において単純に鏡像化されるのでもない。両者、すなわち命題の構造と物の構造とは、それらの特質と、それらの可能な相互関係とにおいて、共通の、いっそう根源的な源泉に由来するのである。(同前、二一ページ)

  この文章の「命題の構造」を空諦、「物の構造」を仮諦、「共通の、いっそう根源的な源泉」を中諦ととらえれば、存在の構造性が浮き彫りになる。ハイデガーは存在の根源に三諦を模索していたのである。仏法の視点は、「命題の構造」「物の構造」「共通の、一層の根源的な構造」の、それぞれに三諦をとらえる。            
 西欧哲学・キリスト教と法華経の文底との違いは、日蓮が従果向因(仏から衆生へ=究極の実在から日常へ)の視点に立っているのに対し、西欧の哲学者たちは従因至果(衆生から神へ=日常から究極の実在へ)の視点に立っている点にある。そこに言葉による理想の体系化をめざす形而上学の陥穽が口を開いている。それは言葉で森羅万象を覆い尽くそうとする無謀な試みであり、遅かれ早かれトートロジーに陥らざるを得ないのである。
 法華経以前に説かれた権大乗経が説く二乗・菩薩の歴劫修行もまた、形而上学と同じ自己矛盾を犯している。形而上学は分析と綜合の繰り返しによって真実を追究する方法的原理だが、入れ子構造になっている分析と綜合の過程で、常に無限のものを切り捨ててきた。日蓮が厳しく破折する権大乗経の歴劫修行とは、言葉ですべてを覆い尽くそうとしながら、その過程で無限のものを切り捨てる分析的論理の譬喩にほかならなiい。

       三諦論の究極

 釈尊は多義的な譬喩で妙法を象徴的に説いた。天台大師は妙法を理の一念三千の法門として体系的に説いた。その妙法を法華経の文底から掘り起こしたのは、鎌倉時代に法華経を根本に新しい宗派を開いた日蓮だった。日蓮は末法の民衆のために弘安二年(一二七九年)十月十二日、法華経文底の妙法を文字曼陀羅として図顕している。
 哲学を生活の糧にしている現代の哲学者と、出世間の修行をした古代の仏法僧の違いはどこにあるのだろうか。それはハイデガーと釈尊との対比に照らし出されている。現代社会には、色法の出世間と心法の出世間がある。仏法僧といっても、現代社会には釈尊に習って出世間の修行をしている人は見当たらない。壮大な寺院や組織の経営者でもある人物に、釈尊の成道を相承する力量があるのだろうか。色心不二の修行と色心不二の成仏における修証不二を、どう読み解くかが問われている。 色心不二の成仏は本因妙を本とする修行の中に開く。本因妙とは妙法の曼陀羅である。問題は妙法の曼陀羅と、どう向かい合うかなのだ。人間は頭で考えるのではない。身体で生きる場の選択をしているのだ。頭だけで考えていると思っているときも、生きる場のマンダラに照らされている。その生きる場のマンダラを存在の根源という。日蓮が顕した曼陀羅は存在の根源を照らし出している。
  真実を語り続けるのが哲学だという見解がある。真実を語る価値は時と場によって変わるのではないか。価値は文化の枠組みの中で決まるのだ。それが生きる場の現実なのである。それを無視した抽象的な論議は哲学の名に値しない。キリスト教の神は言葉の一つの働きとしてのメタ言語であり、日蓮がとらえた妙法はメタ言語を生み出す根源なのである。言語を生み出す根源を言語でとらえることはできない。能生と所生の関係を逆転することは不可能なのだ。言語でとらえることのできない生命の根源の一法を、仏法は「言語道断・心行所滅」と位置づけ、それを把握する方法的原理を展開している。形而上学者はいまだに、色心不二の生命の場とは無縁の命題にとらわれ続けているようだ。哲学を解説する言葉は形而上学に陥る運命にある。形而上学を批判する言葉もまた、形而上学の枠組みの中に閉じこめられてしまう。そこに文上の法華経が象徴する形而上学の限界が示されている。法華経の文底、すなわち生命の真実を開く方法的原理は、マンダラ以外にないのである。         

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